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***

 紫龍(しりゆう)()くなって()(こう)、鏡を(かい)して(れん)を見ていたのは黄龍(きりゆう)で、先王、すなわち雫玖(しずく)の父も、()(のう)が選定した。王に紗里(サリ)巫女(みこ)()(むか)えるよう(うなが)したのも、鏡の精度――()紫龍(しりゆう)(うろこ)(れい)(りよく)がしだいに弱まっていたからだった。

 (れん)は周辺を大国に囲まれ、常に(あや)うい立ち位置にある。()(のう)は特に五十年前に進軍してきた(こう)(けい)(かい)した。(こう)には(れん)を手に入れたら久里(クリ)河に(きよ)(だい)堰堤(えんてい)を作る計画もあったからだ。そして(りゆう)は水脈が(みだ)れるのを(きら)う。

 水は世界を(めぐ)る血液と同じだ。一つの河が(とどこお)ったり()からびたりすれば、思いもかけないほど(こう)(はん)()()(きん)(こう)を生む。しかも(れん)の大地には、人体で言うところの経穴(つぼ)がいくつか(そん)(ざい)した。特にここの水脈を()らせるわけにはいかない。

 (たか)()が生まれたのは、ちょうどそのころだ。そして(おさな)()のころより、王子には天地の(れい)脈を感じ取れる(てん)()の才が見て取れた。だから()(のう)の期待は当然、高まった。この子は百年に一度の(けん)(おう)となるやもしれないと――。

 しかし(たい)(がい)の人間の目は(ふし)(あな)で、一生の間に真理を理解できる(きわ)みに(とう)(たつ)する者は、ごくわずかである。(たい)()で無知な者はすぐ、(せつ)()(てき)(よく)(とく)ばかり追い求めようとする。

 その(よく)ゆえに先王は、(こう)の間者に毒殺された。

 そうして王の死後すぐ、(とし)(わか)(たか)()王太子までもが命を(ねら)われた。

 だから()(のう)はやむなく、王弟の()()を王と(みと)めた。(たか)()が成人したら(じよう)()する約束で、王の代理を(よう)(にん)したのだ。だが()()王はこの約定を守らず、今も(ぎよく)()(とど)まり続けている――。

「……それで、どうなったの」

 雫玖(しずく)は固い声を出した。

 (ちや)(たく)の岩茶はとうに冷めてしまった。いつのまにか(さざなみ)の気配もなくなっている。

「どうもこうもない。歳破(さいは)内大臣とその(いつ)()(たか)()()()て、()()王から(おう)(けん)(だつ)(しゆ)しようと(はか)っていた。(たか)()が成人してよりずっとな」

「ひょっとして兄さまも、その(ぼう)(りやく)()(たん)していたのね?」

 兄が(うら)でなにかを(たくら)んでいたのは、雫玖(しずく)も知っている。

「ああ。(たか)()本人は平和主義者だったが、真っ白な手のままであったとは言いがたい。ただ王太子は常々、(せい)(こう)(ほう)では自分が王位を得られない現状を(うれ)いていた。……時に雫玖(しずく)、そなたは兄を矢で()た下手人は、(だれ)だと思っている」

「それは……、(こう)国の暗殺者だと」

「では、その暗殺者に命じたのは?」

 ()(ろん)()(おう)()(いつ)()だと答えそうになって、今の今、これを()(のう)が問うてきた意味を考えた。一つの(うす)(さむ)い可能性が(むね)()かぶ。うかがうように黄龍(きりゆう)を見つめた。

「まさか、()()()()さまなの?」

「そうだ」

(うそ)よそんな。いくら(じよう)()(いや)だからって、兄さまは実の(おい)なのに」

(うそ)ではない。(けん)()(よく)は人を(くる)わせる。一度、(みつ)の味を知ったら手放し(にく)い。この件はすでに、関係者間では周知の事実だった。しかし(みな)が、そなたを気づかって(ない)(しよ)にしていたのだ」

