13 告白
まどろみから覚めたのは、脇の下をくぐった腕に、身体をきつく引き寄せられたからだ。薄く目を開けると、月の光が床頂の螺鈿にあたって淡く輝いている。花の香りと水のせせらぎ。静謐でけだるい夜。いつものように寝返って、背後の人影にしがみつく。黄金館初日は色々なことがありすぎて、今はとにかく眠かった。
「……雫玖」
ひそやかな低い声が耳元で囁く。
「起きて、俺を見て」
「ん、なに……?」
「悪い。どうしても見せたいものがあるんだ」
雫玖は無理矢理、薄目を開いた。なにか起きたのだろうか。
「琥珀、やっと戻ったのね。そうだ、あのあと瑪瑙とどうなった……の」
目の前に艶めいたまなざしがあった。髪に長い指がかかる。何度も感触を確かめるように撫でられて、じょじょに意識が覚醒していく。
「目が覚めたみたいだな、雫玖」
相手はわずかに微笑んだ。それから音もなく起き上がると寝間着の前開きを開き、やにわに上半身を露わにする。
「こは……っ、な、なにを」
そのまま驚く間もなく両手を取られ、引き締まった胸に持って行かれた。這うように胸から脇、下腹へと誘導される。固い筋肉の弾力におののいていると、唐突に臍の横あたりで鋭いものが引っかかる手応えがあった。
「雫玖。これがなんだかわかるか」
虹色の欠片が肉の間に埋まっている。
「え、もしかして、鱗……?」
「そうだ。俺は今晩、ついに龍の鱗を手に入れたんだ」
雫玖は耳を疑った。
「嘘。すごいじゃない、おめでとう。この鱗、瑪瑙がくれたの?」
「ああ。これで俺も真実、黄龍になれた。黄金館へ戻ったら、今度こそ本体と融合しなきゃならないんじゃと恐れていたが、まさか、こんな結果が待っていたなんてな」
琥珀は頬を紅潮させ、瞳を潤ませていた。ひどく高揚した気分が伝わってくる。
しかし気持ちのどこかで、雫玖はなにかが引っかかった。
「琥珀。あなたまだわたしに、なにか隠し事をしているでしょ」
「は? なんだよいきなり。ってか、なんでそう思うんだよ」
「だって、あなたってよく見ていると、かすかに考えが目に出るもの」
すると琥珀は瞳を細めた。鋭い光が一瞬、刃物のようにまたたく。
「ふうん。……じゃあ俺が今、なにを考えているかもわかるってことか」
どこか挑戦的な口調だった。両手をつかまれたまま、裸身が覆い被さってくる。
「ちょっ、えっ、あ」
唇が首に吸いつき、湿った音を立てた。ぶわりと身体中の産毛が逆立つ。なにを。
「やっぱりわかってないじゃないか、全然」慌てる雫玖を尻目に、耳朶を熱い舌が這っていく。「俺はずっと影龍じゃなくなったら、あんたとこうしたいと願ってたのに」
身じろぎ一つできないうちに、琥珀の唇が額を、頬を、執拗についばみ始めた。
「やっ、やめて」
「可愛いな、真っ赤になっちまって」
初めて経験する愛撫に肩がびくつく。
緊張のあまり息が詰まりそうになって、硬い胸の下で必死で身体をねじった。
「琥珀、いきなりなにするのっ」
「いきなりじゃない。だいたい仙客になるってのは龍と結縁する、つがうって意味だ。まさかその覚悟もなしに、黄金館まで来たってのか? ……今さらすぎだぞ」
指が帯にかかった。聞いていない、そんな話は。ぞわと鳥肌が立つ。阿南に襲われた時とはわけがちがう、相手は蓮の守護龍なのだ。雫玖はかすれ声で訴えた。
「琥珀待って、ちょっと止まって、いったんやめて、お願い、あ、あ」
「いやだ、待たない。俺はあんたを守ってやりたい。望むものならなんだって与えてやりたい。このまま朝まで抱き潰したい、今すぐ、あんたの全部がほしい」
熱っぽいまなざし。うわずった声。やめて。圧倒される。この人の奔流に押し流されてしまう。どうしよう。どうすれば。――そうだ。
