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元々この地下墓所は、古の時代に昏神が開いた空洞を再利用して作られたもので、歴代の蓮国王が祀られた霊廟の真下にあった。
代々ここを守る礼拝師一族を漆氏という。
漆は霜呪術に長け、歴代多くの王妃を輩出した。しかしこれをよく思わなかった先代王は紗里の民から澪妃を娶り、漆家の娘は側室にも迎えなかった。
先王が重用したのは、紗里の『汀の意志』という思想だったから。
これは王も民も等しく天地と同調して生きよという考えで、漆氏の唱える絶対王政とは対極的だ。――こうして冷遇され、没落した漆家はしだいに王に恨みをつのらせ、庚国と結託して王に毒を盛り、弟の波布を即位させることに成功した。
けれど漆の期待に反して、次の波布王は魅音妃を正妻に迎え、常に庚国よりだった。政権に返り咲けると踏んでいた漆家は、思惑が外れてしまったのだ。
そこで次なる策として花街から養女を入内させて、王息を得ようと考えた。
この試みは成功し、養女の夕影妃はじきに太鳳王子を生む。だが王太子の座はまだ先王息の高瀬にあったし、庚の推す阿南王子もいる。
それで漆は、今度は壬帝国との蜜月に賭けた。漆が推す太鳳王子を壬の力でいずれ蓮王にする代わりに、神器を壬帝へ引き渡す約定を交わしたのだ。
だがこの企みも失敗した。壬は漆氏が考えるよりずっとしたたかだったからだ。
まず壬帝は簗を使わし、漆お得意の呪術で、簗のなかから鵺を誕生させるように迫った。結果この地下墓所で大勢の簗が犠牲となったが、強靱な肉体を持った獣人の長だけは例外で。彼、豹叉は闇と契約して鵺となるや、その力で漆氏を皆殺しにして家をのっとり、蓮の裏側で力を増していった――。
「……かつて豹叉は、しがない壬のごろつきにすぎなかった。そのころ豹叉にあったのは、ただ強烈に成り上がりたいという渇望と、獣人を差別した者たちへの復讐心だったという。その奸物が簗入りし、さらに漆氏の術で鵺になり、封印された破壊神の力まで手に入れるに至ったわけだ」
阿南は深いため息をついた。
「豹叉は言っていた、叢雲剣を破砕したのは単なる腕試しだったと。私はあやつの真実の顔を知らぬ。あの獣人はいつ本物の漆氏を喰らって、今の姿を得たのだろうな」
雫玖は奥歯を噛みしめた。
豹叉にとって殺した他人に成り代わるのは、息するより容易な行いなのだろう。
「そんな折、高瀬が殺された。あの暗殺を企てたのは、私の父の波布王だ。しかしそれは、壬帝にとっては願ってもない好機となった。帝は蓮にいる簗たちをけしかけ、神剣と龍を奪取しようと謀った。蓮国の神髄さえ奪ってしまえば、あとはどうにでもなる。――かつて壬帝にそう入れ知恵したのは漆氏だったが、皮肉なものだ。人を呪わば穴二つ。自らが先に滅びてしまうとは」
「でも阿南のお母さまは?」雫玖は食い下がった。「魅音さまは、あなたを王太子にしたかったはずでしょ。だったら簗の暗躍なんて、阻止しようとなさったんじゃ」
「ああ。母上は夕影妃を追い落とそうとする過程で、壬の存在にも気づいた。それで将軍家の鎬たちと裏でつながり、ひそかに簗を殲滅する策を練っていたのだ」
「えっ、魅音さまは、真雪たちと手を結んでいたの?」
そう言えば琥珀が、錏将軍はとある情報筋から簗の情報を得ていると言っていた。まさかそれが魅音妃だったとは。
「そうだ。母上とて庚の女だが、腐っても蓮の王妃だぞ。常々、鎬らのことは『あの刀筋』と呼んで信頼していた。しかし痛かったのは、豹叉が漆氏の身柄を乗っ取った簗だったのには気づかなかったことだ。……しかも母は今、床に伏せっていて、政から遠ざかっている」