「そんな」

「それに嚆矢(こうし)()(おく)によれば、(たか)()は毒矢を受けた時、(りゆう)の血で()(せい)するのを(きよ)()して自ら死を選んだようだぞ」

 雫玖(しずく)悄然(しようぜん)として()(のう)を見つめた。

「どうして。助かる道が目の前に転がっていたのに」

「たとえ身体が回復したとて、(たか)()が命を(ねら)われ、落としかけた事実は消えぬ。周囲はかならず犯人をつきとめるだろう。その後はどうなる? やるかやられるか、(しゆ)()の道しか残っていない。だがそうやって相手と同じ場所へ()ち、()()られた(ぎよく)()()くのを、あの(せい)(れん)(けつ)(ぱく)な男は(ぜん)しとしなかったのだ」

 雫玖(しずく)はぎゅっと(まゆ)をよせる。

「それじゃ()(のう)は、兄さまは(なつ)(とく)して死を受け入れたって言いたいの?」

「そうだ。道半ばで()く無念はあったろうが、(たか)()従容(しようよう)として死についた」

「でも、そんなのって……」

 (なみだ)がこみ上げてきて、雫玖(しずく)(くちびる)()みしめた。信じたくないと思う反面、(なつ)(とく)してしまう自分がいる。兄はたしかにそういう人だった。理想に燃え、(せい)(じつ)で温かくて(やさ)しくて。だからこそ(みな)(した)われていたし、死してもなお、大勢から()しまれている。

「わたしは、守護龍(あなた)に兄を、助けてほしかったのに……!」

「知っている。そしてたしかに(たか)()を見殺しにしたのは(こう)()だが、(わたし)はあれの判断が、まちがっていたと思っておらぬ」()(のう)のまなざしは()るがなかった。「そなたの兄は、自らの命()けて物申したかったのだ。(みにく)()(よく)で王位に()(しつ)する伯父(おじ)に、『真の国の長とはいかなる者か。国の(ことわり)をねじ曲げ、(けつ)(えん)(はい)してでも()()(しつ)する者か、それとも天命を受け入れ、次代に希望を(たく)せる者か』と」

「そんなの。馬鹿みたい。いくら兄さまが(こころざし)を体現したって、()()()()さまの心には、まったく(ひび)いてない!」

 雫玖(しずく)は声を(ふる)わせた。王が自らの利益、(よく)(とく)(けん)()ばかりに関心を示すのは、結局この世の目に見えるものだけを信じているからだ。(かれ)にとって見えないものは(そん)(ざい)しない。世界の真理に()()など感じない。きっと()(れい)(ごと)(はら)(ふく)れないと思っている。

「だがな、雫玖(しずく)。よくよく考えてみよ。(たか)()(おも)いは、たとえ()()王の心を変えられずとも、その他の心ある者たちには、(ひび)いたのではないか?」

「え……」

「国とは、王一人で成り立つものではないぞ。そして世の中、()(せい)(しや)(けん)(せい)にへつらったり、おもねったりする者ばかりでもないということだ」()(のう)(たん)(たん)と語り続ける。「(たか)()にはたしかに王の素質があった。(しん)の王は千の言葉を()くすより、一の行動で大勢の気持ちを()らし、立ち位置をも変えられる。現にそなたとて、兄があのように死ななければ、仙客(サウロ)になろうと思わなかったはず」

 そのとおりだ。ぐうの()も出ない。

「かつてそなたは血を()く思いで(さけ)んでいたな、どうして(わたし)(たか)()を王太子に選んだのかと。選んでおきながら、なぜ見殺しにしたのかと。――これが(わたし)の答えだ。(なつ)(とく)してもらえただろうか」

 雫玖(しずく)はうなだれた。うなずかざるを得ない。やはり黄龍(きりゆう)の判断は正しかったのだ。兄の死は(ぐう)(ぜん)ではなく必然で、きっとこの事件の真相は、あまさず霊香院(れいこういん)(えん)()にも()(さい)される。(たか)()王太子は自らの命一つで、後世の(たみ)にまで残る()(はん)を示したのだ。

