18 立太子の儀
宮城外廷の南方面に、祈念殿という殿舎がある。龍を祀り五穀豊穣を祈願するための建築で、この祈念殿の前庭部分には、儀礼を執り行う圜丘があった。
秋分の日は晴天で、この日、圜丘には大勢の官吏が集まっていた。これから始まる立太子の儀に参列するためだ。
露台は三重円形の石造りだ。一段目の円形が一番高く、弧状に傾斜を描いて四方に階段があり、中央で発声すると、周囲を巡る欄干に音が反響する仕組みになっている。
その最上部の北向きには天蓋付きの玉座二席に王と王妃が、その左右脇に内大臣と阿南王子が、それぞれ立っていた。二段目には高級官吏と異国特使、三段目には下級官吏や武官たちが居並ぶ。
そして皆が注目する圜丘中央、まさにその場に雫玖はいた。
霜葉老師とともに、真澄鏡をかざす大任を王より仰せつかったからだった。
「……それではこれより、王太子の選別を始める」
正午すぎ、歳破内大臣がそう宣言して、儀式は挙行された。ついにこの日がきてしまった。雫玖は霜葉と、腰刀ほどの銅鏡を持って玉座の対面に立つ。
青龍の鱗を四隅に張った円盤型の鏡は、阿南王子をはたして選ぶだろうか。
真澄鏡は真理を映すという。だが雫玖が今、気がかりなのは、王族が入場する直前に、三段目にいたはずの豹叉が忽然と姿を消したことだ。なにを企んでいるのか――。
「では阿南王子、鏡の前へお出まし下さい」
霜葉老師が声を張り上げると、鮮やかな赤い朝服の王子がしずしずと近づいてくる。厳かな楽曲と編鐘が鳴り響き、黒い六縫靴の音が大理石の床に響く。
「おお、なんと」
「ご立派な」
多くの者がその立派ないでたちに感嘆の声を上げる中、雫玖だけがまっさきに異変に気づいた。
阿南は歩くのも苦しそうに、口を引き結んでいる。その額にはびっしり汗が浮かんでいた。その霊動から、すぐに原因は察せられる。おそらく黒蛇が身体の奥まで入りこみ、内側から口を塞がれているのだ。――どうしたらいい。誰に助けを求めたら。
視線を彷徨わせて息を飲む。王子の歩みと示し合わせたように、高級官吏の内から文官が一人、一段目に上がってくるのが見えたからだ。
その文官は霊香院の官服を着ていた。玉座に拱手し、内大臣と霜葉に一礼してから雫玖の隣に立つ。その態度がひどく泰然としていたため、これも儀式の一環なのだと大勢が勘違いした。心底驚いていたのは雫玖と、どこぞに潜んだ豹叉だけだったろう。
「琥珀、どうやって……?」
雫玖は顔を前にむけたまま、かすれた声で囁いた。鏡を支える手が震える。どうやってあの霊廟を抜け出せたのだろう。心中、悶々としていると、
『悪い、雫玖。大丈夫だったか。やられた傷を回復させるのに時間がかかっちまった』
頭に直接、思念が響く。――これ、念話だ。
『おっと、表情を表に出すなよ。どこかで見ている豹叉に感づかれる』
言われて慌てて下をむく。
『じっとしてろ。今、あんたに危害が及ばぬよう、防護膜を張ってやるから』
琥珀の袖がわずかに背中に触れ、水の中にいるような錯覚を覚えた。
周りの喧噪が遠のき、別な空間に入ってしまったような違和感。
急に、一人一人の発する霊気がよく見えてくる。
雫玖のほぼ対面にいる魅音王妃は菫色、右の歳破内大臣は照柿色。その奥、二段目の錏将軍は鉄紺色、隣の真雪はひときわ強い黄檗色を放っている。
だが阿南から立ち上るのは、まるで黒煤のような霊気だった。
すると霜葉がゆったりした動作で手を上げ、鏡に近づく王子の歩みを制した。
「――阿南さま。しばしその場で、お留まりを」
「何事だ、霜葉」
内大臣が慇懃に声をかける。
「どうやらこの儀、このまま続けるには、触りがあるようでございます」
どういうことだ。周囲がざわつき始める中で、また琥珀の思念が脳天を打つ。
『空を見ろ、雫玖』
はっと顔を上げた。なんだ。先ほどまで雲一つない晴天だったはずが、急に湧き出た黒雲で暗くなっていく。ひゅう、冷たい風が吹き、遠くで雷鳴が響いた。
「皆々様。あいにく霊異の出現と相成りました。これより龍神雲が参ります。霊香院大師が今から厄除けの祈祷を致しますので、どうか、ご静粛にご清覧下さい」
圜丘に集った人間は一様にどよめいたが、老師はまるでこんな事態は日常茶飯だと言わんばかりだった。
三つ柏手を打つと、雫玖の背後にいた琥珀が、圜丘中央に進み出る。
青年は四方に一礼すると、おもむろに演舞を始めた。
一体なにがどうなっているのか。注目する官たちをよそに、若い大師はしきりと両手を打ち鳴らし、跳躍し、広い圜丘を軽業師のごとく爆転する。
そのまま流水のごとく胸元から苦無を取り出すや、上空へ向かって投げ上げた。
ひょう、苦無の刃は空を切って最高点で煌めき、そのまま阿南王子の目前に突き立つ。その瞬間だった。刃に呼応するかのように、圜丘の真上で雷鳴が轟いたのは。