「えっ、どういうこと。魅音さまの身に、なにか?」
「いや、その」阿南は言いにくそうに髪に手をやる。「……どうやら王の御子を授かったらしく、悪阻がひどいらしい」
雫玖は目を見張った。
「わー、阿南に弟か妹ができたの、それはおめでとう!」
「なにがめでたいものか。母はもう、いい年だぞ。私を産んだ時も難産だったと聞く。おおかた若い夕影妃と張り合って、子作りに励んだのだろうが」心ここにあらずと言った顔だ。「この局面で、戦線離脱とは……」
抱えてきた思いを吐き出すように、薄く眉を寄せた。
「雫玖。おまえの意識が戻らぬ間、ずっと考えていたのだ。豹叉めは一体これから先、なにを目論んでいるのだろうな。私がこの墓所に囚われたのは、てっきり立太子の儀をつつがなく行うためだと思っていたのに。なのになぜ、おまえまで囚われた」
「それは」
「だいたいおまえは、龍神詣でに行っていたはずだろう。宝鱗はどうなったのだ」
「鱗なら手に入ったわよ、青龍王のだけど。今、琥珀が持っているはず」
「なに、成功したのか。しかも伝説の、武神龍の鱗を手に入れただと?」阿南は口を丸く開けた。「待てよ。琥珀というのはもしや、高瀬の側付をしていた男では?」
「そうよ。そして豹叉は、琥珀を捕らえようと狙っている。だからわたしは琥珀をおびき寄せる囮として、ここへつれてこられたの」
「まて、なぜ雫玖が囮になり得るのだ。ひょっとして、あの側付となにかあったのか」
阿南の声が低くなった。
「まさかとは思うが、あの男を好いているのでは。やめておけ、あれは人ではないぞ」
目を見張ると、阿南は額に手をやった。
「あたりかっ。まったく少し目を離すと、おまえはすぐ奇天烈なことばかりやらかす」
「なっ、なによ、奇天烈ってっ。たしかにわたしは琥珀が好きよ、だけど阿南はなんで、琥珀の秘密を知っているの――?」
「母が高瀬の身辺調査をやった時に、知ったのだ」阿南は舌打ちした。「真雪はまちがいなく将軍の子だったが、あの側付の経歴は詐称されているきらいがあった」
「そう。でもそれがなに? 相手が人じゃないから、好きになっちゃいけないなんておかしい。それに琥珀は身分とか立場とか関係なく、ただわたしだけを見てくれる。信じてくれるし、純粋に、ひたむきに想ってくれる。わたしはそれだけで十分なの」
「雫玖。それは私だって……っ」阿南は顔を歪ませて言葉を切った。つかのまの沈黙。「いいか、おまえは魍魎に魅入られている。それはとても危険なことだ。あいつは結局、豹叉と同じ穴の狢なんだぞ」
「ちがう、琥珀はそんなんじゃない!」
「たとえあの男が、蓮の崇める龍だったとしても」阿南ははっきりと雫玖を見つめた。「異形が人間を手懐けるのは、あくまで自分の下婢にするためだ。もし従わなければ容赦なく罰を下すし、そのための枷を必ず嵌めてくる。あの豹叉のようにな。……案外もう、嵌められているかもしれない」
はっとして思わず胸に手をやった。一つだけ思い当たる節があった。――黄龍がくれたあの玉手札。あれは、もしや。
「雫玖よ、どうか冷静になれ。どんなに姿が人に似ていても、たとえ言葉が通じようとも、異形はしょせん異形でしかない。やつらは我らを、対等だとは見なしていない」
「でも」
「よく考えろ。寿命も身体の造りも異なる者同士が、いつまでも一緒にいられるか?」
痛いところを突かれて、雫玖は押し黙った。
「悪いことは言わない。惑わされるな。おまえの面倒は私が見てやる。相手が真雪ならまだ許せるが、やめておけ、あの側付だけは」