「ただ(たか)()()(ぎわ)に、妹が(てん)(がい)()(どく)になるのを(うれ)えていた。だから(わたし)は守護(りゆう)として、あの者の()(ゆう)を晴らしたいと思っている」

 ()(のう)はひたと雫玖(しずく)を見つめた。心の底まで(けず)()るような、(すず)やかなまなざし。

雫玖(しずく)。先だっての夜はすまなかった。(さざなみ)(しか)られてしまったよ、『そんなひねくれた言い方では、本当の(おも)いなど通じない』と」

 どくん、(むね)が鳴る。(へび)(にら)まれた(かえる)のように、身がすくんで動けない。

「ゆえに今一度だけ言おう。(わたし)にその身を(ささ)げよ。なぜなら(わたし)とつがって(りゆう)(おう)の子を産めば、そなたはもう()(らい)(えい)(ごう)、独りではなくなるからだ」

 これは絶対(ふく)(じゆう)の命令だ。ひれ()したくなるほどの()()(ゆう)顔で人の姿(すがた)をしていても、目前にいるのはまぎれもない(りゆう)(じん)で、心が引けて身体が(ふる)えてしまう。

()(のう)、ごめんなさい」必死に言葉を()いだ。「(わたし)が好きなのは()(はく)なの、あなたじゃない。それに(れん)に神器を(もど)さないといけないし、だから……」

「聞かぬ。鵺が(あん)(やく)する国になぞ、(こう)()だけ(もど)せばよい」

 ()(のう)は茶(たく)をどかすと、やにわに雫玖(しずく)の前にひざまずいた。頭が真っ白になる。

「き、黄龍(きりゆう)王! やめて!」

 あってはならない、神が人に頭を()れるなど。

「そなたは(やみ)(とど)かぬこの館で、(わたし)と生きよ。それが兄の願いでもあったのだから」

 両手を取ると、手の(こう)にうやうやしく口づける。(やわ)らかな(くちびる)(かん)(しよく)(はだ)がしびれたようになって、(しん)(ぞう)が高鳴る。()(はく)にも旅の()(ちゆう)で同じことをされた。――そう、まさにこの熱を帯びた目で。

「そなたは(わたし)(きら)いか」

 せつなげに息を()かれ、(とり)(はだ)が立った。()(はく)の顔で声で、その聞き方はずるすぎる。

「よく見ろ、(わたし)を。(さわ)って感じて、たしかめろ。本気で(こば)めるならやってみるがいい」

「や……っ、近い近い近っ、ちょっと!」

 やはり黄龍(きりゆう)は、まだなにも(あきら)めてはいなかった。この(りゆう)は本当に(かしこ)い。不意打ちの次は(せい)(こう)(ほう)――、しかも()き兄の志まで持ち出されて説得されたら、雫玖(しずく)(はん)(げき)する手立てなど残っているはずがない。指を(から)められ顔を近寄せられ、もうこれは(ばん)()(きゆう)すだと観念した(しゆん)(かん)、部屋の(とびら)がどん、と音を立てて大きく開いた。

「――なにをしている、()(のう)っ」

 (なぎ)の声だ。打たれたように立ち上がり、(とびら)へ走り寄る。前で(いきどお)っているほうは(なぎ)、後ろで表情を無くしているのは()(はく)。迷わず後者の(むね)に飛びこみ、()きついた。

()(はく)()(はく)っ、()(はく)!」

 (うで)を広げて(かか)えこまれ、心底、(あん)()する。やはり自分の居場所はここにしかない。

「……ああ、あと少しだったのに。残念だ」

 ()(かえ)ると、()(のう)(さび)しげな目をして雫玖(しずく)を見ていた。

 悪びれる様子もなく立ち上がると、(とつ)(ぜん)、部屋の(かべ)や家具が音を立てて(うな)りだす。

「おい、兄上。(おれ)雫玖(しずく)(ひめ)には手を出すなと、言ったはずだぞ」

 (なぎ)(ちよう)(はつ)が、ゆらゆらと(ちゆう)()らめいている。その額に(あお)(すじ)()いている。

「青よ。そういきり立つな」()(のう)()(しよう)した。「今ちょうど、(ひめ)の知らなかった(たか)()(ゆい)(ごん)と志について、真実を伝えていたところだったのだ」

