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いつのまにか空は美しい茜色だった。木立を抜ける涼風が少し肌寒い。けれど龍の雨に打たれた身体は不思議なことに、もうほとんど乾いていた。どうやら凪の降らせた霊水は、蒸散が並みの水滴よりも数段速いようだ。しかもなぜか身体がひどく軽い。今まで巣くっていた悪い憑きものが落ちたかのように。これも青龍の霊力がなせる業なのだろうか。
雫玖は吐息をついた。まさか立太子の儀があんなふうに幕引きするなんて。始まる前は琥珀もいなかったし、どうなることか、不安で押しつぶされそうだったけれど。
それが今ではそばに霜葉と琥珀と凪がいて、こんなにも穏やかな気持ちで宮城を歩けるなんて、夢みたいだ。それなのに――。
「……真雪のやつ。今さら雫玖となにを話すつもりだ。まさか抜けがけとか? いや、それはねえか、さすがに」
先ほどから、頭上でぶつぶつと呟く声が聞こえる。首をかしげた。わからない。ずっと懸案だった王の選定が終わった、賊も倒した、仇討ちもした。
なのに隣にぴたりと張りついたまま、なんでこんなにも琥珀は不服そうなのだろう。
「えっと、真雪を王さまに選んだの、まずかった?」
「っ、いいから鏡を貸せ、雫玖。持ってやる。また割られたら大変だ」
琥珀は横目で嫌みたらしく霜葉を睨んだ。
「今日まで皆にバレなくてよかったですけどね。もう止めてくださいよ、老師。いきなり思いついて、神器の鏡をぶち割るとか」
えっ、どういうこと、と雫玖は声を上げた。しかし霜葉はどこふく風と言った顔だ。
「なんだ、まだ聞いてなかったのか。老師は雫玖に黄龍の試しを受けさせたくて、どうしたらいいか考えたあげく、出来心でガツンとやっちまったんだよ、鏡を。ったく将軍といい真雪といい。この親子三代はひらめきが青龍並みってか、脳筋っていうか」
ではなんと、鏡を割った犯人は賊徒ではなく霜葉だったのか。すると老師は言った。
「琥珀よ、一つ訂正しておくぞ。雫玖のためもあったが、わしはこの国に御幸された龍、そちを失いたくなかったのじゃ。それは高瀬がずっと願っていたことでもある」
あんぐり口を開ける雫玖から鏡を取りげ、脇に抱えると、琥珀はふいと横をむく。
「……まったく、どいつもこいつも。俺のことなんか、どうでもいいのに」
やはりかなり機嫌が悪い。どうしたんだろう。
いぶかしんでいると、歩きながら水晶筒の水を飲んでいた凪が、ぼそりと言った。
「いいじゃないか、腕っ節が強いのは良いことだ。それより雫玖姫、今日はよくがんばったな。えらかったぞ。あんたの兄上も、きっと妹を誇らしく思っただろう」
どうやら兄代わりをすると言った手前、先刻から凪も、雫玖に声をかける隙をしきりとうかがっていたようだ。
「そうだ凪、ありがとうね、助けに来てくれて」青龍がきてくれなかったら、本当に今頃どうなっていたことだろう。「ねえ、その大怪我、本当に大丈夫……?」
凪の肌は紫に変色して腫れ上がり、見るも無惨にあちこち出血している。
「大丈夫だ。今、龍脈水を飲んだ」
痛みなど知らぬという顔だ。でもあの黒蛇は封印された破壊神の呪だというし、なにも感じていないわけがないだろうに。抗議を表すように眉を寄せると、凪は指で頬をかいた。
「そんなに心配するな。じきに治る」
すると琥珀がまた、すこぶる不機嫌な声を出した。
「そうだ。凪は阿呆みたいに頑丈なんだ、放っておけ」
「そういや琥珀、あの真雪とかいうやつ、良い王になりそうじゃないか。良かったな」
「ああ」
「なあ。琥珀はじつのところ、雫玖姫の兄が亡くなってから、次王は真雪にすると、もう腹の内で決めていたんだろう?」
淡々とした凪の言葉を聞いて、雫玖は目を丸くした。
「琥珀。そうなの? それならそうと、言ってくれたら良かったのに」
「俺は、あくまで雫玖に選ばせたかったんだ」
さりげなく空いた手をつかまれ、しっかり指を絡められる。
それを見た凪はまた渋い顔をして、話しづらそうにぼそぼそと呟いた。
「まあ俺はべつに、雫玖姫が王でも良かったけどな……」
「雫玖はダメだ。王って柄じゃねえよ。人の痛みや悪意に敏感だから、きっと王になったら無理してがんばって、たくさん傷つく」
「そうか?」
「そうだ。あんたは常に力押しだから、そういうの全然、わかんねえだろうけど」
ぴしりと明言され、凪はわずかに視線を落とした。これはけっこう落ちこんでいる。雫玖はたしなめるように手を握ったが、琥珀は滔々と話し続けた。
「それに王ってのは大勢の人生を肩に背負って、独りで立ってなきゃならない。もう二度と好きな髪型をして木登りもできねえし、思ったままを口に出せなくなる。俺は雫玖を、そういう一国って太い鎖で縛りたくない」
「おい、それは真雪ならいいのか。もし雫玖姫が王になるっていうなら、俺は全面的に協力してやるつもりだったのに」
「な、に……?」
「姫はもはや俺の妹同然だ、なにか問題があるか。なあ琥珀。おまえはただ単に、黄龍のように姫を自分の腕の中に囲い入れて、皆の目に晒したくなかっただけなんじゃ」
凪が言いかけると、とたんに琥珀は瑪瑙そっくりの、刺すように皮肉げな目つきになる。
「なに言ってんだ凪。真雪は神剣を抜いた漢だぞ。いいか、雫玖はあんたや、あいつみたいな筋肉馬鹿じゃねえんだよ。ちょっと歩いただけで足を痛めるし、吐くし、酔うし」
気のせいだろうか。ひょっとしてこれ兄弟龍喧嘩、いや、鍔迫り合い――?
「だいたい、この俺の見立てにケチつけるとは、いつから青龍が蓮の守護龍になったんだろうな」
「なんだと、琥珀。どうしておまえ、そういう言い方しかできないんだ」
「ふん。誰がなんと言おうが、高瀬の妹は王にむいてねえんだよ」
妙に力強く断言されて、雫玖は頬を膨らませる。琥珀が言うならそうかもしれない。ただ、無能だと思われるのは心外だし、酔うって。それはさすがに、王の適性と関係あるのだろうか。
「ふっふ。ほんに琥珀も、こう好敵手が多くては大変じゃのう」
だが結局、異議を唱えるのはやめておいた。
また老師が声を押し殺して笑っているのが、視界の端に見えたからだ。
蓮国で起きた偽王の変の顛末は、たまたま異国特使が多く招かれていたせいもあり、速やかに各国へ伝達された。
その際、霊異を起こす龍の降臨譚も余さず伝わったという。こんな具合に。
――前略、皆々殿、蓮は小国だが、くれぐれも侮ることなかれ。
かの国の守護龍は、ありていに申して脅威である。
龍神とは非常に獰猛、剛力、傲慢であり、人の話を聞かず、気に入らぬことあれば、すぐに天変地異などを起こす。
ゆえに現状の最良策は、『君子危うきに近寄らず』。蓮国王とその民に、かの謀龍を崇め奉らせ、我が国はなるべく武龍を刺激しないことにつきる。草々。
かくして汀の意志を継ぐ新王は無事、蓮国に立ち、国存亡の危機は去ったのだった。




