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黄金館から開いた龍門は、あやまたず無熱湖につながった。黄龍の技量なのだろう、水道も完璧だった。山頂はすでに秋の終わりで肌寒かったが、山裾の緑はまだ夏のようだ。いずれにせよ立太子の儀まで、あまり時がない。漣が用意してくれた万端の旅装で、紗里の森を下る。
その三日目の昼すぎ、見知った顔が突然、番小屋の扉を開けて割り入ってきた。
「……ああ、雫玖さま、お久しゅうございます、良かった、追いついて!」
以前身代わりになってくれた女鎬だ。山道をひた走ってきたのか、額に汗をかいて息を切らしている。上がり框に座っていた雫玖は、勢いよく立ち上がった。
「無事だったのね、史緒っ。他の鎬たちは? 今、どうしているの?」
「私は無熱湖を見張っておりましたが、皆はこの先の番小屋で待機しています」
「そう。とにかく良かった、合流できて」
「それで姫さま、首尾は。大師はどこへ? 神器はどうなりましたか?」
心配そうに瞳を揺らす女鎬に、安心するよう微笑んでみせる。
「大丈夫。琥珀は今、道の確認をしに行ってる。鱗も剣も、うまく手に入ったわよ」
「そうですか! 安心しました。……それで、お品はどちらに?」
きょろきょろと周囲を見回すので、苦笑して小さく手を横に振る。
「ごめんね。ここにはないの」
「えっ、どういうことですか」
「鱗は琥珀が持っているし、剣は後ほど青龍が届けてくれる手はずになっているから」
「……そうですか」
一拍の間が落ちた。心なしか女鎬の表情が陰ったような。
その時、引き戸が力強く鳴る。この叩き方は、と雫玖は後ろを振り返った。
「ちょっとごめんなさい、紗里の知り合いがご飯を届けてくれたみたい。史緒はそこの式台に座っていて。わたし、受け取ってくるね」
戸を開けると、予想通り立っていたのは紗里の岳だった。
けれどその穏やかな笑顔は、小屋内を一瞥したとたんに一転する。
「姫さま。あの女は誰ですか」
「史緒は知り合いの鎬よ」
「鎬? それはっ……」
岳はなにかを言いかけて口を閉ざした。背中に視線を感じる。見られているのだ。
「じつは半年前、あなたたちが龍門を潜ったあとでした。無熱湖に至る表参道で、三人の死体が発見されたのです。彼らは偽物の神剣を持っていた。それで遺体は、蓮国の鎬であるとわかったんです」
「え?」
顔からじょじょに血の気が引いていく。あの時、友加里までついてきた鎬は七人いた。そのうち夜に簗に襲撃されて怪我をしたのは三人。都へ戻されたのは、付き添いを含めると四人だ。つまり史緒を含めた残りの三人――囮となって龍門を目指した鎬たちのほうが、殺されたことになる。
「発見時、死体はどれもひどい状態でした。皆、一様にあちこち喰われていて」
岳は早口で話し続ける。持ってきた荷物を雫玖に押しつけた。
「とにかく今は、絶対にこの戸を閉めてはなりません。念のため日影には入らないで。鎬たちを殺した犯人はおそらく簗ですが、まだ捕まっていないんです。それで今、紗里には蓮兵が入って、下手人を捜索中で……、私は応援を呼んできます」
踵を返して藪の中に消えていくのを、呆然と見送った。
どういうこと。史緒が殺された? じゃあ今、後ろにいる女は一体、誰なのだ。
「……あのお知り合いは、姫さまの親戚ですか。顔立ちも話し方も似ていますね」
ふいに背後から声をかけられ、あやうく声を上げそうになった。
「ええ、どうも母の姉みたいで、行きも必要なものを届けてくれたのよ、ほらね」
袋の口を開いて見せる。乾燥させた芋や干物、笹に包んだ米飯、煮豆。女鎬は検分するように中身をあらためた。
「この薬草は」
「わたしの足の湿布用。山道を歩くと皮がむけちゃうの、わたし、宮城育ちだから」
「こちらの革袋は」
「飲み水だと思う。あなたも飲む?」
「いいえ」
遠くから走ってきたはずなのに、女鎬は水を固辞する。
「じゃ、わたしは少し頂こうかな」
革袋に口をつけて飲んでから、ふと思いついて、残りを全部、胸と床にぶちまけた。
「あーっ、やだ、こぼしちゃったっ」
すかさず女鎬の手に空の革袋を手渡すと、胸元から水鞠札を取り出した。これが最後の一枚だったが、気にしている場合ではない。
「持っててくれる、その袋。今、水を補充するから。琥珀にバレたら怒られちゃう」
