17 夢
まずいな。水分が足りない。
琥珀は囚われた霊陣で夢を見ていた。心臓はすでに治りかかっていたが、失血しすぎて意識が朦朧とし、まるで霧の中にいるようだ。
雫玖はどうしたろう。
それだけが気がかりだった。あの強情で一本気な王女は、ちゃんと見張っていないと次になにをしでかすかわからない。
初めて王女に逢ったのは、文官として霊香院に採用されたころだったか。
高瀬に引き合わされて、一目でわかった。彼女は紗里の巫の血を色濃く引いている。惜しい。もし母方の里で生まれ育っていれば、良い巫になっていただろうに。
けれど雫玖はきっとこのまま、狭い奥宮の一角で広く深い世界のことなど露知らず、一生を終えるのだろう。――それもまた人の一生だ。
あのころの自分は氷海のごとく冷めていた。
なぜって、人間はすぐに死ぬ。龍からすれば、まるで水面に浮かぶ泡のように。
だから不遇の王女に、心を砕く価値などないと見て見ぬふりをしてきた――その潮の流れが変わったのは、兄の高瀬が毒矢に倒れてからだ。
――わたし、龍に聞きたいの。なぜ兄さまを王太子に選んだのかって。
雫玖は高瀬が龍の意に反したから、粛正されたのではないかと悩み、疑っていた。
ちがう。そうじゃない、高瀬は特別だった。
その話を聞いたとき、焦って答えてしまいそうになった。あの気むずかし屋の瑪瑙が珍しく人を気に入り、わざわざ琥珀を使わしたくらい、彼は特異だったのだと。
無口な龍の本意を、ありのまま察して受け止められる人間は滅多に現世に現れない。
いや、特別なのは、妹も同じかもしれない。
それは水鞠札の習得中に、雫玖が涙したことで確信に変わった。
本人はなぜ自分が泣いたのか不思議がっていたが、琥珀にはすぐに理解できた。雫玖も兄同様、龍の魂に直接触れられる、希有な人間なのだと――。
あの日から琥珀の中で、雫玖は徐々に印象を変えていった。
最初は小さな泡一つにすぎなかった少女が、阿南王子に手籠めにされそうになった際など、無性に胸がざわついた。
豚に真珠だ。あんなつまらない、生まれ以外に取り柄のない男のものになるなんて。
蓮では雫玖がただの若い娘としてしか評価されていないのにも、心底がっかりした。
彼女は女である以上に、人としての魅力があるじゃないか。もったいない。
奇異の姫は、その力を本当に理解できる者の隣に立つべきだ。どうしたらいいものか。思案しつつ黒蛇を封印しようとしたら、なにも言う前から、自ら髪を切ったのには驚いた。大概の人間は、誰かになにかをやってもらうことばかり考えているのに。
――これは雫玖も高瀬同様、瑪瑙の試しに受かるかもしれないぞ。
琥珀は自分の本体を恐れ、反感を抱きつつも、期待が膨らむのを止められなかった。
きっと瑪瑙ならばこの姫の真価に気づく。高瀬の意を汲んで、雫玖を大事に扱う。
そうなればきっと、自分がむざむざ兄を死なせてしまった償いにもなるだろう。
そのためにはまず雫玖に、あのこじれた黄龍を嫌わないでもらわなければ。
そしてなにかと嫉妬深い瑪瑙にも、雫玖は黄龍だけに好意を持っているのだと確信させなければいけない。
だから真雪と雫玖が、恋人のように語らっているのを見た時には心底焦ったし、雫玖が凪を手放しで褒めるのも気に食わなかった。
とにかく他の男どもは全排除だ。
ひたすら黄龍を目に焼きつけて、側に寄りそうのに、慣れてもらうしかない。
幸い瑪瑙が研究熱心だったせいで、分身の琥珀も人間の性向を熟知していた。
それで暇さえあれば雫玖に触れ続けたのだった。
そうやっていつか本性がばれても怖がられないよう、龍は無害で信頼できる相手なのだと、知らしめようとした。――すべては瑪瑙の試しに受かるために始めたことで。