「――そこまでだ。阿南王子」
その時だった。ふいに坑道に影が一つ現れ、まっすぐこちらに近づいてくる。
「あんたこそ、やめてもらいたいねえ、雫玖を惑わすのは。人間にいろんなやつがいるように、異形だって一色じゃないんだぞ」
乾いた足音。もう霊動だけで判別できる。円陣に座ったままで叫んだ。
「琥珀!」
「悪い、待たせたな、雫玖。やっと見つけた、ここにいたのか」
わかってしまう、その少なすぎる一言だけで。
琥珀がこの場所を探り当てて乗りこむのは、けっして容易ではなかったのだと。
「琥珀、迂闊に近寄らないで! この霊円陣は危険らしいの!」
制止しても、無頓着に円陣前までたどり着いてしまう。涼やかな目元。形のよい目鼻立ち。一つに結われた橙と藤黄の髪。胸がじわりと熱くなる。こんな時になんだけれど、琥珀は見目もいいし恰好いい。なんと言われようが、やっぱりこの人が好きだ。
「この呪式はなんだ、珍しいな。漆氏の術か。どうも幽世の型のようだが……」
呟き、円陣の内側へ右腕をさしいれてくる。そのとたん、ぱちぱちと火の爆ぜるような音がした。複数の針を刺したように、腕のあちこちから細く血が吹き出す。
「なるほどね、血液に作用する呪かよ」
かまわず左足を踏み入れる。長袴が裂けて、血しぶきが飛んだ。雫玖は蒼白になる。
「琥珀、やめて! そんなことをしたら、傷だらけになって死んじゃう!」
「だから俺は死なないって、この程度じゃ。このまま押し通る」
信じられない。なんという強引極まりない力押しだろう。
爆音を物ともせず、気づけば青年はもう陣内に入っていた。頭のてっぺんから爪先まで朱に染まり、ふらふらと浅く息をつきつつ、着物は襤褸のようになって。
「ほらな。入れた」
「入れた、じゃない、無茶しないでよ! 心臓がいくつあっても足りないじゃないっ」
「無茶。なにが?」
しゅう、と皮膚から水蒸気が上がる。あっという間に血が止まり、怪我が癒えていく。鬱金の瞳が物憂げに雫玖を見下ろした。
「あんたは俺の特性、知ってるはずだろ。いいかげんに慣れろよ。俺は痛みに慣れた」
雫玖は口をゆがませた。凪といい、どうして龍はこうなのだ。
「琥珀の馬鹿っ、もう、知らない!」
青年の首に飛びつき、両手を回すと精一杯、背伸びして唇に唇を重ねた。
とたんに相手が身じろぎ、固まった気配。
そうだ、勝手に心ゆくまで驚けばいい、これは雫玖を心配させた罰なのだから。
「ありがとう、助けに来てくれて嬉しい。でもね」
触れ合ったのは一瞬だった。――残念、もう少し背があれば。
仰ぎ見ると、限界まで見開かれた瞳がこちらを凝視している。これは全然わかっていない顔だ。力一杯、にらみつけた。
「わかってよ、わたしだって琥珀が大事なの! だから、傷ついてほしくないのっ!」
「雫玖」
「次にまた血まみれになったら、もう絶対に赦さないんだから!」
「雫玖」
「なによっ。言い訳なら聞かない……」
「もう一回したい」
至近距離で呟く、せつなそうな表情にどきりとする。
「ちょ、ちょっと待って」
「そっちが始めたんだろ」
「でも今はそんな、あ」
反論しかけた言葉ごと、口を塞がれる。
腰を抱く手に強く力が入って、固い胸板に縫い止められた。
「っ、……ん!」
唇で唇を割り開かれ、入ってきた舌が生き物のように歯肉をなぞった。反射的に肩を浮かすと、それ以上は深追いされず、唇だけを柔らかく吸われる。
琥珀はいつも、けっして拙速な口づけはしない。慎重すぎるほど、雫玖の進度に配慮してくれている。でもこの舌先。角度を変えて執拗に唇を舐められ、また吸われて。――なにこれ。心臓がばくばく鳴って、息ができない。