どおぉおぉおん。
人々は悲鳴を上げ、頭を抱えて場にうずくまった――当然だろう。雲の合間にちらりと見え隠れする、あれはどう見ても雷光ではない。なにか別の、巨大な生き物。
「……り、龍だ!」
誰かが叫んだ。その声はたちまち周囲に広がり、喧噪に代わる。
「見よ、神が!」
「我らの真上におわすぞ!」
もはや疑う余地もない。この雷雲は、龍の出現によってもたらされたのだ。
そして今や、神獣は人々の頭上をぐるぐる旋回している。
場が騒然となる最中で、ぽつ、大粒の雫が落ちてきた。
その雫は、あっという間にざあざあ鳴る、白い豪雨に変わっていく。
「どうか皆さま、ご静粛に」霊異に恐れをなし、圜丘から逃げだそうと官たちが動いたせつな、老師が叫んだ。「一歩たりとも動かれますな。神のお怒りに触れますぞ!」
その言葉どおり、耳をつんざく雷光が、圜丘のすぐきわに落ちる。
人々はぶるぶる震えながら、今や天にはっきりと姿を表した龍神を見上げた。
海のごとき優美な体躯。立派な角と青いたてがみ。なんと美しくも神々しい青龍だろう。ただし射殺さんばかりに爛々とした、眼光さえなければだが――。
「おお、神よ、我らはどうすればいいのだ」
「どうかお怒りをお鎮め下さい」
皆が次々に叩頭していく。無理もない。この龍こそは、蓮国に住まうなら知らぬ者はないほど、有名な龍神だったのだから。
かつて破壊神さえ討ち滅ぼしたという、伝説の青い牙。――武の象徴、青龍王。
『雫玖、ぼんやりするな。今だ。舞台は整った、あんたが凪を呼べ』
丸く口を開いたまま、空を見上げていた雫玖ははっと我に返った。
見れば固まる阿南の横で、苦無を拾い上げた琥珀がさりげなく手招きしている。
どうも、なにかがおかしい。――すべてが最初から仕組まれているような。
なんだろう。けれど今は、そんなことを気にしていられる状況ではない。
「っ、霜葉さま、どうか鏡をお願いします!」
鏡を離すと琥珀の横へ走り出て、天へ両手をさしのばし、力のかぎり叫ぶ。
「青龍王! どうかその御姿をお現し下さい!」
せつな、今度は圜丘のど真ん中に雷が落ちた。一瞬で露台が同心円状に陥没し、大地がぐらぐら揺れる。ずぶ濡れになりながら、人々はたまらずその場にひれ伏した。
「……俺を呼んだか、雫玖姫」
それからややあって、涼やかな声が静まりかえった圜丘に響いた。
こわごわと顔を上げた雫玖が見たのは、薄く全身から水蒸気を噴いている長髪の若武者。背高痩身、藍の半臂に長袴姿、背には重そうな大刀が鎮座していて――象徴的な、青いたてがみのような髪をした。
まさか、あれが青龍王なのか。人々は顔を見合わせた。
蓮国の古き伝説によれば、青龍は筋骨隆々とした体躯の大男で、身の丈ほどの大刀を振り回す壮年の武将である。――だが、あの若者はどう見てもまだ、二十歳前後だ。
いぶかしむ官吏たちを余所に、雫玖だけが恐れ知らずに若者に近づいていく。
「ねえ凪、まずはこの雨を止めてくれない? このままじゃ、みんな濡れ鼠よ」
不遜にも腕組みして仁王立ちになったので、多くの官吏が目を閉じた。終わった。気の毒だが、不遜極まりない奇異の姫は、秒で龍神に殺されるだろう。
「ああ。本当だな、気づかなかった、悪い」
ところが若者は怒るどころか、姫の頭を一撫でした。しかも奇遇なことに、よく見ればその顔立ちは姫の亡くなった兄の王太子、高瀬にそっくりである。
もしや亡き王太子が、龍となって妹姫に逢いに来たのかもしれない。
多くが内心でそう考えた時、若者がその手を拳に変え、天に突き上げた。
すると、ごうと拳圧の風が唸り、たちまち雲が同心円状に吹き飛んで、圜丘の上だけに青空がのぞいた。直後、どぉん、遅ればせながら腹にくる重低音が鳴り響く。
「で? あんたが今回、次王に名乗りを上げたいって言う王子か」
若者は阿南に気安く話しかけたが、すでに王子は腰を抜かしてへたりこんでいた。雫玖の脳裏に、官たちの思念が響いてくる。――あの尋常ならざる膂力、まぎれもなく青龍の化身だ。奇異の姫は龍神を呼べるほどの巫だったのか。たしか紗里の民は、ああした者を仙客と呼ぶのでは。くわばらくわばら、これからなにが起きる。
「……恐れながら青龍王に申し上げる」そんな皆の気持ちを代弁するように、内大臣が進み出て拱手した。「王はなぜ今日、この時、この場に顕現なされたのか?」
「雫玖姫、この者は」
「蓮国の内大臣、歳破さまよ」
「そうか。では顔を上げて聞け、歳破内大臣。それに蓮国の官たちもだ。俺が今日、この地に降り立った理由は、ただ一つ。仙客の姫に、次王の選定に必要な新しい神剣を受け渡すためだ」
青龍は若い声を張り上げた。おもむろに腰に佩いた長剣を抜くと、天にかざす。