「なんだ。そうだったのか? それは……、その、(おこ)って悪かった、すまない」

 急速に地鳴りが(おさ)まっていく。雫玖(しずく)は目をつむった。

 (せい)(りゆう)(じゆん)(すい)すぎる。(うたが)うことを知らないのか。

「そうだ、だから(なつ)(とく)したなら二人とも引け。(わたし)は今少し、雫玖(しずく)と二人で話がしたい」

「いや。その前にこちらも雫玖(しずく)(ひめ)に、大事な話がある。――雫玖(しずく)(ひめ)、少しいいか!」

 (なぎ)(とつ)(ぜん)、上衣を()ぎ始めた。(ちゆう)(ちよ)なく上半身(はだか)になる。それは()(ぎも)()かれるほど美しい肉体だった。(きた)()かれた(きん)(にく)。深々と()れた(ふつ)(きん)。そのまま、するりと帯を(ゆる)め、(へそ)の下まで長袴をずりさげ始めるので、雫玖(しずく)はぎょっとしてのけぞった。

「ちょっ、(なぎ)、どこまで()ぐ気なの?」

「まあ、そこは気にするな」

 気にするとかしないの問題ではなく。その(ちよう)(ぞう)みたいな()(しん)をむやみに(さら)さないでほしい、目のやり場が。赤くなってうろたえていると、()(のう)(あき)れた声を出した。

(あお)よ。おまえはいったい、なにがしたいのだ」

「つまりだ。(おれ)は、兄上は無理して(うろこ)()がす必要はないぞと言いたくて、だな」(なぎ)はとってつけたような()みを()かべると、(こし)(ぼね)あたりに(つめ)を立てた。「なぜって、(おれ)たち(りゆう)(うろこ)はものすごく(かた)くて、(いち)(まい)はぎ取るのにも一苦労する。知っていたか?」

 めりめり音をたてて、()(とん)(ちやく)に青玉色の(うろこ)がむしり取られる。

「ほら。このように大変だ」

 雫玖(しずく)は口を丸く開いた。ついでぞわっと寒気がくる。思わず()(はく)にしがみついた。

「なあ雫玖(しずく)(ひめ)(れん)の神器はべつに、どの(りゆう)(うろこ)を使ってもいいんだろ。(たん)(れん)中、ふと思いついたんだ。『なら(おれ)のをやればいいじゃないか』って。で、(なん)(まい)必要だ?」

 ()いた()(しよ)()()に血を()()げているのに、取った当人はいたって(てん)(たん)としている。(はげ)しい(ちん)(もく)が落ちた。

 まさか、こうくるとは。(なぎ)以外の三人とも、絶句して言葉が出ない。

「あー、まてよ。たしか()(すい)は初代(れい)大師に、四(まい)やったんだったよな?」

 (せい)(りゆう)(つめ)(ごう)(いん)()()(うろこ)をむしりとるたび、(せん)(けつ)が飛び散る。たまらず(さけ)んだ。

「やめて、もうやめて(なぎ)(いた)くて、とても見ていられない!」

「なにを言っている。このぐらい朝飯前だぞ。なにせ(おれ)は天宮の中でも、最上級の()()だからな」

 (ぶつ)(ちよう)(づら)ながら、その(ひとみ)はどこか得意げですらあった。

 と、(となり)()(はく)()(おう)するように(むな)(もと)から苦無を取り出すや、(とう)(とつ)(ひだり)(うで)()()く。

「いやぁっ、なにするのよ、()(はく)までっ」

「心配するな、雫玖(しずく)。すぐに終わる」

 ぞわぞわと()(すじ)を寒くする雫玖(しずく)をよそに、()(はく)はあうんの()(きゆう)(なぎ)(きず)(ぐち)に自らの血を注ぐ。たちまち(うす)(すい)(じよう)()が上がり、えぐれた(きず)(ぐち)()()が始まった。

