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紫龍が亡くなって以降、鏡を介して蓮を見ていたのは黄龍で、先王、すなわち雫玖の父も、瑪瑙が選定した。王に紗里の巫女妃を迎えるよう促したのも、鏡の精度――亡き紫龍の鱗の霊力がしだいに弱まっていたからだった。
蓮は周辺を大国に囲まれ、常に危うい立ち位置にある。瑪瑙は特に五十年前に進軍してきた庚を警戒した。庚には蓮を手に入れたら久里河に巨大な堰堤を作る計画もあったからだ。そして龍は水脈が乱れるのを嫌う。
水は世界を巡る血液と同じだ。一つの河が滞ったり干からびたりすれば、思いもかけないほど広範囲に不均衡を生む。しかも蓮の大地には、人体で言うところの経穴がいくつか存在した。特にここの水脈を凝らせるわけにはいかない。
高瀬が生まれたのは、ちょうどそのころだ。そして幼子のころより、王子には天地の霊脈を感じ取れる天賦の才が見て取れた。だから瑪瑙の期待は当然、高まった。この子は百年に一度の賢王となるやもしれないと――。
しかし大概の人間の目は節穴で、一生の間に真理を理解できる極みに到達する者は、ごくわずかである。怠惰で無知な者はすぐ、刹那的な欲得ばかり追い求めようとする。
その欲ゆえに先王は、庚の間者に毒殺された。
そうして王の死後すぐ、年若い高瀬王太子までもが命を狙われた。
だから瑪瑙はやむなく、王弟の波布を王と認めた。高瀬が成人したら譲位する約束で、王の代理を容認したのだ。だが波布王はこの約定を守らず、今も玉座に留まり続けている――。
「……それで、どうなったの」
雫玖は固い声を出した。
茶卓の岩茶はとうに冷めてしまった。いつのまにか漣の気配もなくなっている。
「どうもこうもない。歳破内大臣とその一派は高瀬を盛り立て、波布王から王権を奪取しようと謀っていた。高瀬が成人してよりずっとな」
「ひょっとして兄さまも、その謀略に加担していたのね?」
兄が裏でなにかを企んでいたのは、雫玖も知っている。
「ああ。高瀬本人は平和主義者だったが、真っ白な手のままであったとは言いがたい。ただ王太子は常々、正攻法では自分が王位を得られない現状を憂いていた。……時に雫玖、そなたは兄を矢で射た下手人は、誰だと思っている」
「それは……、庚国の暗殺者だと」
「では、その暗殺者に命じたのは?」
無論、魅音王妃の一派だと答えそうになって、今の今、これを瑪瑙が問うてきた意味を考えた。一つの薄ら寒い可能性が胸に浮かぶ。うかがうように黄龍を見つめた。
「まさか、波布叔父さまなの?」
「そうだ」
「嘘よそんな。いくら譲位が嫌だからって、兄さまは実の甥なのに」
「嘘ではない。権威欲は人を狂わせる。一度、蜜の味を知ったら手放し難い。この件はすでに、関係者間では周知の事実だった。しかし皆が、そなたを気づかって内緒にしていたのだ」
「そんな」
「それに嚆矢の記憶によれば、高瀬は毒矢を受けた時、龍の血で蘇生するのを拒否して自ら死を選んだようだぞ」
雫玖は悄然として瑪瑙を見つめた。
「どうして。助かる道が目の前に転がっていたのに」
「たとえ身体が回復したとて、高瀬が命を狙われ、落としかけた事実は消えぬ。周囲はかならず犯人をつきとめるだろう。その後はどうなる? やるかやられるか、修羅の道しか残っていない。だがそうやって相手と同じ場所へ堕ち、血塗られた玉座に就くのを、あの清廉潔白な男は善しとしなかったのだ」
雫玖はぎゅっと眉をよせる。
「それじゃ瑪瑙は、兄さまは納得して死を受け入れたって言いたいの?」
「そうだ。道半ばで逝く無念はあったろうが、高瀬は従容として死についた」
「でも、そんなのって……」