それは濡れた水晶のような輝きを放つ、世にも見事な大剣だった。
「蓮の神剣は、この青龍が所有する刀身と混ぜ合わせ、龍の国にて鍛え直された」人々の視線を集めて、陽光を反射した刃が輝く。「見よ。この剣こそ、新たな蓮王が持つにふさわしい逸品である――!」
鏡のごとく青く輝く刀身。それを青龍は圜丘に突き刺した。一筋の迷いもなく。
衝撃でまた、ぐらぐらと露台が揺れる。
「よってこれより、我、青龍王は神剣をここから抜き動かせた者を、国主と認める!」
雫玖はあっけに取られて凪を見た。
あいかわらず表情が読めないが、これはおそらくどや顔だ。
しかしこの宣言は明らかにまずい。今までの慣例を完全に無視している。まさに凪のやり方だと言えばそれまでだが、いったい誰が、この場を収拾するのか。
救いを求めて琥珀を見やると、一切の感情を顔から消して素知らぬ顔だった。
「え、ひどっ、なんでそこで他人のフリを?」
ならば霜葉はと視線を移すと、袖で必死に口を隠している。
老師、笑っている場合ではないです。憤然としつつ、異変に気づく。
多くの官たちの目には、いつのまにかひどく興奮した光が宿っていた。
「青龍王!」「高瀬さまっ」「青い牙、万歳!」「龍神に、栄光あれ!」
官の一人が叫ぶなり、次が、また次がと声が上がり、にわかに大歓声が沸き起こる。
その横で錏将軍と歳破内大臣が、二人で目配せしあっていた。
なぜ。おかしくはないか、あの二人、犬猿の仲のはずなのに。
雫玖の胸で警鐘が鳴り響いた。そもそも最初からなにか妙だったのだ、この儀式は。
視線を巡らすと、真雪が参列人をかきわけて階段の手すりを跳び越え、段を駆け上がってくるのが見える。きっとこの状況を見かねて、助けにきてくれたのにちがいない。ほっとした瞬間、
「――静まれ!」
凪がよく通る声を張り上げた。
「雫玖姫」
「はい」
「先ほど俺を召喚したのはあんただ。つまりあんたには、この場の差配権がある」
「はい?」
「蓮国の、正当な王の息女よ。あんたがまず、龍の剣を抜いてみるか?」
しん、場が静まった。
「これも青龍の試しだ。受けるも引くも、あんたしだいだぞ」
「は……」
頭の中が真っ白になる。凪が言っているのはつまり、雫玖自身が王に立つかと、――そういう話で。気づけば衆目もはばからず、大声で叫んでしまっていた。
「な、な、なんでわたしがっ」
「なんでって。べつに俺は、あんたが王になってもいいと思うんだが。民想いだし」
いやいや待て。雫玖は頭を抱えた。今までの短い付き合いからして、こういう場合に凪の話は信用できない。どうしようと琥珀を見やると、
『雫玖がどうしてもやりたくないってなら、凪に他の候補者を推薦してみたらどうだ』
今度はまっすぐ視線を合わせて助言してくれた。
『ちなみに俺はダメだぞ、龍だから』
そうか。そうだった。琥珀の横でうずくまっている阿南が目に入る。
ダメだ、ちがう、この従兄は王の器ではない。
王の器とはあくまで兄、高瀬のような覇気を持つ者がなるべきだ。
でもそんな人間、都合良く他にいるはずが――。
「あ」
まばたきした。そう言えば、いた。一人だけ。兄と同じ金の覇気を持つ者が。
「青凪に謹んで申し上げます。残念ながら、わたしに剣を抜く力はありません。なので代わりの者を推挙したく」
「いいぞ、許す。誰だ?」
「あそこに控える錏将軍が息、真雪です」
雫玖にはっきりと指を刺された真雪は、ん、と息をつめて足を止め、一拍のちに素っ頓狂な声を上げた。
「はぁ? 俺かよ?」
雫玖は真雪にかけよると、思いきり幼なじみの手首をつかんだ。
「お願い真雪。剣を抜いて、もうあなたしかいない」
爪先だって耳打ちすると、相手はぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜる。
「いやいや、でも俺はただ、おまえがやばそうだったから、ちょーっと上に上がってきただけっつーか」
「だって、どう考えたって、わたしにあの深々と刺さった剣が抜けると思う?」
「……無理だな」
「でしょう。じゃあ助けると思って抜いてよ、他にどうしたらいいの?」
「どうしたらって言われてもなあ。つか、あの龍、本当に高瀬じゃねえの? 髪と目の色をのぞけば、本人そっくりじゃねえかよ」
「それは最初に、わたしも思った」
どうやらその確認もあって上段に上がってきたようだ。真雪の手をつかんだまま凪の前までつれてくる。すると青龍は恬として胸を張った。
「あんたが青龍の試しを受けるのか。真雪とか言ったな。よし、では抜いてみろ」
「……はっ」
真雪は目を細めて凪を見つめた。まだ高瀬の生まれ変わりかと疑っているようだ。
それからややあって、意を決したように剣の柄に手をかける。