けれどそのうち、雫玖は自分からも親愛の情を伝えてくるようになった。
いつ頃だったろう、それがひどくこそばゆく、心地良いのに気づいてしまったのは。
琥珀、と名前を呼ばれるたびに胸に甘いうずきが走る。
もっと手を握って、指を絡ませていたくて、柔らかな肌の感触を味わっていたくて。
どこまでだ。どこまでなら、近づいても許される。
渾身の注意を払って限界まで距離を縮めていくと、やがて雫玖は時折、琥珀の腕の中で蕩けるような目をするようになって。
そのまなざしを受け止めるたび、快感にも似た喜びが激しく湧き上がった。
もっとこの表情を見ていたい。
この柔らかくて暖かな魂を、できるかぎり自分のそばに留め置きたい。
雫玖を誰にも渡したくない、できることならこのまま混ざって溶け合い、一つになってしまいたい。――そして、こんなやましい気持ちだけは、誰にも知られたくない。
けれど秘めておきたかった想いはすべて、黄金館についたとたん瑪瑙の知るところとなってしまった。
いやだ。盗るな。見るな。お願いだから、この気持ちだけは奪わないでくれ。
初めてだった。こんなに本体に、感情と記憶を抜かれるのがきつかったのは。
愕然としながらも、瑪瑙が至福の笑みを浮かべるのに気づいてようやく、自分にも固有の感情があったのを理解するに至ったのだ。
返せ。返してくれよ。その熱は時間をかけて自分が、雫玖と育んだものだ。
瑪瑙がうっとりと目を細めて雫玖を視界に入れるだけで、身体中の血が逆流するような錯覚を覚えて。なんだ、これは嫉妬か。そうか。そういうことか。
今更すぎて天を仰ぎ、泣きたくなった。
好きだったのだ、自分は。本体に心を盗られた衝撃で立ち上がれなくなるほど、ただ一途にひたすらに、いつのまにか雫玖に恋していた。
――よくやったぞ、琥珀。今夜は私が雫玖のところへ行こう。おまえは休んでいろ。
けれど気づいた時にはもう、すべて後の祭りだった。
瑪瑙は龍王の中でも、とりわけ計算高い。雫玖は遅からず囲いこまれた魚のように逃げ場を失い、黄龍の手に落ちるだろう。
自分に向けられた好意も、あの眼差しもすべてが、まもなく瑪瑙のものになる。そうやってこの先も、自分は一番大切にしたいと願ったものを瑪瑙に奪われ続けるのだ。
もう、いやだった。こんなふうに生き続けるのは。
だが諦めるしかなかった、それが影龍の生きるよすがなのだから。
しょせん自分は、瑪瑙の虚像で。龍王と呼ばれつつ、鱗すら与えられていない。
いつ消されるかもわからない、こんな嘘で塗り固められた人形を、いったい誰が認め、必要としてくれるというんだ――。
しかし月を見上げて無力感に苛まされていたら、雫玖は忽然と目前に現れた。息を切らして、大粒の涙までこぼして。
――どうしてわたしを瑪瑙に引き渡して、自分だけこんな処にいるの? ひどい。
――わたしが好きなのは琥珀、あなたなの、瑪瑙じゃないっ。
しかも悲痛な大声で、思いもよらぬ告白を受けたものだから、あの時は完全に思考が停止してしまった。
いや待て。嬉しいが、その告白は非常に嬉しいが、それでは困る。とても困る。
今までの苦労はどうなるんだ。すべては雫玖を幸せにせんがため、こんな遠い異界まで旅をさせたのに。
なのに恋しい王女のまなざしは、今やはっきりと熱を持って、自分を見つめていて。
濡れて煌めく瞳をのぞきこんだ瞬間、必死にこらえていた感情がほろりとほどけた。
こいつは俺を、一人前の龍だと認めてくれている。守ると言いつつ裏切って、他の男に引き渡した自分をまだ信じ、受け入れてくれている。