「おお()(はく)、すまない、助かる」

(なぎ)。あんたはどうしていつもそう、なんの(まえ)()れもなく()(ちや)()(ちや)し出すんだよ」

()(ちや)? なにが。お(たが)(さま)だろうが」

「いや、(おれ)は元々こういう身体だから」

 ()(はく)は苦無についた血を(はら)うと、自然な動作で(うで)に力を()めた。

 たちまち肉が()()がって(きず)が再生していく。めまいがした。

「気持ち悪……、()きそう」

 (りゆう)(がん)(けん)で表情に(とぼ)しく、めったに(おこ)らない反面、(あら)ぶると手に負えない。口数少ないのは目で意思()(つう)するせいで。知っているけれど、いい加減にしてほしい。こう精神、肉体ともに(きよう)(じん)すぎると、人であるこちらは(きも)を冷やすばかりになってしまう。

「さてと。これで(うろこ)問題は解決したぞ。良かったな!」

 口を手で(おお)雫玖(しずく)と、その()をさする()(はく)。二人に(とん)(ちやく)せず、(なぎ)()()(よう)(よう)(こし)に手を当てた。それからふと思い出したように手を打った。

「そうだ、()(のう)。一言あんたに、言ってもいいか?」

「なんだ」

「どうもわかっていないようだから、教えてやるが。――この雫玖(しずく)(ひめ)()(はく)は、相思相愛の(こい)(びと)同士だぞ」

 しん、おそろしいほどの(せい)(じやく)が落ちる。

「まあそう(おどろ)くのも無理はない。しかし本当の話なんだ。(いろ)(こい)(うと)(おれ)でも気づけたくらい、この二人は貝合(かいあわせ)のようにいつもべったりしている。だからな、いくらあんたが雫玖(しずく)(ひめ)に求愛しても()()なんだよ。てことで、()()はよせよ?」

 (だま)りこむ三人をよそに、(なぎ)はいたって真顔だった。

「なんだ、そう、がっかりするな。(おれ)()(のう)が大好きだし」

「それは前にも聞いた」

「そうか。覚えていたなら良かった」

「なにが良いものか」

 この(ぼく)(ねん)(じん)(のう)(きん)めと、(なぎ)に聞こえない音量で(つぶや)いているのが、聞こえてしまう。

「そんなことより、(なぎ)(おう)()(でん)(しよう)のほうは、どうなったんだ」

「ああ、九(わり)がた()()くいったぞ。あとは()(はく)しだいで完成する」

「……本当か? (こう)()

「はい、大主(たいしゆ)

 よく見れば()(はく)の着物はぼろぼろで、(かみ)()(ぞろ)いに()びていた。よほど(はげ)しい(たん)(れん)をしてきたのだろう。()(のう)()すような目つきになって命じた。

「では嚆矢(こうし)(わたし)の前へ」

 まるで三日前に見た光景の再現だ。黄龍(きりゆう)の前に出て(かた)(ひざ)をつく()(はく)。立ったまま額に左手を乗せる()(のう)。二人は石像のように動かなくなり、――しかし次の(しゆん)(かん)()(のう)(とう)(とつ)に顔を(ゆが)ませ、熱いものを(さわ)ったように手を外してのけぞった。