ぐ、全身の筋肉が引き締まり、太く盛り上がった。
鋼のごとき腕が、少しずつめりこんだ剣を上に持ち上げ始める。
「ほう。怪力だな」凪がまんざらでもない顔を見せた。「人間にしては上出来だ」
うるせえ、黙ってろ、と筋骨隆々とした背中が語っている。
そう言えば真雪は昔からけっこう利かん気だから、今の凪の言葉を聞いて、喧嘩を売られたと勘違いしているかも。
両手を口にそえて霜葉を見やると、老師は真っ赤になって笑うのをこらえていた。ひどい。ここも笑うところじゃないです、霜葉さま。と、その時、
「――お待ちあれ! 青龍よ!」
玉座から甲高い声が上がった。
「そこな武官を試す前に、まずわたくしの息子に試しの機会を!」
丸く大きな腹を手で押さえながら、王妃が天蓋の外へまろび出てくる。
「魅音さま、危ない!」
今にもよろけて転びそうになるので、走り寄って支えると、強く手を振り払われた。
「雫玖、阿南はそなたを好いておるのにっ」至近距離で燃えるような瞳が雫玖をねめつけた。「なぜ錏将軍の息なぞを推挙した。すべてが台無しじゃ、赦さぬぞ……!」
怒りに狂った女の顔。背中に冷水を浴びせられたような心持ちがした。
「魅音さまっ、どうか、お身体をおいとい下さい」
「だまれ、しょせんそなたも高瀬の妹よ。さては、こうなることを狙っておったか」
完全な言いかがりだ。王妃の白い指が、高く結い上げた髪の中から簪を一本引き抜く。目を見開いた。
「魅音さま、なにを」
その切っ先が過たず雫玖の目をねらったせつな、筋肉質な腕が間に割って入った。
勢いよく血しぶきがあがる。雫玖はわなないた。ひどい。右腕を貫通している。
「王妃さま、青龍王の御前ですよ。お控えください」
しかし琥珀は何食わぬ顔で簪を引き抜くや、無造作に床に捨てた。乾いた音が立つ。
「なんだとこの、霊大師ふぜいが」
「――王妃よ! そこに直れ!」
すると、それまで黙って様子を静観していた凪が、厳しい声を上げた。
「仙客を軽んじ、龍の試しを妨げるとは。罰として、王子には別な試練を与える」
ひれ伏したいほどの眼光で睨みながら、帯に挟んだものを取り出したので、魅音の目は飛び出さんばかりに見開かれた。
「な、なにを……、やめ」
凪の手にあるのは、どこかで見たことのある苦無だった。雫玖がいぶかしむ間もなく刃が阿南の直上に振り上げられ、無情にも一閃される。
一瞬ののち、晴天のはるか上空から金色の稲妻が落ちてきた。
鋭い破裂音。電撃が阿南の身体を、情け容赦なく打ち据える。
「阿南、阿南!」
「王妃よ、下がられよ。御身まで雷に打たれますぞ」
半狂乱になって前にのめる魅音を、内大臣が押しとどめている。その前には無残に倒れて白目をむき、痙攣する王子がいた。
弾けた朝服からのぞく腕には、羽毛状の枝分かれした火傷。耳からは血が流れ、冠は吹っ飛び、黒髪はちぢれて焦げた匂いを放っている。
「嘘でしょ……、凪」
皆がざわめく中、雫玖は青龍を振り返った。まだ今見た出来事が信じられない。凪はこんなに非情な龍ではないはずだ。どうしたのだろう。するとくだんの龍は人差し指に苦無の柄をひっかけ、勢いよく回しざま琥珀にむかって投げ上げた。
『返すぞ、琥珀。今ので使い方は学んだろう』
は、と息を飲む。また念話だ。
『その苦無には俺の盟友、雷神の輝気が宿っている』
軽い音をたてて、琥珀が苦無を受け取る。
『皆が王子に注目しているうちに、早く済ませろ』
琥珀はうなずくと、官たちにむかって声を上げた。
「医官殿はおられるか! どなたか王子を、見ていただけませんか!」
声に応じた三人ほどが、ばらばらと王子に駆けよってきた。その隙に琥珀の手が雫玖を抱き寄せ、さりげなく左袖に刃をさしいれる。
「あ」
ぱちぱちと音をたて、袖の中で長いものが蠢き、焼き切れていく気配。
――そうか、苦無に込められていたのは特別に純度の高い輝気だから。顔を上げると、凪が意味ありげに片目を閉じている。雫玖はほっと息を吐いた。
やっぱり。それでは先ほど阿南を打った稲妻も、同じ理由からだったのか。
「医官殿、王子を動かしましょう、慎重に」
そのまま琥珀はなに食わぬ顔で阿南の横にひざまずき、瀕死の背に腕をさしいれている。雫玖は目を凝らした。あれは王妃に刺されたほうの腕だ。琥珀の出血はまだ止まっていない。そして黄龍の体液が少量でも身体に入れば、阿南の怪我は回復する。
つまりこれはすべて、龍たちによる芝居なのだ。おそらくは豹叉の目を欺くための。
「おのれ、青龍! よくも我が王子を!」
しかし魅音はまだ内大臣の腕の中で暴れていた。ちがう、誤解だ。雫玖は思わず両腕を広げ、王妃の前に立っていた。
「魅音さま、お心を安らかに。阿南は無事です。じきに回復します、青龍は無益な殺生を絶対にしませんから」
