15 帰路
「雫玖、俺は出立の準備をしてくる。湯浴みして着替えたい。少し待っててくれ」
凪が去ったあと、慌ただしく琥珀がいなくなると、雫玖は一人取り残された。状況の急展開に頭がまだ追いつかない。黄金館に来た目的は宝鱗を入手するためで、それには仙客に選ばれることが必須だったはずなのに。雫玖は瑪瑙、凪、琥珀のうち、いずれかの龍の仙客になれたのだろうか。それともまだ、なれずじまいのままなのか。
けれどとにかく、神器二つを手に入れるという旅の目的は達成されたのだ。ほっとして椅子に座りこんでいると、まもなく部屋に現れたのは女丞相だった。
「姫、茶器を下げに伺いました」
そう言われれば拒否する理由もない。漣がてきぱきと働くさまを観察していると、
「申しわけございませんでした」
どうしたことか突然、深く頭を下げられる。
「どうか大主の度重なる非礼をお許し下さいませ。あの方はどうしても、雫玖さまが欲しかったのでございます」
「えっ、顔を上げて下さい、全部わかってますから」
狼狽する雫玖の声に、漣はいぶかしむように首をかしげた。
「だって琥珀と瑪瑙って、結局は同じ龍ですよね? なら、どんな態度でなにを言われたって、わたしを一番に考えてくれている、そこに変わりはないですもん」
すると女官の綺麗な一重の目がじわりと潤んだ。
「雫玖さま。そこまでわかって下っているなら、やはりこのまま、大主の元にお留まり頂けませんでしょうか。瑪瑙さまは希有な血を持って生まれたせいで、この館に閉じこめられて育ちました。本当は孤独に耐えかねて分身を作ってしまうほど、とても繊細でお寂しい方なのです」
「ええっと、それもわかっているつもりです、けど……」
雫玖はきっぱりと顔を上げた。
「それでも、わたしが好きなのはやっぱり琥珀なんです。それに蓮の王女としても、誰が次王になるのか見届けたいですし」
今のままでは、蓮はまずい。兄の遺志を継ぐ誰かに、王に立ってもらわなければ。
「きっとなにも考えずに瑪瑙に頼って、甘えて従っていれば、全部上手く行くんだろうなとは思うんです。だけど本当にごめんなさい、わたしは兄と同じで、自分でも考えたい。なにかできることがあるなら行動したいんです」
「では雫玖さまは、大主をお嫌いになったわけでは」
「ないです。というか見た目や性格、全部ひっくるめて、むしろ好きです」
なんと言っても瑪瑙は琥珀の本体なのだ。そもそも嫌いになる要素がない。
「そうですか。そのお言葉を信じましょう」
漣は深い目をして雫玖を見やった。おもむろに帯より一枚の霊札を取り出す。
「では、これが最後の『黄龍の試し』になります。どうあっても祖国へ戻られると言うのなら、この大主からの餞別品『玉手札』をお持ち帰り下さい」
雫玖の手に霊札を落とすと、真剣な顔で言いさした。
「どうか肌身離さず、大主を思い出すよすがにしてほしいとの仰せです。ただし蓮の新王が選定されるまで、札を下賜されたことは他言禁止、使用もならぬと」
どういうことだろう。雫玖は目を細めた。
「これって水鞠札の一種なんですか?」
「ええ。琥珀さまなら、使い方をよくご存じです」
ますます意味がわからない。そういえば昔噺に、これと似た話があったような。
あれはたしかそう――昔、龍の女神と恋仲になった人間の王子が、蒼海国へ下って夫婦になった。だが常世に骨を埋めると誓ったはずの王子は、やがて郷里が恋しくなり現世に帰りたいと言う。
そこで下賜されたのが玉手箱だ。絶対に開けてはならぬと厳命されたその小箱を、王子は国に戻って開けてしまう。だが箱の中身は、王子が常世人として生きた時を封じたもので、禁を破った王子は、あっという間に老衰して死んでしまったのだ――。
「玉手札って、これ、けっこう危ない物なのでは」
受け取るのをやめようかと考えていると、深々と拝礼されてしまった。
「どうか何も聞かずに。それは大主の精一杯の心づくしですので」
「心づくし……、ですか?」
「大主はこうも仰せでした。『もし玉手札を渡し、雫玖が心変わりするようならば、私はいつでも外廷で待っている』と」
