19 黄龍の試し
青龍王は、霊香院の楼に十日ほど滞在した。
負った深手のせいですぐには龍身に変化できず、天に昇れなかったためだ。
院所有の四つの楼、その北端に建つ清雅楼はもっとも賓客の接遇に適している。
それで凪はしばし、この楼で霊香院の暮らしぶりを堪能した。
日中は湖周辺をそぞろ歩き、夜は酒宴に参加する。
宴は連日、朝方近くまで続いたが、老師はこれを一切止めなかった。
青龍王は少年のような若々しい容姿とは裏腹に、とんでもない酒豪だったのだ。
楼の湖を望む側の清雅楼一階には長窓が取りつけられ、外側には欄干が巡らされている。ちょうど中秋節の宵の口、赤い提灯が露台で揺れる中で、雫玖は琥珀と外の長椅子に腰かけていた。
中秋の満月がまばゆい。涼風に吹かれながら夜空に魅入っていると、からりと音を立てて近くの引き戸が開いた。
見れば黒い武官服姿の真雪が、手にひょうたんを持っている。
「すまん、雫玖、琥珀。俺だけ中で、青龍王と歓待を受けて」
「なんで? いいじゃない、王さまだし、今回の件の功労者なんだから。それに、けっこう凪とは気が合うでしょ、真雪は」
「まあな」
おまえも飲めよと露台に胡座をかき、琥珀の湯飲みにほとほとと酒を注ぐ。
それから顎を上げて、しみじみと二人を眺めた。
「……なんだかそうしていると、まるで夫婦者みたいだな。少し妬けるぞ」
「なに言ってるの真雪、酔ってるでしょ」
「酔っ払いもするだろ、そりゃ。あの青髪の大うわばみときたら、いくら飲んでも、けろっとした顔しやがって。俺は人間だっての。龍じゃねえっ」
どうやら凪と張り合って飲み比べたあげく、散々に負けて、こちらにきたようだ。
「放っておけ、雫玖。こいつは仲間はずれにされると、いつも拗ねる」
琥珀の物言いはにべもない。
「おまえこそ、なにをそんなに苛ついてるんだよ」真雪ははたと膝を打った。「そうだった。琥珀、中で青龍王がお呼びだぞ。なんでもどっかから伝令が来たとかで」
「は? なんの話だよ」
「知らん、自分で聞け。それに俺は今、雫玖と二人で話したい。おまえは外してくれ」
「ああ? なおさら行きたくねえ」
駄々っ子のようにごねる琥珀に、思わず吹き出してしまった。
「琥珀、行ってあげて、凪が困るから。それにわたし、あとで琥珀に教えてほしいこともあるし」
「……っ、すぐ戻る」
琥珀は去り際に雫玖の頭を撫でると、不承不承といった体で清雅楼の内に消えた。
「なあ雫玖。琥珀のあれ、独占欲だろ。珍しいよな、普段は執着心なんて欠片も見せない奴なのに。にしたって、おまえにべったりすぎじゃね?」
真雪はその背中を見送ると、おもむろに咳払いをした。
それから少し外へ出て散歩しないかと言う。――これは、もしかして。
立ち上がり、誘うように振り返った時の妙にかしこまった表情を見て、この幼なじみからなにを言われるのか、だいたいの想像はついてしまった。
清雅楼を出て二人で溜池のほうへむかうと、小道は月に照らされて煌々と明るく、時折、都のほうから景気の良い楽の音が流れてきた。まったりと優しいひととき。
「いい夜ねぇ、真雪。そうだ。今年の月餅は、もう食べたの?」
すると真雪は懐から竹皮の包みを取り出し、すかさず雫玖の手に落とした。
「やる。家鴨の卵入りだ。ガキのころから好きだったろ、それ」
「わあっ、ありがとう、嬉しい!」
ちょうど溜池端に独立亭があったので、さっそく中に入って月餅にかぶりつく。
真雪は鵝頸椅に寄りかかって楽しげに雫玖を眺めていたが、その口に最後の月餅が入るや、待ちわびたように身体を近寄せてきた。
「俺はまどろっこしいのは嫌いだ。雫玖、単刀直入に聞く。俺の嫁になる気はねえか」
「……え、と、それって、王の正妃にってこと?」
「ああ。今すぐじゃなくてもいい、成年になってからでも。来年の春には、おまえも十八だろ」
月餅の最後の欠片を、喉を鳴らして飲みこんだ。これはとても逃げ隠れできない。
雫玖は姿勢を正すと、まっすぐ真雪にむけて頭を下げる。
「ごめんなさい。とてもありがたいお話だけれど、その話、お断りします」
「おまえなぁ。少しは逡巡しろ。即答かよ」
「ごめん。真雪がすごく考えた上で、そう言ってくれてるのはわかってるから」
真雪はうかがうように目を細めた。
「なあ。それは雫玖が、あの琥珀を好きになったからか」
「……うん」
「あいつは龍神だぞ。おまえとは生きる世界がちがうが、それでもいいのかよ」
「うん。それでもいい」