「ふざけるな、利いた口を。たかが先王の小娘風情が、王妃のわたくしに意見しようなどっ。言語道断じゃ、身の程を知れ!」
「魅音殿」すると黙っていた歳破内大臣が重々しく口を開いた。「先程より見聞するに、雫玖君はまちがいなく、我が国の守護龍に認められた仙客であらせられる」
「それがどうした。わたくしはこの国の王の正妃であるぞ!」
「いいえ。ここは庚ではない。したがって仙客は王妃より上位。つまり、あなたの言動は不敬罪にあたる」
「なに」
「頭を垂れて拱手し、仙客に無礼を詫びよ、魅音王妃」
顔色を無くす魅音にむかって、内大臣は薄く笑った。明らかに一矢報いたと言った表情だ。なにせこの男は高瀬を次王に推していたのだ、壬国の簗を排除するために協力はしても、心中で王妃を恨んでいないわけがない。雫玖の背中を冷や汗が落ちる。
怖い。やはり政事には関わりたくない。その時、前方で声が上がる。
「……母上、……歳破の言うとおり……だぞ」
「阿南!」
よかった。琥珀がうまくやったのだ。先ほどまで息も絶え絶えだった王子に、回復の兆しが見えている。雫玖が胸をなで下ろしていると、
「我が国……の、龍は、偉大なり」
阿南は荒い息を吐いた。魅音の目に大粒の涙が浮かぶ。
「なにを申すか、我が王子よ。そなたを傷つけたのはっ」
「ちが……私を……、傷つけたのは」
――あいつだ。
阿南の口が動き、声にならない言葉を吐く。震える指が一瞬だけ北むきの方角を指したが、そのまま医官に身体を預けて気絶してしまう。
「王妃は内大臣に任せておけ。それより今は、次王の選定がまず先だ」
王子が祈年殿へ運ばれていく隙に、琥珀が雫玖の元へと戻ってきた。
「わかった」
雫玖がうなずいた直後、真雪の大声が響き渡った。
「よぉし、抜けたぞ!」
打たれたように振り向けば、汗みずくの両腕が、完全に神剣を地中から引き出すところだった。
「真雪!」「真雪様っ」「新王ーっ、万歳!」
一人、また一人と官が立ち上がり、拍手を始める。やがて露台は喝采に包まれた。
真雪はその歓声に応えるように神剣を天にかざすと、仁王立ちした青龍の前にひざまずいて剣をさしだした。
「どうぞご確認を、青龍王」
「うむ。よくやったぞ、見事だ」
凪は真雪の手から剣を受け取った。剣の背で挑戦者の肩を叩き、また手に戻す。
「この青龍が認めよう。――真雪。おまえは今日より、正式な蓮国国主である」
「え。蓮国の国王? ちょっと凪、なにを言っているの?」
雫玖はこのやりとりを聞いて思わず声を上げた。真雪が無事に選ばれたのは嬉しい。居並ぶ官吏が喜んでいるのも、幼なじみとして誇らしい。でも玉座には、今もって蓮国王を名乗る男が座っているではないか。魅音妃の夫にして先王の弟、波布王が。
「凪、あの、今日執り行っているのは立太子の儀よ。王の即位式じゃなく……」
おそるおそる天蓋を見やると、案の定、くだんの人物が立ち上がったところだった。
「青龍王よ」
波布王は恰幅のよい身体を揺らしながら、ゆっくりと玉座を下る。
「選定の儀、誠に大義である。だが、私にまだ退位する気はない」
ちらり、雫玖を一瞥してから、傲然と凪と真雪の前に立った。
王と龍の視線が交わる。しかし凪はまったく揺るがない。
「波布王よ。俺はそもそも、貴殿は前王と次王のつなぎだと聞いているぞ。玉座には、龍に選ばれし正当な王が就くべきだ」
「龍よ。それを言うなら、そもそも次王は真澄鏡にて選別されるしきたりだ」
周囲がざわつき始める。王か龍か。この二つが相反した場合、どちらが正しいのか。
「ああ。たしかに今までは、そういう建前だったようだが」
しかし凪はどこまでも凪だった。
「この青龍が現し身で降臨している時には、俺の言い分が当然、上だ」
ひたすら自分の意見を押し通す。この青龍のやり口には、あの瑪瑙ですら太刀打ちできなかったのだから、しょせん人間の王ごときの道理が通るわけがない。
「ゆえに真雪。我が神名にかけて命ずる」
「はっ」
「――ここにいる偽王を、その神剣で、即座に成敗せよ」
え、と雫玖が息つく間もなかった。
まるでその号令を待っていたかのように、真雪の手が波布王の腹を貫く。
官吏たちからどよめきと悲鳴が上がり、ごぽり、王は口から血泡を吹いて、たたらを踏んだ。
「おのれ、なぜだ真雪。なぜ王の私を。不忠者めっ」
「不忠?」しかし真雪の瞳には存外、強い光が宿っていた。「なにを言ってやがる。よくも高瀬をやりやがったな。忘れたとは言わせねえぞ、これはあいつの敵討ちだ!」
「この反逆者めが、よくも……っ」
波布王はよろけながら、左手を振り上げる。それを見た内大臣がすかさず叫んだ。
「霜葉老師!」
「心得ておりまする」