「俺のすべてを受け入れろ、雫玖」
吐息が唇にかかり、そのまま口づけされそうになって、叫んだ。
「や――、凪、助けて! 凪ーっ」
その瞬間、ごおと部屋全体が揺れた。
「信じらんねえ。なんで……、よりによって青を呼ぶんだよ」
琥珀の両目は大きく見開かれ、声はしゃがれていた。
「あんたまさか、惚れたのか。嘘だろ。あの武闘馬鹿の朴念仁に?」
読み通りだ、驚いている。雫玖は相手がとまどっている隙に寝台を飛び降りた。
「ちがうけど!」
「は?」
「だけど、あなたは瑪瑙でしょ! どうして琥珀のふりをするの?」
「……なにを言っている、俺は琥珀だ」
前髪の隙間から、凍てつくような視線が見える。じりじりと戸口まで後退した。
「嘘よ。だって琥珀は青龍を凪って呼ぶもの、青とは呼ばない!」
そうだ、これはまぎれもなく瑪瑙なのだ、琥珀はこんなふうには甘い言葉を吐かない。彼はいつもただ黙って触れてくるだけだ。ひどく傷ついた獣の目をして。
「ふうん、驚いたな」
すると相手の唇が急に、愉悦を含んでつり上がった。
「雫玖。この黄龍の試しによくぞ受かった。……まさか通るとも思わなかったが」
「え、なに、嘘でしょ、わたし今、試されていたの?」
雫玖は頭を抱える。まばたきして、青年――瑪瑙と視線を合わせた。
「……じゃ、じゃああなた、蓮国に宝鱗をくれるってことでいい……の?」
「ふ。期待満々だな」
瑪瑙の瞳にぽつ、と残酷な光が宿る。捕らえた獲物をいたぶるように。
「鱗をやってもいいが、その前に正直に答えよ。そなたは道中、さんざんあの二人に聞かされてきたんだろう? この私が龍王の中で一番気難しく、いつも生き物の魂や身体をいじり回している偏愛者だと。黄龍はかつて蓮を守っていた紫龍とは、似ても似つかない。雫玖。そなたは本当に、そんな弱虫龍の鱗ごときで満足できるのか?」
「っ、あなた、なんでそんなにひねくれてるの? わたしはただ、黄龍に鱗をもらえたらいいなって……、だいたい凪も琥珀も、あなたを悪く言ったりしてないわよ!」
「嘘をつくな。この私を愚弄するか、生意気な小娘め。よし、ではたった今決めた。そなたが私に身を捧げ、私だけを愛し、生涯離れぬと誓えば蓮に鱗をやろう。しごく簡単な交換条件だ。さあ、どうする?」
あまりの言葉に頭が真っ白になる。
「それって、わたしはもう、蓮には戻れないってこと……?」
「そうだ。だがむしろ喜べ、私はそなたに興味が湧いた。今までこの黄龍と分身の区別ができたのは漣だけだからな。たしかに嚆矢が推すだけのことはある」
瑪瑙のまなざしは、まるで気に入った玩具が手に入った子どものようだ。
「雫玖。私とつがって子を孕め。頭のてっぺんから爪先まですべてを晒して、私にそなたを探究させろ」
言い諭すような声。心臓が凍りついた。これは命令だ――、自分は勝手に試されて、まんまと籠に囚われてしまったのだ。
「心配するな、ゆっくりと優しく愛でてやる。蕩ける快感を何度も味わえば、いずれそなたは私の虜となるはず。この私のことしか考えられない身体に仕上げてやろう」
「……瑪瑙なんて」
たまらず声を絞り出す。相手はなんだと言いたげに、わずかに眉を上げた。
「大っ嫌い! 琥珀と同じ顔と声で、そんないやらしいことを言わないで、馬鹿ぁっ」
震えながらにらみつけると、相手はひどく間の抜けた顔になった。まさかこの局面で怒鳴られるとは思わなかったらしい。雫玖は乱暴に戸を蹴って部屋を飛び出した。
「なんなのよ、あの助平龍はっ」
上から目線で、勘違いもはなはだしくて。
でも琥珀と同じ姿だと、馬鹿みたいに胸が高鳴ってしまう自分がふがいない。