「なぜだっ! なんだこれは、()(おく)も知識も共有できないではないかっ」

「ふぅん、そうか。やっぱりな」

 (なぎ)(かん)(がい)(ぶか)げに、深くうなずいている。

(あお)……? おまえ一体、なにをした」

(おれ)は別になにもしていないぞ。(たん)(じゆん)な話、ただ()(はく)の力が、兄上を(りよう)()しただけだ」

「なん……」

(りゆう)(おう)()は一日にしてならず。()くなき(たん)(れん)と精神修養を()()め、()()まさなければならない。武芸とは、そういうものだ」(すず)しい顔で平然と言いきる。「(たん)(れん)中、()(はく)は七回ほど死にかけた。()()の力も間に合わず、龍脈水のおかげで命(じゆう)いしたほどだ。あの(そう)(ぜつ)(しゆ)(ぎよう)無くして、はたして成果だけを共有できるのか、(おれ)もずっと知りたかったんだ。たった今、その結果がわかって満足したよ」

 (なぎ)()(のう)に近寄ると、(よう)(しや)なく(かた)(たた)いた。

「兄上、顔色が悪いぞ。まるでこの間の()(はく)みたいだ。横にならなくても(だい)(じよう)()か?」

「青。おまえ、この(わたし)(ため)したな!」

()(のう)だって、(おれ)(ため)したじゃないか。お(たが)いさまだ。それに(りゆう)(ため)し好きな種族だ」

 (せい)(りゆう)()んだ(ひとみ)に、まったく悪意はない。

「ただ兄上は、これで()(はく)を軽々しく(あつか)えなくなったわけだな」

「なんだと」

「分身と言えど、(おう)()(けい)(しよう)(しや)玉龍帝(ぎよくりゆうてい)(じよ)(くん)対象。つまり今や()(はく)は、兄上より立場も(りよ)(りよく)も上位にいる。だからもう(こう)()なんて(べつ)(しよう)で、こいつを()ぶなよ?」

 雫玖(しずく)(むね)をつかれた。今ようやくわかった、(せい)(りゆう)の真意が。(なぎ)は初めから、この(てん)(かい)(ねら)っていたのだ。それで()(はく)に何度も、()()でも(たん)(れん)しろ、(おう)()を修得しろと。

「っ、(はか)ったな、(あお)!」

「なにが。(はか)ってなんかいない。(おれ)にとっては()(のう)()(はく)も、等しく大事ってだけだ」

 この青い(きば)は――、けっして(のう)(きん)(いつ)(ぺん)(とう)ではない。

 すこぶる身内(おも)いで、おまけに黄龍(きりゆう)(くつ)(せつ)した性格もよく理解している。

「いいか、兄上。(おれ)たち(りゆう)は、おそらく今の世界で一番(ちよう)寿(じゆ)だ」せつせつと(さと)す声。「かつて()(すい)(おれ)に言った、『(めぐ)まれた(きよう)(ぐう)に生まれついた者は、弱き者を(たす)けなければならない』と」

 なんだか今日は(なぎ)が、ひときわ大きく見える。

「そうして(おれ)は、()(すい)()()()いだ。だから武道の(たん)(れん)(おこた)らない。毎日、(たん)(れん)して(たん)(れん)して(たん)(れん)して(たん)(れん)しても、まだ足りない」

「おまえ、なにが言いたい。まさかこの(わたし)にも、(おう)()(しゆ)(ぎよう)をしろと?」

 ()(のう)はひどく()(おん)なまなざしで(なぎ)(にら)んだ。

「いいや、そうじゃない。兄上の身体じゃ(おう)()(しゆ)(ぎよう)は無理だ、()えられない。ただ(おれ)たち(りゆう)はまず(おとろ)えない。()()の血を持つ(りゆう)なんか、とりわけな。その事実から()げることは絶対にできない。つまり(おれ)が言いたいのはだ……、ええと」

 首をひねった。言葉を(さが)すように、しばらく間をおいてから、ああとうなずく。

「兄上は()()()()()()()()()()()()()(かげ)()()()()()()ってことだ」

 雫玖(しずく)は目をしばたたいた。気のせいだろうか。

 今、(なぎ)の一言に(しよう)(げき)を受けていたのは、()(のう)よりむしろ()(はく)のほうに見えた。

「おまえはこの(わたし)が、不完全な自分の分身を、(うらや)んでいるとでも?」

 ()(のう)が皮肉げに(かた)(ほお)をつりあげる。すると(なぎ)はまた考えてから、はっきりと応えた。

「いいや。兄上は単に(さび)しがりなんだろ。だから()(はく)を手元に置いておきたい。気に入っているからこそ、絶対に自分から(はな)れないようにしておきたい。不幸な目に()わせたくないんだ。()(なお)にそうと言えない性格だが、本当はとても(やさ)しいから」