老師の手が真澄鏡を高くかざすと、太陽の光が鏡を反射して王に降り注ぐ。
とたんに波布王の顔がぐにゃりとねじれた。
ひ、とあちこちで悲鳴が上がる。雫玖は思わず琥珀の袖をつかんだ。
「嘘でしょ、豹叉? いったい、いつから王になりすましていたのっ」
では見まちがいかとも思ったが、先ほど阿南が指さしたのは、やはり玉座だったのだ。そして目の前にいるのはもはや雫玖の叔父ではなく、もはや左耳がちぎれた男で。
「まさかあなた、波布叔父さままで、食べてしまったのね?」
「あいかわらず聡いなぁ、じゃじゃ馬姫は」
にやり、獣人の犬歯の生えた口が歪む。刺された腹から、黒蛇がうねうねと湧き出てきた。凪がさっと顔色を変える。
「この鵺、腹に闇を飼っていたのかっ。下がれ、真雪! 破壊神の呪を受けるぞ!」
「や、青龍王、だがこいつの腹にはまだ、神剣が刺さってて。え、これはどうすれば?」
「っ、柄を握ってろ! 絶対に離すなよ!」
叫ぶなり、真雪の襟首をひっつかんで投げ飛ばす。とんでもない膂力だった。
全身筋肉でできている大男が、剣を持ったまま圜丘の対面まで吹っ飛んでいく。
「甘い。甘いねぇ青龍王、この局面で人間を庇うなんてなぁ。だから、こうなる」
だがその隙に豹叉はもう、青龍を黒蛇でがんじがらめに捕らえてしまった。
蛇の表皮が捕縄のごとく、ぎりぎりと青年を締め上げる。
熾火で布を焦がすように、たちまち凪の皮膚が紫に腐蝕し始める。
「その呪の効能はよく知っているだろ、青い牙さんよ。なにせあんたは百年前、一国を滅ぼしかけた破壊神と対峙して生還したっていう、じつに希少な武神将だ。そいつぁ肉を溶かして、魂を狂わす。何者もこの黒闇には抗えない」
そう言う間にも黒蛇はぬめぬめと増殖し続け、やがて凪の身体をすっかり覆い尽くしてしまう。
「いいか、この場にいる全員、動くな。青龍王をも倒した呪を受けるぞ!」
すっかり山虎の顔になった男が天にむかって咆吼するや、圜丘の一段目が黒い球状の膜で覆われていく。雫玖は目を見張った。――この獣人、用意周到にあらかじめ仕掛けを施していたのか。おそらく立太子の儀が上手く運ばなかった際は、この結界を用いて肝心な部分を覆い隠し、小細工して自分の思いどおりの結果を得ようと考えていたのだ。自らは一番見晴らしのよい、玉座という位置にいて。
錏将軍が膜を叩いてなにかを叫んでいるが、時すでに遅し。まったく声が届かない。内からは薄墨色がかった外が見えるが、どうやら外側から中はなにも見えていないようだ。完全に外界と遮断されている。そうこうする間にも膜はどんどん黒く、暗くなっていく。皆が右往左往する中で豹叉だけが、いたって飄々としていた。
「あーあ、惜しかったなぁ。阿南を傀儡王にすれば、あと十年は蓮を手中に収められたものを。そうすりゃ、まだしばらくは女子どもを食い放題だったのに」
全身が総毛立つ。そうか。 そうか。豹叉にとっては蓮も庚も壬も、人の世の争い事など初めからどうでもよかったのだ。ただ自らの飽くなき欲のため、蓮を人肉の狩り場にする。
その単純明快すぎる、異形ならではの目的が、かえって真実を見えづらくした。
「だがもう潮時だな、正体もバレちまったことだし。ぬかったなぁ。高瀬を殺ったせいで、王太子の取り巻き連中は俺が波布王とすり替わったのに気づいちまったのか。こんなことなら、あいつを王太子のまま、生かしておけば良かったかもな……」
豹叉は決まり悪そうに、顔色を無くしている雫玖を見やった。
「まあ、さんざ飲み食いして女も抱けた。俺ぁ満足だ。また別の餌場を探すことにするさ」
片足で地を蹴ると、忽然と墨穴が開く。雫玖が琥珀の目前から連れ去れた時と同じ、あの空間を自在に転移できる穴が。まるで悪い夢を見ているようだった。
兄を死に追いやった元凶が、意気揚々と逃げようとしている。人間が絶対に手の届かない闇世の領域へ。
「じゃあな、あばよ、じゃじゃ馬姫。けっこう楽しめたぜ」
「……待て。二度も、俺から逃げられると思うな」
だがその時、今まで影に徹してきた青年が初めて、豹叉の前に進み出た。
「なんだ、黄龍。そこの可愛いじゃじゃ馬姫が、黒蛇の餌食になってもいいのかよ?」
豹叉はあくまで余裕面を崩さない。――どうやらこの獣人は、まだ自分のほうが優勢だと踏んでいるようだ。
「おまえだって、阿南を見たろ。黒蛇が身体の内まで入りこむと、ああして口もきけず目も見えず、五臓六腑を食い荒らされるん……」
「あらかじめ礼を言っておく」琥珀は話を打ち消すように両手に苦無を持ち、体勢を低くした。音もなく流れる水のように、なめらかな動きで。「あんたが結界を張ってくれて助かったよ。これで俺は、龍の力を隠す必要がなくなったわけだ」
周囲を見回すと、たしかに一段目に閉じこめられたのは王妃と内大臣に真雪のみだ。