札を革袋に貼り付けて唱言すると、ややあって袋は元通り、ぱんぱんに膨らんだ。中を確認すると口紐を手早く綴じ、小走りに戸の外へ出ていく。
「姫さま、なにを?」
「なにって。服が濡れちゃったから、日に当たってこのまま乾かそうかなって」
宣言するなり戸口の脇に座りこんだ。女鎬は外には出ず、敷居の内側に立っている。
「なによ、史緒。わたしが奇異の姫すぎて驚いた?」
ちらり、鎬の顔を見やってから、目の前で色づくブナの木を眺めた。息を吐く。さわさわと響く葉ずれの音。ふいに涙がこみ上げてきて、泣き笑いのようになってしまう。そうか。やはり史緒は死んだのだ。――この女鎬には、泣きぼくろが無い。
「それとも、あいかわらずじゃじゃ馬だとでも、思った……?」
先ほどの岳の訴えるような目。それから不自然に始まった三人の鎬の死体の話。日陰に入るなという警告。情報から類推して、はじき出される結論は一つしかない。
「もうお芝居はやめていいわ、あなたは史緒じゃないでしょ。琥珀を追ってきたのよね、正体を現しなさい」
獣人には、喰った相手になりすませる者もいると聞く。ただし日光の下では化けの皮が剥がれやすいとも。そして蓮では今、獣人の暗殺旅団が暗躍している――。
「……ああ。前に奥宮でそう誹ったのを、まだ覚えていたのか。姫さん、けっこう根に持つたちなんだな」
女鎬の声がいきなり野太くなる。背筋に水を浴びせられたように、ぞわりとした。
「あなたこそ、なぜわたしが蓮に戻ったって気づいたの」
「黒蛇の匂いがぷんぷんしたんでね。その呪詛は封じられていても、ひどく鼻につく」
雫玖は意を決して横を見た。そこに誰がいるか、わかっていたはずなのに戦慄する。色黒で大柄な男は額の金環を光らせてにいと笑った。その左耳は斜めに欠けている。
「あんた、けっこう賢いんだなぁ。じゃじゃ馬でも、俺は賢い馬は嫌いじゃねえよ」
「豹叉。あなた、史緒を襲って食べたの……?」
「そう怖い顔をしなさんな。犯そうとしたら抵抗したんで、喰ったんだって。若い女の肉は柔らかいしな。あの女鎬はうまかった」
「っ、じゃあ他の鎬二人も、あなたが?」
「男どもは、別の簗にやったぞ」
なんてことを。顔を手で覆う。
「……待って。ちょっと待って。じゃあ前に奥宮の女官が複数、行方不明になっていた事件、もしかしたらあれも、簗の獣人が襲い食っていたってこと?」
「おお、ご名答。しかし殺ったのは部下だぞ。俺は奥宮の女は喰わん。雄に飢えた雌どもってのは、夜這って味わうほうが、殺して肉を喰うよりよほど美味だからな」
愕然とした。いったい獣人たちは、蓮のどれくらい中枢まで入りこんでしまっているのだろうか。
「で、お姫さんの打ち上げた花火ってのは、どれくらいで効力を発揮するんだ?」
雫玖はわなないた。しっかり見抜かれている。
先ほどの水鞠札は、琥珀に危険を知らせるための合図だったことを。
「俺は短気なもんで、あんまり遅いようなら、その間にお姫さんを味見してみたいんだがなぁ」豹叉は舌なめずりした。「龍が惚れた女ってのはどういうもんだか、ぜひ喰ってみたい。とりあえず指三本。それくらいなら、まぁ、よくねえか?」
腕組みを解いてこちらに近づくので、全身の肌が粟立った。
この表情。人を人としては見ていない目。
いや、怖がるな。こんな最低な男に臆してどうする。
とっさに立ち上がると、力のかぎり怒鳴りつけた。
「その減らず口を閉じなさい、無礼者! わたしは蓮の王女よ、見くびらないで。不逞の輩に脅されて弱音を吐くと思ったら、大間違いなんだから!」
ふつふつと胸に湧いた熱が、怒りが、冷たい恐れを凌駕していく。
「それに、わたしの守護龍は強い。たかが獣人の長などに負けはしない」相手を指さして宣言した。「だから仙客として予言してあげる。簗の計画は、完全なる失敗に終わるでしょうよ。そしてあなたの一味は、この国から一人残らず駆逐されるんだわ!」
完全なはったりだった。けれど存外、この言葉は豹叉に効いたようだ。
「ほぉ。そりゃ興味深いねぇ。あんた、常世で仙客になってきたのか」
今にも雫玖を捕まえようとしていた手が、ぴたりと止まる。
「なあお姫さん、仙客ってのは龍の地上代行者だとも聞く。ひょっとして黄龍には、未来視の力があったりするのか?」
「教えない。あなたなどには関わりない話よ」
「……ふん。嘘だな。今のは苦し紛れに大口を叩いただけだ」
そのとおりだ。けれど雫玖は傲然と笑んだ。ここで引くわけにはいかない。