「……っ、ふ」
知らなかった、こんな接吻の仕方もあるなんて。
「悪いな。どうしても我慢できなかった」
唇を濡らしたままで低く囁かれる。音を立てて耳朶に唇を落とされた。
「あんたが、あんまり可愛いことを言うから」
甘くしびれる感覚に酔いかけていると、ひくり、琥珀の身体に緊張が走る。
「琥珀……、え、なに?」
視線の先を追った。ほどなくして一番いやな腐臭の漂う坑道から豹叉が現れる。
「お熱いねぇ。感動の再会はもう済んだかな、お二人さんよ」
獣人は大股で霊陣に近づいて来た。ここまでのすべては計算済みといった体だ。
「豹叉。この呪式から今すぐ、雫玖を解放しろ」
「おう、いいぜ。んじゃ、お姫さんに青龍王の鱗を持たせて、ここまで来させろよ」
「……やめろ、罠だ! 雫玖、これ以上、異形たちの言いなりになるなっ」
とたん、隣から打つような声が上がった。阿南が蒼白な顔で二人を見つめている。
「うるせえなぁ。今が一番肝心なところなんだ、王子は少し黙ってろって」
豹叉が片手を上げると、たちまち阿南は心臓を抑えてその場に倒れ伏した。
苦悶してうめいたあと、ぴくりとも動かなくなる。雫玖はたまらず声を上げた。
「阿南! ちょっと豹叉、あなた阿南の護衛のくせに、主になにするのよ!」
「ふっ。あんただって散々、その従兄を嫌っていたんじゃねえの? 生意気な口を叩くと、その左腕の黒蛇で縛り上げるぞ。また首を絞めてやろうか」
その言葉に、誰より早く反応したのは琥珀だった。
懐から布包みを取り出し、雫玖の手に乗せる。
「凪の鱗だ。それを持って早く行け、雫玖。まずは、ここから出ることだけ考えろ」
「でも!」
「大丈夫だ。どういうつもりか知らないが、龍鱗は輝の霊気の塊だ、鵺には持てない」
背中を強く押されて円陣の外へ出される。通りぬけても何事も起きない。え、と後ろを振り返った。豹叉が呪を解除している今なら、琥珀も通りぬけられるのでは。
「黄龍、あんたも懲りない男だな。何度も同じ手に引っかかりやがって――」
しかしその時、雫玖の影から伸びた曲がり刀が、やにわに琥珀の心臓を突き通した。
「そんなにこの姫さんが大事かよ。たかだか人間の小娘一匹じゃねえか」
円陣に縫い止められて立ち往生したまま、がはり、青年は口から大量に吐血する。
「いやあっ、琥珀!」
「なあ黄龍、特別、痛えだろ。この剣はな、龍の皮膚を貫く噛尾刀だよ。さしものあんたも、喉に血がつまって声が出ねえようだ。霊術の使えない、この時を待ってたぜ」
豹叉の手が悠々と刀の柄を握り、容赦なくぎりぎりと刺し回した。
「しかし龍ってのは、これくらいじゃ致命傷にはならねえってんだから。まったく、どれくらい強靱だよ。人間なら三回は死んでるところだぞ」
慣れた手つきで引き抜くと、胸から滝のように鮮血が噴出する。
「やあっ、豹叉、やめて!」
「念のため、黒縄で縛らせてもらうぞ」
円陣の床から生えた茨が、琥珀の両足に絡みついた。
手に首に、顔へも巻きついて縛り上げていく。
豹叉は青年が動けなくなったのを確認すると、やにわに胸に開いた穴へ爪を立てた。
「ぐっ……!」
傷口から肉片をえぐり取るや、かぶりついて咀嚼する。
音を立てて血まみれの指をしゃぶってから、片腕で口を拭うと、
「ああ、うめえ、最高の味だ。なあお姫さん、黄龍ってのは不老不死なんだろ? つうことはだ、その肉を食らった俺も、不死になれるってことだろ。な、そうだよなぁ」
全身を朱に染めてにいと笑った。