涙がこみ上げてきて、雫玖は唇を噛みしめた。信じたくないと思う反面、納得してしまう自分がいる。兄はたしかにそういう人だった。理想に燃え、誠実で温かくて優しくて。だからこそ皆に慕われていたし、死してもなお、大勢から惜しまれている。
「わたしは、守護龍に兄を、助けてほしかったのに……!」
「知っている。そしてたしかに高瀬を見殺しにしたのは嚆矢だが、私はあれの判断が、まちがっていたと思っておらぬ」瑪瑙のまなざしは揺るがなかった。「そなたの兄は、自らの命賭けて物申したかったのだ。醜く我欲で王位に固執する伯父に、『真の国の長とはいかなる者か。国の理をねじ曲げ、血縁を排してでも我に固執する者か、それとも天命を受け入れ、次代に希望を託せる者か』と」
「そんなの。馬鹿みたい。いくら兄さまが志を体現したって、波布叔父さまの心には、まったく響いてない!」
雫玖は声を震わせた。王が自らの利益、欲得、権威ばかりに関心を示すのは、結局この世の目に見えるものだけを信じているからだ。彼にとって見えないものは存在しない。世界の真理に価値など感じない。きっと綺麗事で腹は膨れないと思っている。
「だがな、雫玖。よくよく考えてみよ。高瀬の想いは、たとえ波布王の心を変えられずとも、その他の心ある者たちには、響いたのではないか?」
「え……」
「国とは、王一人で成り立つものではないぞ。そして世の中、為政者の権勢にへつらったり、おもねったりする者ばかりでもないということだ」瑪瑙は淡々と語り続ける。「高瀬にはたしかに王の素質があった。真の王は千の言葉を尽くすより、一の行動で大勢の気持ちを揺らし、立ち位置をも変えられる。現にそなたとて、兄があのように死ななければ、仙客になろうと思わなかったはず」
そのとおりだ。ぐうの音も出ない。
「かつてそなたは血を吐く思いで叫んでいたな、どうして私が高瀬を王太子に選んだのかと。選んでおきながら、なぜ見殺しにしたのかと。――これが私の答えだ。納得してもらえただろうか」
雫玖はうなだれた。うなずかざるを得ない。やはり黄龍の判断は正しかったのだ。兄の死は偶然ではなく必然で、きっとこの事件の真相は、あまさず霊香院縁起にも記載される。高瀬王太子は自らの命一つで、後世の民にまで残る規範を示したのだ。
「ただ高瀬は死に際に、妹が天涯孤独になるのを憂えていた。だから私は守護龍として、あの者の杞憂を晴らしたいと思っている」
瑪瑙はひたと雫玖を見つめた。心の底まで削り取るような、涼やかなまなざし。
「雫玖。先だっての夜はすまなかった。漣に叱られてしまったよ、『そんなひねくれた言い方では、本当の想いなど通じない』と」
どくん、胸が鳴る。蛇に睨まれた蛙のように、身がすくんで動けない。
「ゆえに今一度だけ言おう。私にその身を捧げよ。なぜなら私とつがって龍王の子を産めば、そなたはもう未来永劫、独りではなくなるからだ」
これは絶対服従の命令だ。ひれ伏したくなるほどの覇気。優顔で人の姿をしていても、目前にいるのはまぎれもない龍神で、心が引けて身体が震えてしまう。
「瑪瑙、ごめんなさい」必死に言葉を継いだ。「私が好きなのは琥珀なの、あなたじゃない。それに蓮に神器を戻さないといけないし、だから……」
「聞かぬ。鵺が暗躍する国になぞ、嚆矢だけ戻せばよい」
瑪瑙は茶卓をどかすと、やにわに雫玖の前にひざまずいた。頭が真っ白になる。
「き、黄龍王! やめて!」
あってはならない、神が人に頭を垂れるなど。
「そなたは闇の届かぬこの館で、私と生きよ。それが兄の願いでもあったのだから」
両手を取ると、手の甲にうやうやしく口づける。柔らかな唇の感触。肌がしびれたようになって、心臓が高鳴る。琥珀にも旅の途中で同じことをされた。――そう、まさにこの熱を帯びた目で。
「そなたは私が嫌いか」