――好きだ。好きだ、好きだ。
気づけば、たまらず勢いで告白してしまっていた。
いけない、これ以上はまずいと思いつつも、わずかに唇まで重ねてしまったら、もっととねだられて、腰の奥が疼き出したのには冷や汗をかいた。まったく信用されすぎるのも考えものだ。あの晩はまさに蛇の生殺し状態だった。
――なあ琥珀、簡単なことなんだぞ。消されたくないなら、ただ、そうと言え。もっと我が儘になって、自己を主張しろよ。叫べ、俺はここにいる、無視するなと。そうしてもいいんだ。誰も咎めないし、俺も最後まで付き合うから。
そして翌朝、顔を合わせた凪が開口一番、そう言い放ったのには心底驚いた。
どうやら青龍は前の晩に助けを求めた雫玖の声を、ちゃんと感知していたらしい。そうして物陰から、どうなることかと事の顛末を一部始終見ていたという。
淡々とそう打ち明けられたときには、開いた口が塞がらなかった。
――ってことは、あの告白も、口づけも全部かよ。くそが。
恥ずかしさで肩を震わせていると、凪は真顔で言い切った。
――いいか、琥珀。誰かを、なにかを守るためには力が必要だ。まずは自分が一人で立っていられる力、それから守りたい者を支え、盾となる力が。
知るかボケ。簡単に正論を吐くな。渋面を作ると、すかさず肩を叩かれた。
――だからもう、運命から逃げるな。踏ん張って立ち向かえ。顔を上げて戦え。証明してみせろ、おまえのその手で。龍は唯一無二にして最強だと。
あいかわらずの脳筋発言だったが、正直これしか打開策がないのもわかっていた。だから奥義を修得する覚悟を決められたのだ。
畜生、もう嫌が応でもやるしかない。
雫玖をこの手に取り戻すためには、瑪瑙を凌駕するしか方法はないのだから。
そうして琥珀が本体に反逆し、凪が空気を読まずに自分の鱗をむいたせいで、完璧に瑪瑙を怒らせてしまった。見送りもなく雫玖とともに現世に戻されたのだって、ほとんど黄金館から放逐されたと言っていいだろう。
それでも不思議と焦燥はなかった。後悔したのは現金にも、雫玖と二回目に接吻したあと、もっと上手くすればよかったと思ったことくらいで。
まったく。恋にうつつを抜かして己のすべてをかけるなんて、阿呆しかやらない所業だと思っていたのに――。
それでも一度はっきりと認識したら、もう高鳴る気持ちは止まらない。
もう一度だけ、あいつに触れたい。あの華奢な身体を抱きしめたい。
可憐な唇を奪って舌を割り入れて、今度はもっと深く長く味わいたい。
ああ、もう一回、雫玖と接吻してえな。
考えただけで全身が焼けるように熱く感じて、なんでもできる気がしてくる。
好きだ。あいつが好きだ。すごく好きだ。
おかしくなっちまうくらいに好きだ。
何度もくりかえし胸に寄せては返す波の前では、身体を貫くすべての痛みも、影龍という皮肉な運命すら、すべてがどうでもよく思えてくる。――そう、じつのところ琥珀は豹叉の施した黒縄など、まったく意に介していなかったのだ。
元々、瑪瑙にさんざん身体をいじられてきた身だ。
たかが心臓をえぐられたくらいの痛みに屈し、心が折れたりはしない。
「……雫玖は俺が守る」
独りごち、ふとまぶたを開いたら、身体をびっしり覆っていた黒縄が弾けて霧散していくところだった。どうやら琥珀の霊気を吸い過ぎて、破裂してしまったようだ。
「おい今、何時だ」
隣を見やると、いつのまにか阿南王子の姿は消えている。
待てよ。少し慌てる。――立太子の儀はどうなった。
「やべ、寝過ごしちまった」
鬱金の瞳に鋭い光が宿る。
それはまさに囚われた龍が、回復の眠りから解き放たれた瞬間だった。