「そうか。なら俺は、諦めるよりしかたねえなぁ」
真雪は所在なさげに首に手をやると、腰に下げていたひょうたんの中身を、ごくごくとすべて飲み干した。
「じつはこの縁談、元は昔々に、内大臣が親父に持ちかけてきた話だったんだよな」
「歳破さまが?」
「あのおっさんはさ、とにかく高瀬に惚れてやがったんだ。ま、俺だって高瀬の右腕として立つのが、夢だったわけだが……」
真雪の目尻はほんのり赤く染まっている。
「おまえの兄は、本当にいい男だったよ。柔和でも芯はしっかりしていて、人望が厚くて。波布王の異変に最初に気づいたのだって、本当はあいつだったんだ。高瀬だけが王のなりすましに感づいた。それで王を誅殺しようとして、返り討ちにあったんだ」
俺がもっとしっかりしていれば、あいつは死ななくて済んだのにと、心に秘めた痛みを絞り出すように呟く。難しい顔をして息を吐いた。
「雫玖。正直に答えろ。――俺は本当に、蓮王にふさわしいと思うか」
低い声がわずかに震えている。
「高瀬の生き写しみたいな青龍王に『王をやれ』と言われた時には、これも天の差配なのかと思ったけどよ。あの龍神は、高瀬とは似ても似つかない別人だ。ちがうか?」
「ちがわない」
「だよな。俺は汀の意志を大事にしたい。民が、蓮に住んで良かったって思える国にしたい。おまえの兄貴の遺志も継ぎたい。……でも同時にわかっちまうんだ、俺は高瀬にはなれねえなぁって」
「うん。いいんじゃない、それでも」
「雫玖……」
「だって真雪は一人じゃないでしょ。山河をどう使ったらいいか、知りたければ琥珀に聞けばいい。政事の善し悪しなら、歳破さまや他の文官を頼ればいい」
武骨な手を、両手で優しく包みこむ。
「大丈夫。真雪の覇気はね、兄さまと、ちゃんと同じ色と強さで輝いているから。だからわたし、あなたを王に推したの」
すると真雪はがっくりと首を落としてうなだれた。手で頭をがしがしとかく。
「あーあ、くそ。惜しいなぁ」
「なにが?」
「従兄の阿南王子ばっかり気にしていたら、まさか横から龍にかっさらわれるとは。俺はおまえが洟垂れのころから、まじで嫁にもらうつもりだったのに」
知らなかったのは雫玖だけだと、恨みがましく真雪は言った。高瀬が阿南から妹を遠ざけたのも、今まで有力な縁談がこなかったのも、すべて将軍と内大臣が裏で結託していたからなのだと。――琴が聞いたら、卒倒しそうな話だ。
「そういえば阿南はどうしているの?」
「あの王子は、地方に引きこむそうだ。半月後に、身重の母親をつれて宮城を出るってよ。内大臣は魅音妃を庚国に戻したがってるが、今後の話し合いしだいだろう」
「そう」
雫玖に政事はわからない。でもあの阿南なら、魅音の処遇をうまく差配しそうだ。
「まあ俺は、自分が負けたのが琥珀ってなら、悔しいが納得はできるんだ。ずっと一緒に高瀬の側付をやっていたが、あの龍は頭が良いし、強えからな。性格はひん曲がってるし、人でもねえけどさ」
「それ、琥珀を褒めてるの。けなしてるの」
口を尖らせると、真雪は青白い月に照らされながら、白い歯を見せて笑った。
「俺は王として最大限、雫玖の選択を尊重もするし、支えてやるって言ってんだよ。ただし一つだけ、約束してくれねーか」
「なにを?」
「おまえ、もしそのうち琥珀の娘を産んだら、俺の息子の嫁にくれ。そうしたら次王の正妃にしてえからよ」
まるでそうなるのがもう、確定しているかのような断言調だった。気持ちはわからなくもないけれど、まったくこの国の男たちは。雫玖はあきれ顔で武官の肩を叩く。
「真雪。気が早すぎ」
琥珀のことは好きだ。ずっと側にいたいし、いてほしい。
でも当初の目的が達成され、兄の遺言も成った以上、あの影龍がこのまま蓮国に留まるのか、いずれ黄龍に呼び戻されてしまうのかは、正直よくわからない。きっと本人にも決めようがない話だろうから、我が儘を言って困らせるわけにもいかない。
「先のことは、その時になってみないとね」
失う時は、いつも一瞬なのだ。父母も兄も失い、努力ではどうにもならないこともあると思い知った。――その時、真雪が身じろぎ、なにか吹っ切れたように苦笑した。
「どうやら追いかけてきたぞ。粘着質なお目付役が」
琥珀が木立を抜け、夜道をひた走ってくる。まっすぐこちらにむかって。
「じゃあな。俺は裏から清雅楼に戻るから、あとはうまく言いつくろっておいてくれ」
真雪は唇に人差し指をたてるや、そそくさと亭を出て行ってしまった。