あきらかに何事かを胸に含んだまま、漣は殿舎を去って行ってしまう。
雫玖はため息をついた。一体どういうつもりだ。こちらは無知で短命な人間なのだから、何事も説明してもらわなければわからないというのに。
「でも龍族って、こういうものなのかな」
瑪瑙は龍だ。だから世界の見え方や価値観も人間とはちがって当然で、長寿で熟慮する時間もたくさんあるから、なんでも簡単には口に出さないのかもしれない。
「そっか。琥珀も人間の世界に来て、ずっとこういう違和感を感じていたのかも」
いくら蓮に溶けこんでいたって、琥珀だって龍にはちがいない。あの人の正体は、あくまで蒼海国側にある。そこまで考えて、はたと気づいた。
――そうだ、琥珀は歳を取らない。
今はいい。でも雫玖が壮年になり、やがて老年になったら? 琥珀はきっと今のまま、輝くように若々しい容姿で生き続ける。雫玖が腰の曲がった老婆になっても、琥珀だけは孫と同じくらいの見た目で、病や怪我とも無縁のままで。
――結局わたしは琥珀の人生の、ほんの一欠片にしかなれないんだ。
急にひたひたと恐怖が押し寄せてきた。雫玖が死んでも、琥珀はずっとその先まで生きていく。そこでまた別の出会いと新しい恋をして、雫玖と過ごした時は、いつしか小さな過去の思い出の一つになって消えてしまう。
――雫玖。おまえは本当に、その琥珀を選んで、悔いは残らないのだな。
瑪瑙の声が聞こえるような気がした。未来永劫、この黄金館にいろと言った黄龍。あの龍にはすべて見えている。このまま雫玖が琥珀と蓮に戻ればどうなるのか。そして今あちらを選べば、雫玖は瑪瑙に愛され続け、老いも病も気にせずいられることも。
「試しって、そういう意味で……? だから、この札をわたしにくれたの?」
きっとそうだ。手が震えていた。今ならまだ運命を変えられる。頭を垂れて瑪瑙の求愛を受け入れれば、いつか琥珀との寿命の差に絶望し、この札で自ら命を絶つ未来など永劫にやってこない。ぎゅっとまぶたを閉じた。
「雫玖? どうした、また気分が悪いのか」
ちょうどその時、扉のほうで声がした。琥珀だ。怪訝そうな表情でこちらを見ている。とっさに玉手札を帯にしまいこんだ。
「まさか……、あんた瑪瑙に、またなにか言われたんじゃ」
琥珀は聡い。この逡巡に気づかれるわけにはいかない。
「ううん、ちがうの。大丈夫」
べつに瑪瑙はなにか意地悪をしているわけではない。ただ問うているだけだ、雫玖の覚悟を。自然に足が動いて琥珀に向かう。抱きついて固い胸に顔を埋めた。
「しず、っ」
「大好き」
思うさま琥珀の匂いを嗅ぐ。うろたえる気配にかまわず、力一杯しがみつく。
「え? なに、いきなりどうし」
「わたしはやっぱり、琥珀がいい。もしも、どの龍の仙客になるか選んでいいなら、琥珀のになりたい」
「……」
「琥珀、お願い。わたしを離さないで」
しかたがないなと言うように、長い両腕が雫玖を囲いこむ。
何度も背中を撫でられ、髪に頬ずりされた。
「ねえ琥珀、もっと」
身体を押しつけて仰ぎ見ると、鬱金の瞳に歯がゆそうな色が浮かんだ。
端正な頬が傾いて、唇を寄せてくる。雫玖の唇へ静かに柔らかい感触が重なって、髪に指をさしいれられた。今度はすぐ外れない。
まぶたを閉じ、琥珀の吐息を余すことなく感じとる。暖かい。優しい。気持ちいい。
「……俺も、あんたが好き」
やがて湿った水音をたてて唇が離れていく。
「けど、あんまり煽らないでくれよ。今はここまで、な」
目線を上げると、ひどく照れくさそうな顔が雫玖を見下ろしていた。どきりとする。
「顔、真っ赤だぞ」
言わないでほしい。でも全部、見てほしい。だって琥珀だけだ。
触れるだけで、こんなに幸せな気持ちになるのも。抱きしめられてもせつなくて、大切にされるだけじゃ物足りなくて、もっと深く溶け合いたくなるのも。
「どうした。安心したか?」
「うん」
「じゃあ、そろそろ蓮に帰ろうか。後殿の龍門を開けてもらったから」
「わかった。行こう琥珀」
手をつながれて居住まいを正す。後悔しない、ここから一歩足を踏み出した勇気を。そういう生き方をすればいい。いや、しなくてはいけない、そう思った。