 ひたと黄龍(きりゆう)にむけるまなざしに、あいかわらず(うそ)や迷いは()(じん)も感じられない。

 たまらなくなったように、()(のう)(かた)に乗った(なぎ)の手を(はら)いのけた。

「ふざけるな。青の話はいつも、わけがわからない! (わたし)はもう中殿(どの)へ戻るっ」

「待てよ()(のう)(おれ)の伝え方が下手くそなのは悪かった、(あやま)る。だが()(はく)雫玖(しずく)を、(れん)(もど)す話がまだ終わってないぞ」

「勝手にしろ。(たから)(うろこ)はもう手に入ったんだから、雫玖(しずく)が黄金館に長居する理由もなくなったはずだ」

「兄上、それはどういう――」

 ()(のう)(いつ)()だにせず去って行く。ややあって(なぎ)はその()(なか)に大きく(さけ)んだ。

「……ありがとう、()(はく)を解放してくれて!」

 やがて黄龍(きりゆう)(かい)(ろう)を曲がりきると、それまで(だま)りこくっていた()(はく)(つぶや)いた。

(おどろ)いたな。まさかあんたに、あのこじらせ(りゆう)をやりこめる力があったとは」

「おい。大概(たいがい)失礼だよな、おまえも兄上も」(なぎ)はわずかに(まゆ)をよせる。「弟には弟の苦労ってものがあるんだぞ、それなりに」

 きらめく青い(うろこ)を、ぞんざいに()(はく)の手に落としていく。

「ともかくこれで、あとは雫玖(しずく)(ひめ)(かしり)(かい)(じよ)だけだろう。幸い、(おれ)の仲間に(かみなり)(あつか)える()()がいてな。()()()(けん)(じゆう)いがてら、あいつに手助けを(たの)んできてやるよ」

 どうだと言いたげな(せい)(りゆう)()(せん)。先に目をそらしたのは()(はく)のほうだった。

「……ありがとう、(なぎ)

「よしよし。(れい)()(ただ)しいのは良いぞ。そうだ()(はく)、おまえの苦無(くない)を一本よこせ」

 (えん)(りよ)無くさしだされた手。()(はく)()(しよう)()(しよう)(ふところ)から出した武具を(あず)けると、

「おお、やはりいいな、この武具は。手入れがじつに()(とど)いていて、(はだ)()()む!」

 (つか)(がしら)に指をかけて回転させたり、(けん)身で空を切ったり、何度も(にぎ)りこんだりしている。()()れするほど(くろ)(うと)の手つきだった。

「それ、どうするつもりなんだ」

「いいからこれも、(おれ)(あず)けろ。あとでかならず返す」

「は? (おれ)その苦無(くない)、けっこう気に入ってんだけど。ちゃんと返せよな?」

 ()(はく)はまるで弟に、お気に入りの玩具(おもちや)を取られた兄の顔だ。

「言いたかねえけど、(なぎ)、あんたその苦無(くない)にずっと目をつけてたろ、(たん)(れん)前から」

「ああ、まあな。それじゃとりあえず、いったん別れよう」

 (なぎ)はあいかわらず無神経に()(はく)()()したまま、満足気に苦無(くない)を帯にはさみこむ。

「用事が(かん)(りよう)した以上、二人は(いつ)(こく)も早く(れん)(もど)った方が良いし」

 まるで一件落着したと言わんばかりだ。どんどん話が進んでいく、この(しつ)(ぷう)のような決断と行動力。(つう)(かい)というか(きよう)(たん)というか、たしかに(せい)(りゆう)()きこまれたら、(だれ)しも(かれ)の力()しに(したが)ってしまうだろう。でも主張すべきところはしておかないと。