「おいおい、落ちつけって。おまえ、まさかあのちんけな王太子の復讐のために、愛しのお姫さんを切り捨てる腹じゃねえだろうな」
「誰がちんけだ。高瀬は、汀の意志を持つ者たちの希望だった」
琥珀は押し殺したように声の調子を低くした。ざあ、藤黄色の髪が霊気で揺らぐ。身体の中心に強大な輝気が濃縮されていく。鬱金の瞳に強い光が灯った。
「くそが。本気かよ。じゃあ仕方ねえ、悪いがじゃじゃ馬には死んでもら……」
指を鳴らしかけた豹叉の顔が驚愕に歪む。なぜだ、とその口が小さく呟く。
雫玖はここぞとばかり、相手に左袖をまくってみせた。
その腕に巻きついていたはずの黒蛇は、消し炭のようになって焼け焦げている。
「っ、そうか、さっき青龍が阿南を雷で打ったのは、解呪のためか――!」
獣人が血走った目をむいた次のせつな、琥珀の身体がするどく一回転した。
今まで見たどの所作よりも、石火の早業。人間離れした動きで一点に凝縮された金の弧が、獣人の上半身をあやまたず切り裂く。
「そんな、馬鹿な……、たかが一撃で、鵺化した俺の、身体が、砕け、る、なん、て」
驚愕の表情を浮かべた豹叉の首がいきおいよく飛んだ。その下の胴体は苛烈な衝撃波に耐えきれず、瞬く間に砂粒以下まで破砕され霧散する。
「龍を舐めるなと言ったはずだ。……俺の眷族の膂力は、力自慢の古神たちの中でも随一だった」
雫玖はぎゅっと唇を引き結んだ。足先から頭のてっぺんまで、強いしびれが駆け上がる。
そうだ、龍はその強靱な肉体ゆえに、霊力も体力も比類無き質量を保有している。それが持ち前の真面目な気質と長寿で、飽くことなく技を磨き続けているのだ。そもそもこんな至高の神獣に真っ向勝負して勝てる者など、この世にいるわけがない。天の神々や恐ろしい闇神にすら一目置かれるくらい、龍とは寡黙で怪力で、他に比類無き存在で。
――それでも、もう止められない。この初恋の相手が人の並び立つことなど到底許されない神なのだと、こんなにも痛切に思い知ってしまってなお、恋い焦がれるのを。
「終わったぞ、雫玖。もう大丈夫だ、安心しろ」
鬱金の柔らかなまなざしと目が合う。のどに熱いかたまりがせりあがってくる。鼻の奥がつんとしびれて、泣くまいと懸命に歯を食いしばった。今は泣いている場合ではない。
ついに蓮に巣くった闇を討ち果たした。影から出ようとしなかった龍が、自ら表に出て兄の敵を取ってくれたのだ。だから、これ以上を望むな。最愛の青年のすべてが欲しいなんて、ゆめ願うな。感謝しなければ、ただ側にいられるだけで。
「琥珀、ありがとう……っ、よかった、あなたが無事で」
好き。琥珀が大好き。死ぬほど好き。あなたがいてくれれば、他にはなにもいらない。今は笑うべきなのだろうか、それとも叫ぶべきなのだろうか。兄さま。どんな顔をしたらいいのかわからない。
ぴし、結界のねばつく闇の皮膜に亀裂が入り、足元に開いた墨穴が急速に縮み始める。
「雫玖、こっちへ来い! 早く!」
無我夢中で腕を広げて迎える琥珀の胸に飛びこんだ。その瞬間、うねうねと蠢く黒蛇まみれになっていた凪が真横で雄叫びを上げる。
「うおおおお!」
青い濁流にも似た覇気が、その精悍な身体から立ち上がる。
大地が鳴動し、瞬く間に蛇どもが千切れとんでいく。
青龍の右手が、力任せに刃折れの大剣を抜き放つ。身を深く折り、海峡に逆巻く渦のように回りながら、勢いよく刃を頭上に切り上げた。
『っ、我ら龍は、唯一無二にして最強――!』
雫玖は身を縮めた。さきほどの琥珀も凄まじい霊動だったが、凪もとんでもない霊気の量だ。まるで大瀑布に打たれるような。いや、竜巻と評したほうが正しいか。
青白い、莫大な質量を持った力。
海流のように雄大で、純粋無垢な。
古から今まで連綿と続く、人智をはるかに超えた理のうちにのみ存在する、最上の光にも似た。――これが龍の奥義の威力。床全面が浮き上がって破砕し、ついで、ひび割れた上空の闇の膜も粉々に砕け散る。
「うるせえよ、凪。てか、恥っず。いちいち最強とか言うなよな」
「いいじゃない。本当のことだし、今のは念話でしょ」
琥珀がいらだたしげに舌打ちするので苦笑していると、
「……真雪! 真雪っ、大事ないか!」
にわかに錏将軍の野太い声が聞こえてくる。ついで周囲から、鍔鳴りの激しい音も。
「俺は大丈夫だ、親父。会場に潜んでいた簗どもは、どうなった?」
一段目の端まで飛ばされた真雪が、ようよう身を起こして叫んだ。
「見てのとおり、今、交戦中だ!」
頭を巡せば、たしかに圜丘のあちこちで武官たちが刀を抜き、斬り合っている。
文官や女官たちは一塊になり、近衛兵に守られていた。
「凪、悪い。頼む」
その切迫した状況を見てとった琥珀が、凪に声をかける。