その顔は獣のように毛深くなり、いつのまにか口は耳の近くまで裂け、鋭い犬歯がのぞいていた。山虎の化け物。――これが豹叉の本来の姿。
「あ、あなた、琥珀を生け捕りにしたいって、こうやって龍の血肉をすするのが本当の狙いだったの? 自分の不死のために!」
「おお、あいかわらず賢いな。そうさ、俺ぁ壬帝に利用されるフリして、利用しかえしてやったのよ。龍を捕らえて来いだって? 洒落臭え。やりたいことぁ、上から偉そうに命じるんじゃなく、なんでも自分で汗かいてやれってんだよ。なあ」
頭の芯が冷えていく。琥珀を見やれば、びっしりと黒い茨棘に巻かれ、すでに意識を飛ばしていた。心臓を貫かれたのだ、無理もない。
「琥珀、琥珀!」
さながら黒い蜘蛛糸に巻かれた蝶のようだ。蒼白になって近寄ろうとすると、
「もうその円陣に近づくな。また呪が発動してるから、姫さん、死ぬぞ」
豹叉の手が伸びてきた。片手でぞんざいに後頭を掴まれ、無理矢理振り向かされる。
「心配すんなって、黄龍はなにしても死なねえんだから。それより正気を保ってろよ、お姫さん。あんたにはこれから、しっかり働いてもらわなきゃならねえんだからな」
「な……んですって」
「いいか。あんたはこれから霊香院に戻って、立太子の儀までに真澄鏡を完成させるんだ。なにがなんでも、阿南王子を正式な次の王にしろ」
「いやっ」
「囚われた黄龍が、どうなってもいいのか」
声が出ない。豹叉の身体はあまりにも血なまぐさかった。そしてこの朱は他でもない、大好きな琥珀の血なのだ。悔しい。悔しい。身体の震えが止まらない。
「よしよし、良い子だ。そのまま青龍の鱗を持って、こっちへ来い」
首根っこをつかまれたまま、坑道へひきずりこまれる。腐臭がどんどん強烈になる。戦慄するほど嫌な予感。長い坂道を上がると、やがて霊廟の一角につきあたった。
「あ……っ、やだ、こんなのやだあっ、どうしてこんなことを! この人でなし!」
雫玖は耐えきれず泣き叫んだ。――その床には一面に、ばらばらになった人肉や骨、それに着物が無残に散乱していた。
「うるせえ。ぎゃーぎゃー騒ぐんじゃねえ、ここは捨て場なんだよ。すぐに外へ出してやるからよ、今すぐ喉を潰してやってもいいんだぞ!」
豹叉の腕が力任せに、花窓から雫玖を放り出す。頭陀袋のように石床に叩きつけられ、腰が抜けてしまった。野外は真昼の秋空で、乾いた石の匂いがする。
けれどそれ以上、なにも目に入ってこない。どうやら人は、凄惨すぎる光景が脳裏に焼きつくと、防御反応の一環で思考が停止するらしい。
「おお、しまった。やんごとなき姫さんをつい、ぶん投げちまった。俺ぁ癇癪持ちなんだ、頼むから怒らせないでくれ。キレるとつい、ぶち殺しちまうんでな」
やがて扉から外に出てきた豹叉が、首に手をやりつつ雫玖の隣にしゃがみこんだ。
「人でなしで悪かったなぁ。獣人ってのは半分、獣なんだ。わかってくれとは言わねえが、隣に綺麗な女がいたら、こいつはどんな声で善がるのかって想像する反面、喰ったらどこの血肉が一番、美味いだろうって考えるもんなんだよ」
「……豹叉。人間の社会で、人を殺して食べるのは、悪いことなのよ」
息苦しさをこらえて説いてみても、欠けた左耳をしきりと指でかいていて、まったく悪びれた様子がない。
「そうかぁ? 人だって、鳥や獣の肉を狩って喰うじゃねえか。それとなにがちがう。あと、もうわかってるだろうが、誰かにこの霊廟と俺の正体のことは話すなよ」
雫玖は腕に力をこめて起き上がると、獣人とまっこうから対峙した。
「いずれあの二人を殺すつもりなら、協力はできない」
