12 黄金館《こがねやかた》の主
青龍の背に揺られて砂漠を抜けると、気温は徐々に下がり、小葉の刷子木の群生林が広がった。琥珀によればこの木は薬茶になり、傷口に塗る精油もとれるそうだ。
空は地上のように青く晴れて雲一つ無い。やがて忽然と原生林の中に淡黄色の泉が現れる。これが龍脈水の源、黄泉らしい。珍しい色に感嘆している間に、凪はもう軽々と城楼を飛び越えていた。
湖の中心にある小島は城壁で囲われ、内には基壇上に前中後と殿舎が並ぶ。下女たちが行き交い、床は磨かれた方磚で覆われていた。黄金館――医術と薬学に優れた黄龍の住処。ここが琥珀の故郷なのだ。なんて立派で変わった建築なのだろう。女官の出迎えを受けながら、雫玖はただ驚嘆して周囲を見回すばかりだった。
「雫玖さま、いらせられませ。わたくし漣と申します」
藤黄色の長髪を結い上げたその美人は、軽く拱手した。琥珀が耳打ちしてくる。
「漣は黄金館を取り仕切っている女丞相だ。主の瑪瑙は極度の引きこもりで、滅多に姿を見せない。頭はいいが根暗野郎で……、悪く思わないでくれ」
「ふふ、聞こえておりますよ、琥珀さま。蓮に行かれて、ずいぶんとお口が悪くなられましたね。大主が首を長くしてお待ちかねでございます。中殿にお通しいたします」
「あの出不精の瑪瑙が外廷に? 珍しいな」凪が目を見開くと、「此度は青さまもご一緒でいらっしゃいますので」漣はまた嬉しそうにふふふと笑う。
「同族は特別なのですよ。青さまだって平生はもっと無口で無愛想、怖い龍と評判ですのに、龍同士だと自然と饒舌になられる。同じです。我が大主も身内には寛容です」
「あいつが寛容か? いずれにせよ、いよいよ黄龍の試しが始まるな」
琥珀が息を吐く。その瞳に揺らぎがあるのを見て驚いた。ひどく緊張している。
そっと手をつなぐと青年は我に返ったように雫玖を見下ろし、ため息をついた。
「大丈夫だ。あんたはなにも、心配しなくていい」
「そうだ。瑪瑙は良い奴だぞ、雫玖姫。頭の回転も速いし、性格も温厚だし。あれで病弱でさえなければ、もっと名をはせた龍王になれたろうに」
「……そんなふうに黄龍を思っているのは、兄弟の中で凪だけだけどな」
「うん? なにか言ったか、琥珀」
「なんでもねえよ」
雫玖は眉をひそめる。これはどうも、なんでもなくはなさそうだ。一波乱ある予感しかない。でもなぜ。この館にたどり着いて黄龍に会う、それは旅の一番の目的だったはず。なのにこの期に及んでまだ、琥珀は雫玖にまだなにかを隠している。
裏切られたような気持ちになりかけ、いや、そうではないのかもと思い直した。
話せないのかもしれない。だとしたらきっと、原因はこの黄金館の主人にある。
「琥珀、わたしはね」
胸がちりりと痛む。あなたを信じている、と口に出したかった。
「ん? どうした、雫玖」
むけられたまなざしにかぶりをふり、無言で笑みを返す。
とにかく、まずはこの館の主に会ってみよう。
そうして案内された白檀の香の殿舎にいたのは、琥珀にうり二つの美丈夫だった。
「――ようこそ。待っていたよ、琥珀、青、そして雫玖……は、初対面か」
四方を竜紋屏風で仕切られた宝座の上に座った、物憂げな青年。その頭上には黄蘗色の帷幕がかかり、白石の床にも紫檀の独座にも、贅沢な装飾が施されている。頭上には光の球が輝き、窓もないのにひどく明るい。
翡翠の髪飾りに金糸雀色の豪奢な絹服姿。これが黄龍王。垂髪を一輪に結っているだけで、まるきり琥珀ではないか。雫玖が絶句していると、凪が気さくに声をかける。
「久しぶりだな、瑪瑙。具合はどうだ」