「ああ、わかった」
なにがわかったのか。雫玖には皆目不明だったが、凪はふたたび刃を日の光に透かして切り上げた。大気がひたた……と波紋を描いて揺らぐと、今度は真一文字に振り下ろす。
どどう。一拍後、青々した晴天にもかかわらず、どこから湧いたのか滝のような雨が、轟音を立てて人々の身体を打ちすえた。
「皆の者、静まれ! 青龍王の名にかけて命ずる」
若い声だが、有無を言わさぬ響き。幸い降水はすぐ止まったが、人々はふたたび露台の中心に現れた龍神への恐ろしさで身が竦み、完全に動けなくなってしまった。雫玖にむかって、波のように多数の思念が響いてくる。――この龍、なんという霊異の顕現だ。他の異形とは桁がちがいすぎる。地を割り天を割き、もはや天災と言っても過言ではないぞ。
しかも見ろ、あの不愉快そうな仏頂面、目を合わせたら殺されそうな眼光を。さては怪我をして、そうとう気が立っておられる。手負いの獣ほど危険なものはない。大人しくしていたほうが身のためだ、ああ怖い、恐ろしい。
そんな中、琥珀だけが誰かに手で合図していた。
この龍はきっといかなる時も伶俐に頭を働かせ、その時々で最適な人材を選びとって動かしてきたのだ。影の参謀よろしく粛々と。動作に一切の迷いや無駄が見受けられない。かつて兄の高瀬が琥珀を自らの宰相に欲しがった理由を、かいま見た心持ちがする。
視線を追うと、先にいたのは真雪だ。彼はしきりと首を横に振っていたが、やがて苦虫を噛み潰したような顔になると、あきらめたように声を張った。
「聞け、壬国の簗よ! 貴様たちの頭領は討ち取られた。もはや勝ち目はない、武器を捨てて投降しろっ」
腹に響く大音声は、安定感抜群で聞き心地が良い。
「我こそは蓮国の新王なり。俺の言葉に従わぬ者は皆、ここにおわす青龍王に粛正されるぞ――!」
ちりん、小さな音をたてて大剣を背の鞘に戻した凪が、真雪の言を擁護するかように隣に立つ。それですべては決着した。――ただ一人をのぞいては。
「そんな馬鹿な」床に身を投げ、世も末とばかりに泣き叫んでいるのは魅音だった。「嫌じゃっ、それでは、この腹に宿った御子は、もしや卑しい獣の種か。おおお」
王妃の目前には転がった豹叉の首がある。ぐにゃりと歪んだ顔をして。
左耳が欠けたその首に、魅音は割れた床の破片を掴んでは投げつける。
しかし側に立つ内大臣は、いかにも冷徹だった。
「これもすべて御身から出た錆。他妃に不妊薬を盛っていたのは、貴女ではないか」
「な、なにを。そなたとて将軍とその息子を嫌い、殺害せんと謀っていたくせに」
すると王妃に大股で歩み寄った真雪が、おもむろに内大臣の肩を抱いて言った。
「いや、魅音さま。そいつは誤解だ。うちの親父と、このおっさんの不仲説はでっちあげらしいぜ。本人たちに問いただしたら、本当は昔っから、ずっと裏でつるんでたそうだ。庚と壬の、内政干渉を食い止めるためにな」
「なんだと」
「まだ、わかんねえのかなぁ。今回の立太子の儀は建前で、内実は高瀬の弔い合戦だったんだって。雫玖が龍神詣でに行く前から、汀の意志を継ぐ者たち全員で、周到に計画してたんだよ。まあ青龍王の降臨と俺が王に選ばれたくだりは、琥珀の即興で、完全に想定外だったけどな」
「そんな……!」
「王妃よ。貴女の裁きは、のちほど下るであろう。――では、これにて本日の儀を終了とする。一同の者、立ちませい」
内大臣が大きく拍手した。それが散会の合図だった。
呪縛を解かれたように、皆の顔に生気が戻る。
鎬に召し捕らえられた賊ども、ただただ事態に固唾を飲んでいた官吏たち、奥宮から来ていた女官や下働き。ずぶ濡れのまま、皆が一斉に動き出した。
「ささ、では二龍は霊香院へいらせられませ。雫玖も一緒にな」
喧噪に紛れて、霜葉が雫玖たちを誘う。
その手を押しとどめて、雫玖は中央に立つ男の袖を掴みに行った。
「真雪、あの、わたし……、その、ごめん」
結局この幼なじみに、一番大変なところを全部、押しつけてしまった。
けれど真雪はくしゃりと苦笑しただけだった。
「しかたねえよなぁ、おまえに頼まれちまったら。以前に言ったろ、雫玖になら何を言われても許してやるって」
「雫玖、行くぞ」すかさず琥珀が後ろから手を引いてくる。「真雪、あとは任せた」
「おう」
「では雫玖や、真澄鏡を持っておくれ」
「はい」
霜葉に鏡を渡されて下段に移ると、ややあって背中に幼なじみの声がかかった。
「雫玖ー! 落ちついたらまた、話そうな!」
「うん真雪、ありがとう、またねっ」
良かった、真雪に嫌われなくて。大切な人たちが傷つかなくて。
これですべてが落着したわけではないと、わかってはいるけれど。
儀式がやっと済んだ高揚感。手を振り、圜丘を降りて、雫玖は霊香院へとむかった。




