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そのころ雫玖は、意気揚々と花園脇の回廊を歩いていた。うららかな日ざしが蓮池の水面を輝かせている。その脇には桃や梅の木が植えられ、萌え出たばかりの緑苔の上に、薄紅色の花びらを散らしていた。
「まったく。魅音さまの仕打ちはひどすぎます。姫さまは仮にも先王妃の娘ですのに」
侍女の琴は激しく憤慨していた。この恰幅の良い四十路女、元は母付きの侍女だった者である。
「先王妃でも、わたしの母さまは蓮の少数部族、紗里の民の出だもの。きっと庚国からお輿入れした魅音さまは、わたしを王族として認めたくないんじゃない」
「まあ姫さま、ご自分でそれを言う」
「琴、そんなに悲観しなくても大丈夫よ。霊香院は外廷にあるけど、西門を出てすぐだもの。お勤めが終わったらすぐに戻れるし」
「距離のお話をしているんじゃありませんっ。一月前に女官が、かどわかされる事件があったばかりなんですから。外廷は危のうございます」
「ええ、でもそれ、武官と逢い引きしてたって子でしょ」
「なぜそんな話をご存じなのですか」
「庭師たちに聞いたの、最近、下女の間で外勤めの官と恋仲になるのが流行っているって。いずれにせよ、渡りに船だったわよ。わたし前々から、霊香院に戻りたかったもの。月の物がきたとたんに兄さまは外廷出禁にしちゃったけど、どうせ『奇異の姫』に縁談なんてこないのにねえ、あはは」
「笑い事じゃありませんよ、まったく!」
琴は困ったように眉を寄せる。雫玖は立ち止まると、朱塗りの欄干にもたれながら花のない蓮池をのぞきこんだ。
「わたしはもう王太子の妹じゃない。利用価値の薄い姫なんて邪魔なだけよ。あーあ、まさか庚国が、ここまであからさまに兄さまを狙うとは思わなかった」
「姫さま、お口がすぎますよ」
「あら、現状くらい読めているわよ、わたしだって。どうせ今回の王太子暗殺事件は、魅音妃が産んだ王子を次王に擁立するため仕組まれたことでしょ」
庚国とは、蓮国の東にある大国だった。そして蓮を属領にしたがっている。しかし、いかんせん蓮は古来より龍神に守護されている。五十年前、庚が五万の兵で行軍してきた時も暴風雨が吹き荒れ、一夜にして軍は壊滅した。庚はそれ以来、縁戚関係を結んで蓮を乗っ取るほうに舵を切ったのだ。
「……げ、なんで? その本人が来たんですけど」
雫玖はあからさまに顔をしかめた。綿入りの繻子織を着こんだ青年が、こちらを目指して近づいてくる。金糸がきらめく藍色の長衣。その上には一重まぶたのうらなり顔。阿南だ。母に似た柳眉に白い肌で、美男と言えなくもないが、なよなよしい。後ろに続く護衛官が、色黒の大柄で利かん気そうなのとは対照的だ。
「おや、雫玖ではないか。奇遇だな」
他国の後宮は男子禁制らしいが、蓮国の奥宮は王族と護衛官は自由に闊歩できる。
「ごきげんよう、阿南。今日はなぜ花園へ?」
「私はおまえの二つ年上だぞ、なぜ兄さまと呼ばないのだ。不敬である」
雫玖はうんざりと相手を見やった。阿南は従兄だが、昔から嫌味なことばかり言って絡んでくるいじめっ子で、良い思い出はない。
「はいはい、申し訳ございません、兄さま」
「おい、なんだ、その言い方は。花園のこのあたりで高瀬が息を引き取ったのであろう。せっかく弔問に来てやったのに」
つ、と阿南が隣に立つ。なんだかいつもより距離が近い気が。いぶかしげに雫玖が顔をかしげると、途端にそわそわと落ち着かない様子になった。
「その、なんだ。私がこのたび王太子の座につく話は聞いているか」
「ええ。でも真澄鏡に姿を写すのはまだなんでしょう? いつなの、儀式の予定は」
「一月後の正午だ」
「ふうん、そう。まあ、がんばってね」
蓮国では遠い昔に神龍の加護を受けて以来、次の玉座に座る者は必ず神器にて選定される。具体的には、まず龍の宝鱗が埋めこまれた鏡に身を映す。見事映れば、次に名乗りを上げ龍から神託を得る。それから神剣を天にかざして王位継承を宣言。この三段階が必要だ。もし鏡の反応がなければ、別な適任者を探さなければならない。