せつなげに息を吐かれ、鳥肌が立った。琥珀の顔で声で、その聞き方はずるすぎる。
「よく見ろ、私を。触って感じて、たしかめろ。本気で拒めるならやってみるがいい」
「や……っ、近い近い近っ、ちょっと!」
やはり黄龍は、まだなにも諦めてはいなかった。この龍は本当に賢い。不意打ちの次は正攻法――、しかも亡き兄の志まで持ち出されて説得されたら、雫玖に反撃する手立てなど残っているはずがない。指を絡められ顔を近寄せられ、もうこれは万事休すだと観念した瞬間、部屋の扉がどん、と音を立てて大きく開いた。
「――なにをしている、瑪瑙っ」
凪の声だ。打たれたように立ち上がり、扉へ走り寄る。前で憤っているほうは凪、後ろで表情を無くしているのは琥珀。迷わず後者の胸に飛びこみ、抱きついた。
「琥珀、琥珀っ、琥珀!」
腕を広げて抱えこまれ、心底、安堵する。やはり自分の居場所はここにしかない。
「……ああ、あと少しだったのに。残念だ」
振り返ると、瑪瑙が寂しげな目をして雫玖を見ていた。
悪びれる様子もなく立ち上がると、突然、部屋の壁や家具が音を立てて唸りだす。
「おい、兄上。俺は雫玖姫には手を出すなと、言ったはずだぞ」
凪の長髪が、ゆらゆらと宙で揺らめいている。その額に青筋が浮いている。
「青よ。そういきり立つな」瑪瑙は苦笑した。「今ちょうど、姫の知らなかった高瀬の遺言と志について、真実を伝えていたところだったのだ」
「なんだ。そうだったのか? それは……、その、怒って悪かった、すまない」
急速に地鳴りが収まっていく。雫玖は目をつむった。
青龍は純粋すぎる。疑うことを知らないのか。
「そうだ、だから納得したなら二人とも引け。私は今少し、雫玖と二人で話がしたい」
「いや。その前にこちらも雫玖姫に、大事な話がある。――雫玖姫、少しいいか!」
凪は突然、上衣を脱ぎ始めた。躊躇なく上半身裸になる。それは度肝を抜かれるほど美しい肉体だった。鍛え抜かれた筋肉。深々と割れた腹筋。そのまま、するりと帯を緩め、臍の下まで長袴をずりさげ始めるので、雫玖はぎょっとしてのけぞった。
「ちょっ、凪、どこまで脱ぐ気なの?」
「まあ、そこは気にするな」
気にするとかしないの問題ではなく。その彫像みたいな裸身をむやみに晒さないでほしい、目のやり場が。赤くなってうろたえていると、瑪瑙が呆れた声を出した。
「青よ。おまえはいったい、なにがしたいのだ」
「つまりだ。俺は、兄上は無理して鱗を剥がす必要はないぞと言いたくて、だな」凪はとってつけたような笑みを浮かべると、腰骨あたりに爪を立てた。「なぜって、俺たち龍の鱗はものすごく硬くて、一枚はぎ取るのにも一苦労する。知っていたか?」
めりめり音をたてて、無頓着に青玉色の鱗がむしり取られる。
「ほら。このように大変だ」
雫玖は口を丸く開いた。ついでぞわっと寒気がくる。思わず琥珀にしがみついた。
「なあ雫玖姫。蓮の神器はべつに、どの龍の鱗を使ってもいいんだろ。鍛錬中、ふと思いついたんだ。『なら俺のをやればいいじゃないか』って。で、何枚必要だ?」
剥いた箇所は派手に血を吹き上げているのに、取った当人はいたって恬淡としている。激しい沈黙が落ちた。
まさか、こうくるとは。凪以外の三人とも、絶句して言葉が出ない。
「あー、まてよ。たしか紫水は初代霊大師に、四枚やったんだったよな?」
青龍の爪が強引に我が身の鱗をむしりとるたび、鮮血が飛び散る。たまらず叫んだ。
「やめて、もうやめて凪、痛くて、とても見ていられない!」
「なにを言っている。このぐらい朝飯前だぞ。なにせ俺は天宮の中でも、最上級の衛士だからな」
仏頂面ながら、その瞳はどこか得意げですらあった。
と、隣で琥珀が呼応するように胸元から苦無を取り出すや、唐突に左腕を切り裂く。