「そう思うなら、勝手に思っていればいいじゃない」
また豹叉の動きが鈍る。手のひらに汗が滲んだ。――琥珀お願い、早く戻って。
「ふむ。未来視はともかく、仙客に選ばれたっていうのは、本当かもな」豹叉は呟いた。「でなければ常世に入って、生身の女が簡単に戻ってこられるわけがない……」
「おい、雫玖から離れろ、豹叉」
その時だった。待ちわびた青年が忽然と姿を現した。雫玖は息を詰め、水鞠札の修行時に聞いた話を思い出す。龍は水の化身。だから水を媒介にして、身体を転移させることもできる。――そうか、先ほど撒いた水が、呼び水になったのかもしれない。
「遅くなってすまなかった」
琥珀は迷いない足取りで雫玖に近づいてくる。それを見た豹叉の瞳が爛々と輝いた。
「よぉし、網にかかったぞ、龍が。野郎ども、出てこい!」
大声を合図に、木立の間から次々と簗が現れる。
その数十二。いずれも黒装束で覆面姿だ。
雫玖はわなないた。しまった。わざと琥珀を呼ばせて、最初から龍を捕まえる手はずだったのか。どうする。十三対一では、さすがに多勢に無勢すぎる気が。
「殺すな、かならず生け捕りにしろ!」
「ごめんっ、わたし騙されてた、逃げて、こは」
「こら雫玖。誰に……」琥珀が腰を低く落とした。大きく足を開いて、ぐるりと周囲を見渡す。「逃げろって?」
距離を測っている。懐から苦無を一本取り出し、回し持つと両手で構えを取った。
「ひるむな、相手は一人だ、取り押さえろ!」
豹叉の声で簗がいっせいに飛びかかる。全方位からだ。
無理だ、あれでは逃れようがない。
しかし青年は演舞のように軽やかに、苦無を握りしめると身体を回転させた。
たちまち刃先から流れるように水が零れだし、飛瀑となって簗たちを吹き飛ばす。
小さな武具から出現したとは信じがたいほどの、凄まじい水圧だった。
うねり渦のような高速回転をやめると、琥珀は涼しい顔で姿勢を正す。
「あんたらは少しばかり、龍をなめすぎだよ」
「黄龍、どうやってこの短期間に、そんなに強くなった……」豹叉はたじたじと後ずさり、驚きを禁じ得ない様子だ。「俺ぁ商売柄、相手の力量は一目見れば、だいたいわかる。蒼海国でやり合った時は、たしかにそんな重い斬撃じゃなかったはずだぞ」
「あんたにやられたんで、少し真面目に修行しただけだ」
「ふむ。龍はやはり一筋縄ではいかないな。最弱の龍で、これほどの威力とは」
「最弱最弱って、うるせえよ」琥珀は目を細めた。「今のでわかったろ、鵺は龍には絶対に勝てない。それに見ろ」
ばらばらと木立から兵士が飛び出してくる。濃鼠色の甲冑。蓮兵たちだ。
「応援部隊も来たぞ。これ以上の戦闘は無意味だ、簗ども。悪あがきはよせ」
静かな声だった。視線はひたと豹叉を捕らえて放さない。
琥珀の身体からほとばしる覇気で、ざわざわとブナの木々がゆれる。
「くくっ、まさか、この俺が追いこまれるはな。だが黄龍。一つだけ、なにかを忘れていやしないか」
豹叉は犬歯をむき出して笑った。その口が古代語らしき唱言を唱える。
「起きろ、荒之王の呪よ!」
とたん、雫玖の左腕で眠っていた黒蛇がずるうと動き出した。
「あ、あっ、いやあっ」
あっという間だった。身体の自由が利かなくなり、蛇の強い力に引きずられるようにして豹叉の手に捕まってしまう。
「豹叉! 雫玖を離せ!」
「おおっと、止まれ。動くなよ。わかっていたろ、この呪詛が解けないかぎり、お姫さんの運命はつねに俺が握ってるって」豹叉はもがく雫玖を肩に抱きかかえた。「助けたくば、一人で追って来い。他はつれてくるな。いいな黄龍」
豹叉の足元にぽかりと闇穴が開くや、たちまち真っ黒なへどろがまとわりつき、ずぷぷ、容赦なく暗い穴へと引きこんでいく。
「じゃあな。あばよ」
「下ろして! やだーっ、助けて、琥珀っ!」
「雫玖! よせ、やめろ、豹叉!」
開けた口に触手が入りこんできて、声が出せない。
息が。苦しい。青年が形相を変えて、なにか叫んでいる。
ごめんなさい、琥珀。あなたの声が聞こえない。でも大丈夫、これしきのことでへこたれたりしないから。とりあえずはよかった、あなたが囚われずにすんで。
視界がじょじょに暗くなっていく。
豹叉。この獣人はまだなにか、恐ろしいことを企んでいる。そんな予感がある。
お願い琥珀、どうか油断しないで――。
喉に絡みついた言葉は雫玖の胸の奥深くで、いつまでも警鐘を鳴らしていた。




