14 龍の宝鱗
昼下がり、窓辺には揺らめく水の照り返し。客殿は桃の甘い香りで満たされていた。うっとりするほど贅沢な静寂。その調和を乱すように、ほとほとと戸を叩く音がする。榻の上でまどろんでいた雫玖は、打たれたように起き上がると、とっさに?の上に置かれた手鏡をひっつかんだ。同時に戸が開いて瑪瑙と漣が入ってくる。
「今日はなんの稽古だ、雫玖」
鏡を剣のように中段に持ち構えていたのを、さっそく揶揄された。
「ろ、老師に習った霊水術の復習よ」
「嘘をつけ。うたた寝していたんだろう、頬によだれがついている」
「えっ。やだ、ほんと?」
手の甲で頬をこすってから、相手をにらんだ。
「また騙したのね瑪瑙っ、ひどい」
「そなたは本当に学習しないんだな」
金糸をふんだんに使った長衣姿の青年は、失笑しながら茶卓の椅子に座った。
「しかしよく寝る姫だ。蓮国では一日中寝ていたのか」
「誰のせいだと思ってるのよ」
今より三日前の早朝、瑪瑙と琥珀と漣、それに雫玖が集った中殿で、気まずい空気を打破したのは意外にも凪だった。
――お互い言いたいことは様々あるだろうが、面倒な話は後にしてくれ。とにかく俺はまず、長きにわたって中断中の奥義の伝授を完遂したい。
やにわに瑪瑙の肩を両手でつかむと、至近距離で睨みを利かせる。
――これから琥珀を丸二日半借り受ける。だから瑪瑙はそれまで影龍を、絶対に消すんじゃないぞ。それと俺が戻るまで、雫玖姫にも手を出すな。脅すな。懐柔するな。
まるで目から雷でも放ちそうな勢いだった。
実際、青龍の覇気に反応した泉の水が逆巻き、あちこちから噴き上がったほどだ。
――今言ったことを、もし守らなかったら、どうなるかわかるよな。
言外に『禁を破れば倒れるまで殴り合いだぞ』と匂わせておいて、凪は刃折れの剣で盛大に一閃、泉を割ると底へ去って行った。琥珀を従えて。
しかし二心ある瑪瑙が一筋縄でいくわけもない。二龍が消えたとたん、やれ食事を共に取ろうだの、黒蛇の封印だのと言っては雫玖の客殿へ通ってきた。
――雫玖。いいから私に、その左手を見せろ。呪の封印が解けかかっているぞ。
手を取られ、にじり寄られて撫でさすられ、この調子ではいくら戸締まりしても、また床に侵入されそうだ。そう思うと、夜もおちおち寝ていられない。畢竟、空が白むまでまんじりともせず、この昼日中に寝落ちしていたというわけだ。
「雫玖よ、そう警戒するな。私とて青は怖い。あれは天上で衛士職についているほどの武芸者だぞ。本気で暴れられたら、私では到底、手に負えない」
「え、凪ってそんなに強いの? 全然、知らなかった」
「もしや今までなにも知らずに、一緒にいたのか」瑪瑙は呆れたような声を出した。「世界を巡り、理を乱す昏神や鵺を召し捕らえるのが、あの青の本来の仕事なのだ」
雫玖はああと手を打った。だから初めて逢ったとき、若武者姿だったのか。
「ひょっとして青も嚆矢も、蒼海国や我ら龍については全然、説明していないのか?」
「うん。あんまり聞いてないかも」
「青の口下手はしかたがないとしても、嚆矢まで。まったくあれは、蓮の朋友とやらに感化されて、言葉遣いもどんどん不敬になるし……」瑪瑙の言葉に首をかしげる。朋友とは真雪のことだろうか。「不親切にもほどがある。しかたがない、聞きなさい」
瑪瑙は咳払いをすると足を組んだ。
「まず、この蒼海国は五海域で構成される。そなたも見てきたとおり、常世とは海と陸に区別のない世界ゆえ、ざっくり大陸一つとも言えるがな。その各海域は、玉龍帝の子らが支配している。東は青龍王、西は白龍王、南は紅龍王。北は今は、亡き紫龍王の側近だった黒龍が、そしてここ央は私、黄龍王の管轄である」
瑪瑙の説明はさすが琥珀の本体だけあって、非常にわかりやすい。
「この五龍の父、玉龍帝は平生、『壺中の天』のさらに下層神域に御座す。そこで帝は常世を支える御柱をお護りあそばれている。……ここまでは、いいか?」
「はい」
「今よりもう、ずいぶん昔の話だ。玉龍帝は各龍王を集めて言った、『朕はもっとも才覚ある龍に、次帝の玉座を譲る』とな。その時から兄弟龍の間で、後継競争が始まった。龍王同士は次第に疎遠になり、今に至る。つまり私が連の世話を焼いたり、医術を研究したり、奥義を欲するのもすべては、いずれ皇位継承権を得んがためなのだ」
雫玖は勢いよく手を上げた。
「はいっ。一つ質問、いいですか」
「なんだ」
「凪も、その競争とやらに参加しているの?」
「いいや。あれは武を極めることの他に、まったく興味がない龍だからな。玉龍帝の下知があったその日に『自分は帝を目指す気はない』と早々に宣言して、降りた」
「ああ……、うん、凪なら、そう言いそう」
青龍王がどんな顔でなんと言ったか、目に見えるようだ。
「今、青のことはいい。いいか。この私、黄龍王は不老不死の血を持つ。ゆえに私が霊力を注ぐ黄泉はいわば私の血脈であり、龍脈水もここ、黄金館から天地を循環する」
瑪瑙は立ちっぱなしの雫玖をちらりと見た。これは――あきらかな警戒に気づきながらも、どうこちらを攻略するのか算段をたてている顔だ。怖い。
「よいか、今日はこのような話をするため客殿へ来たのだ。漣が岩茶を見繕ってくれた、飲みながら話さないか。そなたも、私に聞きたいことがあったはずではないか」
漣に目配せすると、女丞相は心得たように茶器を広げて湯を沸かし始める。
「え。わたし別に、瑪瑙に聞きたいことなんて」
「兄の立太子の件はどうだ? なぜ私があれを選んだのか、気にしていただろう」
そうだった。雫玖がはたと姿勢を正して手鏡を?に戻すと、瑪瑙はため息をつく。
「よもや失念してはいまいと思ったが、その様子だと忘れていたか。そなたらしいな」
「だ、だって瑪瑙がなにか仕掛けてきたら、応戦しなきゃならないじゃない、だから」
「応戦? ふ。雫玖は本当に面白いな」
口を手で隠してはいるが、完全に喉の奥で笑っている。
「いいから椅子にかけなさい。どのみち私にその気があったなら、そなたはもうとっくに我が手中に落ちている」
艶然と微笑まれ、しおしおと席についた。ずるい。表情やしぐさまでもが、なにもかも琥珀にそっくりだ。これでは師匠然としていて逆らえないではないか。
「なんだ? そんなに私の顔が好きなら、膝に乗せて、頭でも撫でてやろうか」
しかしどうにも黄龍というのは、本体も分身も触りたがりのようだ。
「はっきりきっぱり、遠慮します」
「無駄なやせ我慢を。拒まれるとなおさら欲しくなるのは、なぜだろうな」
茶の甘い香りがたちこめる。何食わぬ顔で漣が二人の前に杯を置く。
「……ではまず、そなたの兄の話をしよう。あれはまだ、高瀬が十だったころだ」
そうして瑪瑙は語り出した。雫玖の知り得なかった、兄の本心を。