「まあまあかな。青は元気そうでなにより」
館の主は足踏に組んだ足を乗せ、片肘ついて三人を観察していた。唇は柔和に笑んでいても、長いまつげの奥の目は鋭く、罪人を処す刑吏のようだ。
「それで? とにかく報告を聞こうか。嚆矢、前へ」
気のせいではない。瑪瑙が手招きすると、琥珀の手がひくりと動く。
「は、大主」
わかってしまう。琥珀は自分の本体――瑪瑙をひどく恐れ、嫌っている。
それでも琥珀は黄龍王の足先でひざまずいた。待ちかねたように、その額へ王の左手が乗る。そのまま二人とも石像のように動かなくなったので、雫玖は凪に囁いた。
「ねえ、嚆矢ってなに? 琥珀の別名? 今、二人はなにをしているの」
「瑪瑙はああやっていつも、琥珀が見聞きした記憶や感情をすべて吸い上げ、我が物にするんだ」
凪が片手を立て、雫玖に耳打ちしてくる。
「え。それって双方向じゃなく、琥珀が一方的に取られるってこと?」
そもそも嚆矢とは、戦の時に射るかぶら矢のことではないか。黄龍は琥珀を、自分が射た矢だとでも言いたいのだろうか。
「ああ。琥珀はいちおう分身だからな。すべての情報は、本体に還元される」
驚きで固まる雫玖の耳にむかって凪が解説する。そもそも黄龍は身体が弱く、黄泉を守る大役ゆえに不自由な身の上だ。それで目一杯、自分の中の自由な魂をかき集めて分身を創ったのだと。でも琥珀のあの顔つきをみれば、分身に人格など初めから認められず、道具扱いされているのはあきらかだった。ひそりと呟く。
「凪、なんで琥珀は黄龍を拒否できないの」
「瑪瑙は絶対服従の従僕とするため、あえて琥珀に自分の鱗を与えなかった」凪もこそりと返してきた。「だから琥珀はいまだに影龍のまま、もし瑪瑙が死ねと命じれば、自死するしかない身だ。それにいつ、本体に吸収されてもおかしくない状況にある」
「そんなの、ひどい」
口を引き結んだ。これでは黄龍を恐れても当然だ。しかも琥珀の意地っ張りな性格からして、そんな弱音を雫玖に話せるはずもない。すると前から慌てた声がかかった。
「待てよ、青。今の全部、聞こえていたぞ。雫玖に私を、悪者みたいに吹きこむな」
打たれたように顔をあげると、瑪瑙のまなざしが見違えるように優しくなっている。
「だいたい嚆矢は、この私が我が身を切って創った大切な分身だぞ。わけもなく、そんな無体な命令をするわけがなかろう」
「だが、あんたが情報を取ったあとの琥珀の具合は、いつもひどく悪そうだぞ」
たしかに立ち上がった琥珀の顔色は、ひどく青い。今にも倒れそうだ。
「ああ、琥珀、大義であった。少しそちらの榻で横になっていろ」瑪瑙はぞんざいに言葉をかけると、「まったく。なんで青はそう私を悪く言うのだ。無熱湖の龍門まで琥珀を迎えに行くよう頼んだのだって、この私だというのに」
肩をすくめる。しかし凪は榻の上で人形のように仰向けになった青年の様子を、ひたと凝視していた。表情に変化はないが、青龍なりに琥珀を心配しているのだろう。
「俺はただ、事実をありのままに言っている。だいたい鵺がらみの案件なら、最初からそうと言えば良かったじゃないか。あ。……もしかして、俺の力を試したのか?」
「凪よ。もし気を悪くしたなら申し訳ない、謝ろう」
「そうか。試したんだな。あいかわらず大車輪でひねくれてるな、瑪瑙の兄上は」
凪は大仰に息を吐くと、射貫くような目で瑪瑙を見た。
「じゃあ水に流してやる代わりに、俺に『壺中の天』の楼を使わせてくれよ」
「なんだと。なぜいきなり、そんなことを言い出す」
「琥珀に今度こそ、龍の奥義を教えたいんだ」