「なんで? (なぎ)、ちゃんと説明して、わたしだけ話が全然、見えてないんですけど!」

 しびれを切らした雫玖(しずく)が口を(はさ)むと、()(はく)が代わりに答えた。

「この(とこ)()では、他より時が(かん)(まん)に流れている。(いま)(ごろ)もう、(れん)では夏の終わりなんだ」

「えっ、それはつまり立太子の()まで、もう間がないってことよね?」顔色を変えて聞き返すと、「(だい)(じよう)()雫玖(しずく)(ひめ)、今(もど)れば、まだぎりぎり間に合う。それより(おれ)()(はく)にも一言、言っておきたいんだが。いいだろうか」

 (なぎ)()(はく)の前に立った。しかつめらしい顔を作る。

「なんだよ(なぎ)、改まって」

()(はく)。おまえは今や、(おう)()()(とく)した。そして分身ながら本体よりも強くなった。よくぞ()げずに運命を切り開いたな、これは(ほこ)るべきことだ」

 一言一言、区切るように話す言葉。強くゆるぎないまなざし。まっすぐな声。

「だから()(はく)は、もう自分を()()するな。()()()()()()()()()()()()(おれ)()()(のう)()()()()()(とう)(てい)()()()()()()()。兄弟、(おれ)はおまえを信じているよ」

 (せい)(りゆう)の手が自らの()(すい)(かみ)(かざ)りを()()って、()(はく)(けつ)(ぱつ)にさしこんだ。青い()()が清流のように心へ流れこんでくる。――まったく、この(りゆう)は。()(がしら)が熱くなった。

「ん、雫玖(しずく)(ひめ)? どうした、なんで泣く」

「だって(なぎ)が、(たか)()兄さまみたいだったから、つい」

「前から気になっていたんだが。(おれ)はひょっとして、(ひめ)の兄に似ているのだろうか」

 (ほお)を手で(ぬぐ)い、うなずくと、(なぎ)は思案顔になった。

「そうか。ならば雫玖(しずく)(ひめ)は今日から(おれ)を、その兄の身代わりだと思え。(おれ)も妹を守る兄として、この一件に最後まで関わらせてもらう」

「え、そんな、いいの?」

 (せい)(りゆう)()(けい)とは、なんて心強いのだろう。

「いい。ふふん、(おれ)が兄か。じつに良い(ひび)きだ」

「……それに、あんたが任務上()()できない、(ぬえ)(から)んでいることだしな」

 すかさず間に()りこんできた()(はく)を見て、雫玖(しずく)(あい)(まい)に笑った。

 ()(のう)ほどではないにせよ、()(はく)もけっこう(しつ)()(ぶか)い。

 けれど(なぎ)は案の定、この()(みよう)な空気にはまったく気づいていないようだ。

「そうだったな、気をつけろよ()(はく)。あの(じゆう)(じん)はまだ、おまえを(あきら)めていないぞ」

「重々、注意するさ」

「よし。じゃあな雫玖(しずく)(ひめ)(れん)でまた会おう」

 ()(はく)と固い(ほう)(よう)()わすと、一(じん)(しつ)(ぷう)のように部屋を立ち去っていく。

 (せい)(りゆう)(おう)(あお)(なぎ)。まっすぐで(じゆん)(すい)で、とんでもない()(かい)(りよく)を内に()めた武神(しよう)

 口下手で不器用で無愛想なのに、気づいたらここまで好感度だだ上がりだなんて、最初に出会った時には想像もできなかった。――どうか早く(もど)ってきて。

 なぜって、この先はきっと(あらし)だ。黄金館(ここ)はこんなに(おだ)やかなのに。

 (まど)からたおやかな(もも)の香が(ただよ)ってくる。雫玖(しずく)はぶるりと身を(ふる)わせた。

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