「なんだその、他人事みたいな言い方は。母上の命により、雫玖はこれから霊香院で神器を改めると聞いたが」
「そうよ」
「ならば霊法師どもから情報を集めてはくれぬか。高瀬がどうやって龍の信頼を得たのか」
「えー、いやよ。自分で聞けばいいじゃない」
雫玖はあっさり阿南の頼みを断った。
「正々堂々、龍の試しを受ければいいだけでしょ」
「それはそうなのだが。母上と取り巻き連中が、万が一にも私が選ばれぬと触りがあると申しておってな。少々、辟易している。私は面倒事はすべて高瀬がやるものだと思っていたし、自分はそのうち北の荘領にでも行かされると踏んでいたのに」
どうやら阿南本人は、体よく地方領主の座に納まる未来を思い描いていたようだ。
「なによ。せっかく運が向いてきたんだから、せいぜい期待に応えれば? もしダメだったら、王が別な王子を立てるだけでしょ」
「だから。成り行き上、私は是が非でも玉座に収まらねばならぬことになっていて、今、切羽詰まっている。高瀬暗殺の真相を教えると言ってもダメか」
おそらく最初から断られると踏んでいたのだろう、阿南はとんでもない条件を出してきた。
「えっ、ちょ、なにそれ?」
「ふん、顔色が変わったな。いいか、平生よりおまえは辺鄙な離れに引きこもって、侍女も一人しかおらぬが、私は奥宮の中枢にいるのだ。なんでも知っている」
「なによ、辺鄙な離れって、失礼ね。それになんでも知っているって、そんな、本当なの?」
「本当だ。だから猶予をやろう」
否やを言わさぬ強引さで、阿南は雫玖の前に立ちはだかった。後ろの男を指さすと、
「儀式前日の夕刻に、この豹叉をおまえの離れに使わす。それまでに有益な情報を仕入れて、東宮へこい。良いな」
言いたいことは言ったとばかりに東へ去って行く。男二人の背中を見送り、琴はほうと息を吐いた。
「いきなりなにを切り出されるかと思えば。捨て置かれませ、雫玖さま。阿南さまは魅音さまの御子です。しかもあの護衛はたしか漆氏の出ですよ。漆と言えば、かつて朝廷で絶大な権力を握っていた礼拝師一族です。なんでも怪しい呪術を使うとか。なにかの罠かもしれません」
「やだ」
「姫さま!」
「だってこれって、願ってもない機会かも。わたしの行動は全部、阿南のせいにできるもの。それに、聞いてた? あいつ、高瀬兄さまを殺した犯人を知っているって言ったのよ。無視できるわけないじゃない」
「いいですか、この奥宮は魔魅の巣です。いつ何が起きてもおかしくはない。現に高瀬さまもお亡くなりになられました。ですからどうか姫さまは、ご自身の縁談が成るまで、極力大人しく暮らしてください。琴は姫さまには幸せになってほしいんです」
涙ぐましい説得に、眉間の皺が寄ってしまう。琴の言い分はまちがっていないし、よくわかる。わかるのだけれど納得はできない。
「可愛げが無いって思われて、嫁にもらってもらえないからって、それがなに? わたしはおかしいことは、おかしいって言いたいの。父さまは在位中に突然、心の病で身罷られた。そして今度は高瀬兄さまが矢で射られて。どう考えたって不自然すぎる」
「姫さま、お声が大きい」
「父さま亡き後の王は弟の波布叔父さま、それは龍が選んだんだから、もういいけど。わたしの兄さまだって、選ばれた太子だった。なのに、その兄さまをみすみす見殺しにしたのよ、蓮の守護龍は。じゃあ本当に次代の王にふさわしいのは誰なのって思うし、聞きたくもなるじゃない」
欄干から離れた。高瀬が息を引き取った回廊脇まで歩いていく。ちらほらと緑葉を芽吹かせた桃の木の前で拱手し、まぶたを閉じて祈りを捧げた。それから呟く。深く、言い聞かせるように。
「兄さまはこの国をもっと良くしようとしていた。その志は妹であるわたしが引き継ぐから。どうか見守っていてね」