「いやぁっ、なにするのよ、琥珀までっ」
「心配するな、雫玖。すぐに終わる」
ぞわぞわと背筋を寒くする雫玖をよそに、琥珀はあうんの呼吸で凪の傷口に自らの血を注ぐ。たちまち薄く水蒸気が上がり、えぐれた傷口の治癒が始まった。
「おお琥珀、すまない、助かる」
「凪。あんたはどうしていつもそう、なんの前触れもなく無茶苦茶し出すんだよ」
「無茶? なにが。お互い様だろうが」
「いや、俺は元々こういう身体だから」
琥珀は苦無についた血を払うと、自然な動作で腕に力を込めた。
たちまち肉が盛り上がって傷が再生していく。めまいがした。
「気持ち悪……、吐きそう」
龍は頑健で表情に乏しく、めったに怒らない反面、荒ぶると手に負えない。口数少ないのは目で意思疎通するせいで。知っているけれど、いい加減にしてほしい。こう精神、肉体ともに強靱すぎると、人であるこちらは肝を冷やすばかりになってしまう。
「さてと。これで鱗問題は解決したぞ。良かったな!」
口を手で覆う雫玖と、その背をさする琥珀。二人に頓着せず、凪は意気揚々と腰に手を当てた。それからふと思い出したように手を打った。
「そうだ、瑪瑙。一言あんたに、言ってもいいか?」
「なんだ」
「どうもわかっていないようだから、教えてやるが。――この雫玖姫と琥珀は、相思相愛の恋人同士だぞ」
しん、おそろしいほどの静寂が落ちる。
「まあそう驚くのも無理はない。しかし本当の話なんだ。色恋に疎い俺でも気づけたくらい、この二人は貝合のようにいつもべったりしている。だからな、いくらあんたが雫玖姫に求愛しても無駄なんだよ。てことで、野暮はよせよ?」
黙りこむ三人をよそに、凪はいたって真顔だった。
「なんだ、そう、がっかりするな。俺は瑪瑙が大好きだし」
「それは前にも聞いた」
「そうか。覚えていたなら良かった」
「なにが良いものか」
この朴念仁の脳筋めと、凪に聞こえない音量で呟いているのが、聞こえてしまう。
「そんなことより、凪。奥義の伝承のほうは、どうなったんだ」
「ああ、九割がた上手くいったぞ。あとは琥珀しだいで完成する」
「……本当か? 嚆矢」
「はい、大主」
よく見れば琥珀の着物はぼろぼろで、髪も不揃いに伸びていた。よほど激しい鍛錬をしてきたのだろう。瑪瑙は刺すような目つきになって命じた。
「では嚆矢、私の前へ」
まるで三日前に見た光景の再現だ。黄龍の前に出て片膝をつく琥珀。立ったまま額に左手を乗せる瑪瑙。二人は石像のように動かなくなり、――しかし次の瞬間、瑪瑙は唐突に顔を歪ませ、熱いものを触ったように手を外してのけぞった。
「なぜだっ! なんだこれは、記憶も知識も共有できないではないかっ」
「ふぅん、そうか。やっぱりな」
凪は感慨深げに、深くうなずいている。
「青……? おまえ一体、なにをした」
「俺は別になにもしていないぞ。単純な話、ただ琥珀の力が、兄上を凌駕しただけだ」
「なん……」
「龍の奥義は一日にしてならず。飽くなき鍛錬と精神修養を突き詰め、研ぎ澄まさなければならない。武芸とは、そういうものだ」涼しい顔で平然と言いきる。「鍛錬中、琥珀は七回ほど死にかけた。治癒の力も間に合わず、龍脈水のおかげで命拾いしたほどだ。あの壮絶な修行無くして、はたして成果だけを共有できるのか、俺もずっと知りたかったんだ。たった今、その結果がわかって満足したよ」
凪は瑪瑙に近寄ると、容赦なく肩を叩いた。
「兄上、顔色が悪いぞ。まるでこの間の琥珀みたいだ。横にならなくても大丈夫か?」
「青。おまえ、この私を試したな!」
「瑪瑙だって、俺を試したじゃないか。お互いさまだ。それに龍は試し好きな種族だ」
青龍の澄んだ瞳に、まったく悪意はない。