「そう睨むな。王子は傀儡にするので必要だし、龍の生き血は極上の美酒に勝る」
「やめてよ、お願い。もう琥珀を傷つけないで。不死でも、痛みはあるんだから……!」
視界が歪む。こんな男に頭を垂れて懇願するなんて矜持が許さない。
なのに、しゃくりあげるような声になってしまう。
「そんなに泣くなって。これじゃまるで、俺が悪者みたいじゃねえか」
豹叉は決まり悪そうに首をかしげた。いやだ、このまま豹叉の言いなりになるなんて。一矢報いる方策はないだろうか。ふいに懐に隠し持ったままの霊札を思い出した。
けれど、すぐに漣の言葉を思い出す。だめだ。いくら瑪瑙がくれたからと言っても、玉手札の使用は不確実性が大きすぎる。唇を噛むと、豹叉はふいに雫玖の頭を撫でた。
「なあ、仙客の姫さんよ。頼むから俺を失望させるな。仙客なら仙客らしいことを為してみせろって、喰わないでいてやるからよう」
その言葉に目を見開く。この男はいったいなんなのだ。人の感情を持ちながらも品性は獣に近くて。欲望のままに直情的で、ずる賢いくせにどこか磊落で。
「仙客……わたしの、使命……」
だが、そうだ。雫玖が龍神詣でを決意したのは、兄の遺志を継いで蓮国をもっとよくするためだった。なのに龍たちはまだ、誰が蓮王にふさわしいのかという雫玖の問いかけに、答えてくれてはいないではないか――。
「そうね、豹叉、約束するわ。わたしかならず、真澄鏡を復活させてみせる」
涙に濡れた頬を手の甲でぬぐった。そもそもなんなのだ、仙客とは。
いったい、なにを為せば自分は仙客だと名乗れるのだろう。
「なんだよ突然。どういう心境の変化だ。それ、二言はねえだろうな」
豹叉はかすかに息を飲んだ。
「ええ。ただ、わたしに龍を従わせる力はない。だから鏡はどうにかできても、阿南が太子に立てるかどうかは、あくまで龍の託宣次第よ。そこは期待しないで」
この獣人に、蓮国を牛耳らせるつもりは毛頭無いけれど。
他国の脅威にさらされてもまだ、保身のために争う臣たち。神を利用したり、気に入らぬ王は弑逆したり。情けないが、それが今の蓮の実態だ。
高瀬なら言ったはずだ、それでいいのかと。そんな国で生きて民は本当に幸せだろうか。――否。ちがうと思う。
「ふん、そうかよ。ま、やる気になってくれたなら、こっちは御の字だが」
豹叉は複雑な顔つきになった。雫玖を信じてはいないが、嘘をついていないのはわかるのだろう。
「龍って、よく他者を試すの。それはもう、受けて立つしかないの」
そうだ、獣人が人を家畜よろしく屠殺するように、龍にも独特の習性がある。異形とはそういうものなのだ。それだけのこと。だから必要以上に、この男を怖がるな。
まだ、希望を捨てる必要はない。絶対に反撃の機会は巡ってくるはず。
いつのまにか震えは止まっていた。よいしょと立ち上がる。
「わたし、とりあえず霊香院に戻りたい。豹叉、道案内して」
「まったく、さすが奇異の姫だな。肝がすわってるぜ」豹叉は油断ならないまなざしで失笑した。「……宮城までの牛車を用意してやるから、少し待ってろ」
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そうして立太子の儀の二日前、龍神詣でに出て半年以上行方不明だった王女は、忽然と都大路に戻ってきた。
朝廷は大騒ぎになり、将軍や内大臣らが離宮におしかけた。しかし王女は聾唖になったようにだんまりを貫いた。いくら聞かれても、首を振るばかりで――幼なじみの将軍の息子にすら、旅で何が起きたか、なにも語らなかったのだ。