誰もいない。静かだった。瑪瑙は追ってこない。やみくもにただ、青白い月に照らされた広い回廊を一直線に走って、走り抜けて――、凪が教えてくれた方角へ向かう。そうして西の端に人影を認めた時、ついに涙腺が崩壊した。
欄干に両腕をもたれかけて一人、湖面を眺めている青年がいる。
一目でわかった、あれは凪ではない。信じられない、自分はあんな目にあっていたのに。これは一言、なんとしても文句を言わなければ。
「琥珀っ」
先ほど雫玖に無体な要求をしていたのと、まったく同じ顔が物憂げにこちらを向く。まっすぐ走りより、胸に飛びこんだ。
「雫玖……? なんで、ここにいるんだよ」
「それはこっちが言いたいわよ。どうしてわたしを瑪瑙に引き渡して、自分だけこんな処にいるの? ひどいっ」
「え、だってそれは、あっちが本当の俺だから」
恬とした顔。この人は本気でわかっていない。あやうく絶望したくなった。
「わたしは……っ、う、う」
ぼろぼろ涙をこぼしながら顔を上げると、驚愕した瞳が雫玖を凝視している。
あらんかぎりの力でにらみつけた。
「わたしが、好きなのは」
馬鹿馬鹿、琥珀の馬鹿。本体がこじれているから分身もこじれているのか、関連などないのだか、まったく理解できないけれど。――そんなのはもう、どうだっていい。
「好きなのはっ、琥珀、あなたなの、瑪瑙じゃない!」
こんなふうに言うはずではなかったのに。今の想いを、あらんかぎりの力で叫んだ。全力で走ってきたのもあり、はあはあと息切れしてしまう。
「雫玖。でも俺は、影だ」
青年は心底信じられないと言った顔をしていた。
「今この瞬間にも、消されるかもしれない存在なんだ」
「だから? そんなの関係ないじゃないっ」
「か、関係ないって。いや待て、けっこう重要な問題だぞ。冷静になってよく考えてみろ。いいか、瑪瑙のが本当の俺なんだ。鱗持ちの、正式な黄龍王で」
生真面目に説明しはじめるのを、相手の胸に額をぶつけて押し止める。
「痛い! それに、聞きたくない!」
「っ、あんたが頭突きしてきたんだろうが」
「固い、鍛えすぎっ」
強烈なじれったさと苛立ちがつのってきて、相手の首に両手をかける。まったく、なんでこんなに無駄に背が高いのだろう。顔までが、はてしなく遠いではないか。
「ねえ、届かないんだけど。少しかがみなさいったら……っ」
爪先立ってしがみつき、頬に唇を押しつける。恥ずかしいのをこらえて、わざと湿気った大きな音を立てた。
「し、雫玖」
「わかった? 琥珀以外に、こんなことしたくならない。あなた以外に触られたくない。ましてや一緒に寝たり、なんやかんやするなんて、絶対にあり得ない!」
すると琥珀は目を見開き、息を飲んだ。
「嘘だ。雫玖はなんやかんや、されたのか」
「え。なに、そこ? 今そこ重要?」
「だっ……て、瑪瑙は俺に、今夜は添い寝するだけだと」
なるほど。黄龍は琥珀にそう言ったのか。確かに最初はそういうつもりで、同じ床に入ってきたのかもしれない。それがいつのまにか、気が変わっていた。――ということはつまり、どういうことなのだ。雫玖は頬を膨らませた。
「黄龍は『私とつがって子を孕め、さもなくば宝鱗はやらない』って宣言したわよ。それでわたし、『瑪瑙なんて大嫌い』って怒鳴って、逃げてきたんだから!」
琥珀は絶句している。その腰に腕を回すと、ややあって応えるように強く抱きしめられた。
「――あんた、無謀にもほどがあるぞ。あの嫉妬深い瑪瑙にそんな暴言を吐いて、よく無傷だったな」
「そんなの知らないっ。琥珀と意識を共有したせいで、怒れなかったんじゃない?」
たくましい胸に顔をこすりつけ、遠慮無く涙を拭う。
「おいこら、どこで拭いてる」
「ねえ。琥珀はいったい、わたしをどう思っているの?」