「ただ兄上は、これで琥珀を軽々しく扱えなくなったわけだな」
「なんだと」
「分身と言えど、奥義の継承者は玉龍帝の叙勲対象。つまり今や琥珀は、兄上より立場も膂力も上位にいる。だからもう嚆矢なんて蔑称で、こいつを呼ぶなよ?」
雫玖は胸をつかれた。今ようやくわかった、青龍の真意が。凪は初めから、この展開を狙っていたのだ。それで琥珀に何度も、是が非でも鍛錬しろ、奥義を修得しろと。
「っ、謀ったな、青!」
「なにが。謀ってなんかいない。俺にとっては瑪瑙も琥珀も、等しく大事ってだけだ」
この青い牙は――、けっして脳筋一辺倒ではない。
すこぶる身内想いで、おまけに黄龍の屈折した性格もよく理解している。
「いいか、兄上。俺たち龍は、おそらく今の世界で一番長寿だ」せつせつと諭す声。「かつて紫水は俺に言った、『恵まれた境遇に生まれついた者は、弱き者を扶けなければならない』と」
なんだか今日は凪が、ひときわ大きく見える。
「そうして俺は、紫水の遺志を継いだ。だから武道の鍛錬を怠らない。毎日、鍛錬して鍛錬して鍛錬して鍛錬しても、まだ足りない」
「おまえ、なにが言いたい。まさかこの私にも、奥義の修行をしろと?」
瑪瑙はひどく不穏なまなざしで凪を睨んだ。
「いいや、そうじゃない。兄上の身体じゃ奥義の修行は無理だ、耐えられない。ただ俺たち龍はまず衰えない。治癒の血を持つ龍なんか、とりわけな。その事実から逃げることは絶対にできない。つまり俺が言いたいのはだ……、ええと」
首をひねった。言葉を探すように、しばらく間をおいてから、ああとうなずく。
「兄上はあくまでも本体で、けっして影にはなれないってことだ」
雫玖は目をしばたたいた。気のせいだろうか。
今、凪の一言に衝撃を受けていたのは、瑪瑙よりむしろ琥珀のほうに見えた。
「おまえはこの私が、不完全な自分の分身を、羨んでいるとでも?」
瑪瑙が皮肉げに片頬をつりあげる。すると凪はまた考えてから、はっきりと応えた。
「いいや。兄上は単に寂しがりなんだろ。だから琥珀を手元に置いておきたい。気に入っているからこそ、絶対に自分から離れないようにしておきたい。不幸な目に遭わせたくないんだ。素直にそうと言えない性格だが、本当はとても優しいから」
ひたと黄龍にむけるまなざしに、あいかわらず嘘や迷いは微塵も感じられない。
たまらなくなったように、瑪瑙は肩に乗った凪の手を払いのけた。
「ふざけるな。青の話はいつも、わけがわからない! 私はもう中殿へ戻るっ」
「待てよ瑪瑙。俺の伝え方が下手くそなのは悪かった、謝る。だが琥珀と雫玖を、蓮に戻す話がまだ終わってないぞ」
「勝手にしろ。宝鱗はもう手に入ったんだから、雫玖が黄金館に長居する理由もなくなったはずだ」
「兄上、それはどういう――」
瑪瑙は一顧だにせず去って行く。ややあって凪はその背中に大きく叫んだ。
「……ありがとう、琥珀を解放してくれて!」
やがて黄龍が回廊を曲がりきると、それまで黙りこくっていた琥珀が呟いた。
「驚いたな。まさかあんたに、あのこじらせ龍をやりこめる力があったとは」
「おい。大概失礼だよな、おまえも兄上も」凪はわずかに眉をよせる。「弟には弟の苦労ってものがあるんだぞ、それなりに」
きらめく青い鱗を、ぞんざいに琥珀の手に落としていく。
「ともかくこれで、あとは雫玖姫の呪の解除だけだろう。幸い、俺の仲間に雷を扱える衛士がいてな。鍛冶屋で剣を拾いがてら、あいつに手助けを頼んできてやるよ」
どうだと言いたげな青龍の視線。先に目をそらしたのは琥珀のほうだった。
「……ありがとう、凪」
「よしよし。礼儀正しいのは良いぞ。そうだ琥珀、おまえの苦無を一本よこせ」
遠慮無くさしだされた手。琥珀が不承不承、懐から出した武具を預けると、
「おお、やはりいいな、この武具は。手入れがじつに行き届いていて、肌に馴染む!」
柄頭に指をかけて回転させたり、剣身で空を切ったり、何度も握りこんだりしている。惚れ惚れするほど玄人の手つきだった。
「それ、どうするつもりなんだ」
「いいからこれも、俺に預けろ。あとでかならず返す」
「は? 俺その苦無、けっこう気に入ってんだけど。ちゃんと返せよな?」
琥珀はまるで弟に、お気に入りの玩具を取られた兄の顔だ。
「言いたかねえけど、凪、あんたその苦無にずっと目をつけてたろ、鍛錬前から」
「ああ、まあな。それじゃとりあえず、いったん別れよう」
凪はあいかわらず無神経に琥珀を無視したまま、満足気に苦無を帯にはさみこむ。
「用事が完了した以上、二人は一刻も早く蓮に戻った方が良いし」
まるで一件落着したと言わんばかりだ。どんどん話が進んでいく、この疾風のような決断と行動力。痛快というか驚嘆というか、たしかに青龍に巻きこまれたら、誰しも彼の力押しに従ってしまうだろう。でも主張すべきところはしておかないと。
「なんで? 凪、ちゃんと説明して、わたしだけ話が全然、見えてないんですけど!」
しびれを切らした雫玖が口を挟むと、琥珀が代わりに答えた。
「この常世では、他より時が緩慢に流れている。今頃もう、蓮では夏の終わりなんだ」
「えっ、それはつまり立太子の儀まで、もう間がないってことよね?」顔色を変えて聞き返すと、「大丈夫だ雫玖姫、今戻れば、まだぎりぎり間に合う。それより俺は琥珀にも一言、言っておきたいんだが。いいだろうか」
凪は琥珀の前に立った。しかつめらしい顔を作る。
「なんだよ凪、改まって」
「琥珀。おまえは今や、奥義を会得した。そして分身ながら本体よりも強くなった。よくぞ逃げずに運命を切り開いたな、これは誇るべきことだ」
一言一言、区切るように話す言葉。強くゆるぎないまなざし。まっすぐな声。
「だから琥珀は、もう自分を卑下するな。おまえならきっとできる、俺や瑪瑙なんかには到底できないことが。兄弟、俺はおまえを信じているよ」
青龍の手が自らの翡翠の髪飾りを抜き取って、琥珀の結髪にさしこんだ。青い覇気が清流のように心へ流れこんでくる。――まったく、この龍は。目頭が熱くなった。
「ん、雫玖姫? どうした、なんで泣く」
「だって凪が、高瀬兄さまみたいだったから、つい」
「前から気になっていたんだが。俺はひょっとして、姫の兄に似ているのだろうか」
頬を手で拭い、うなずくと、凪は思案顔になった。
「そうか。ならば雫玖姫は今日から俺を、その兄の身代わりだと思え。俺も妹を守る兄として、この一件に最後まで関わらせてもらう」
「え、そんな、いいの?」
青龍が義兄とは、なんて心強いのだろう。
「いい。ふふん、俺が兄か。じつに良い響きだ」
「……それに、あんたが任務上無視できない、鵺も絡んでいることだしな」
すかさず間に割りこんできた琥珀を見て、雫玖は曖昧に笑った。
瑪瑙ほどではないにせよ、琥珀もけっこう嫉妬深い。
けれど凪は案の定、この微妙な空気にはまったく気づいていないようだ。
「そうだったな、気をつけろよ琥珀。あの獣人はまだ、おまえを諦めていないぞ」
「重々、注意するさ」
「よし。じゃあな雫玖姫、蓮でまた会おう」
琥珀と固い抱擁を交わすと、一陣の疾風のように部屋を立ち去っていく。
青龍王、青凪。まっすぐで純粋で、とんでもない破壊力を内に秘めた武神将。
口下手で不器用で無愛想なのに、気づいたらここまで好感度だだ上がりだなんて、最初に出会った時には想像もできなかった。――どうか早く戻ってきて。
なぜって、この先はきっと嵐だ。黄金館はこんなに穏やかなのに。
窓からたおやかな桃の香が漂ってくる。雫玖はぶるりと身を震わせた。