瑪瑙は言っていた、ずっとこうしたかったと。けれどその想いは、元々この人のもので。だから、わかってしまう。琥珀はきっとこう考えたのだ。――しょせん自分はまがい物の分身で、黄龍の放った一征矢にすぎない。いつ消されるかもわからない、こんな不安定な影龍が、自分の気持ちを口にするなどおこがましい。姫には亡き兄との約束に見合う幸せをやりたい、そのためには完全無欠な黄龍とめあわせるべきだ。
それで無言を貫いて内に想いを秘めたまま、すべてを本体に譲って、自分はこんなところで一人、たそがれていた。
「俺はこれが一番、あんたが幸せになれる道だと。だから、瑪瑙に託したんだ」
「余計なお世話よ。わたしは琥珀がいいのっ。あなたじゃないとダメなの。そういうふうにしたのだって、あなたなのに……」
ますますきつくしがみつくと、息を飲んだ気配がした。
「琥珀。ちゃんと自分の口で言ってくれなきゃ、許さないんだから」
「雫玖、俺は」
あごに指をかけて上向かされる。瑪瑙よりずっと強く熱い瞳。ぎくりとした。力任せに心臓ごと持って行かれそうな目力だ。沸点に達した想いがあふれ出るような。
「――あんたが好きだ」
あ、来る、と思う間もなく震える唇が落ちてくる。
そのまま雫玖の唇と触れ合って、怯えたようにすぐ離れていった。
「いいのか、俺で」
「馬鹿ね。いいに決まっているじゃない」
間髪入れずに答えると、琥珀は一瞬だけ泣きそうな顔になった。
「っ、雫玖」
「なあに」
「好きだ、好きだ、好きだ」
堰を切ったように囁かれ、息ができないくらい強く抱きしめられる。やっと臆病な心を見せてくれた。嬉しくて、胸がこそばゆくて、どきどきしながら笑ってしまう。
「……知ってた」
「まじか」
「ねえ。もっと、ぎゅってして?」
ねだるように首をかしげる。身体を押しつけ、すりよせていく。
「もっとって。無理だろ、あんまり力入れたら壊れちまう」
「だって、このままずっとくっついていたいんだもの」
なんだか無性に我が儘を言いたい。甘えたくてたまらない。困った顔も見てみたい。
「お願い、今晩一緒に寝て、ぎゅってしてよ」
上目遣いに見上げると、案の定、琥珀は真っ赤になっていた。
「あんたそれ、意味わかって言ってんの」
「意味って?」
「……いいぞ、俺の部屋に来いよ」少し言いよどんでから、意を決したように続ける。「でも、なんやかんやは抜きだぞ。今までと同じでいいなら寝てやってもいい」
「うん。きっとそう言うと思ってた、ありがと」
「っ畜生、あんた鬼だろ。俺だって本当は」
「本当は?」
「……なんでもない」
「ふふ、変なの」
明るく笑ってみせながら、ああまた、やってしまったとも思った。失敗した。黄龍の仙客にならなければいけなかったのに、今いるのはどうしても告白したかった人の腕の中で。――でも、どうあっても心は殺せなかったと、諦めに似た気持ちもある。
王女だって人間だ。それに所詮、自分はいつもこうだった。どんなに本来あるべき姿になろうとしても、結局はありのままでしか生きられない。たぶん、高瀬だけは妹を赦してくれるだろう。雫玖が初恋を捨てられず、一世一代の大役を果たせなくても。
瑪瑙は、雫玖を嫌いになっただろうか。
あの黄龍は本当に頭が切れる。阿南が可愛く思えるほどの意地悪くらい、朝飯前で仕掛けてくるかもしれない。そう考えると、少し恐ろしい。
それでも今は、この暖かなぬくもりに包まれていたい。
父母を失い、兄を亡くして、やっと見つけた唯一の居場所。琥珀がいてくれれば他にはなにもいらない。だから神様、どうかこの人と一緒にいさせて、お願いします。
そう、雫玖にとっては琥珀こそが、ずっと探し求めてきた龍だったのだ。
たとえ鱗がなく不完全でも。