「っ、紫龍がおまえに教えた、あの秘技をか?」
つかのま、瑪瑙の目がするどく光った。
「良いのか。私は昔、紫龍に直接教えを請うたが、あっさり断られたぞ」
「それは……、まあ、兄上は身体が弱いから、紫水は心配したんだろう」凪はぶっきらぼうに言った。「でも琥珀はちがうだろ」
「いいや、青。嚆矢が得た経験はすべて、我が物になる。つまりそれは紫の遺志と反するわけだ。奥義が手に入るなら、私は嬉しい。が、はたして玉龍帝が許すだろうか」
声色が高い。あきらかに興奮している。
どうやら諦めていた餅が、いきなり棚から落ちてきたらしい。
「そんなのは知らん。兄上がうまく言いくるめればいいじゃないか、得意だろ」しかし凪は鍛錬以外、心底どうでもよいようだった。「とにかく俺は琥珀に修行をつけたいんだ。そして『壺中の天』の中なら一日で一年分の鍛錬ができる。ちがうか?」
「ちがわないが、しかし、あの隔離楼には、父上の課した使用制限があってだな……」
「わかった。じゃあ三日、いや二日でなんとかする。それならいいだろう」
凪は頑として引かなかった。使わせたくないという黄龍の空気を見事に読んでいない。読めないのか読まないのか定かでないが、駄々のこねかたが堂に入っている。
「頼む、瑪瑙。どうしたらうんと言ってくれる? 俺はなんでもするぞ。なにをしたらいい」
相手をまっすぐ見つめるまなざしは純真だが、目力の圧が半端ない。研ぎ澄まされた刃のようだ。
「ああ、あいかわらず暑苦しい弟だな、青はっ。もういい。好きにしろ」
そしてどうやら瑪瑙も琥珀同様、真っ向から押し切られるのには弱いようだった。あっさり使用許可の下りた凪は、屈託ない笑みを見せる。
「ありがとう、感謝する。そうだ、それとまた、ここの龍脈水をもらってもいいか?」
「この甘え上手の武闘馬鹿め。わかっているぞ、青がこの館にくるのは、いつもいつも龍脈水が目的だと。まったくおまえは、龍の貴重な聖水をなんだと思って……っ」
「小言はいらない」
「は?」
「なんと言われようが、俺は瑪瑙が好きだ。――大好きだ」
「好……? おまえはなにを言っている。この私が影で、他海の龍たちから誹られているのだって知っているくせに。根暗だの腹黒だの、こじらせているだのと」
「気にするなよ、そんな噂。そもそも一癖もない者なんていないし、他人からどう思われるかよりも、自分がどう生きたいかだろ。いいじゃないか別に、個性的でも。なにか問題があるか? 黄龍は医療に長け、有能で穏やかな龍だと俺は思っている」
凪にすっぱり言い切られ、してやられたふうの瑪瑙は、頬を染めてうつむいた。
「俺はただ、兄上が心配なんだ。年がら年中、城に引きこもって一人でいて」
「よ、余計なお世話だ」
「瑪瑙は周りが言うよりよほど、一本筋が通った男なのに」
「うるさい」
「なあ、これから雫玖姫を客室に案内したいんだが、いいよな?」
勝手知ったる兄の宮城とはこのことだ。
「なんでもいい……、私は疲れた、もう出て行け」
「了解。じゃ雫玖姫は俺についてこい。桃の間に入れてやろう。あそこは景色がいい」
知らぬ間に失笑していた雫玖は、はたと口を手で押さえた。青龍はやはり腐っても末子だ。容易に想像がつく、この調子で、どこでなにを言っても可愛がられているのだろうと。琥珀がひがむのもわかる気がする。
「雫玖姫、琥珀の世話なら瑪瑙がするから、放っておいて大丈夫だぞ。どうした?」
「なんでもない」
そうしてつれていかれた部屋は、後殿の南端にあった。花窓のむこうでは紅白の桃花が咲き乱れ、その奥に夕暮れの湖が広がっている。部屋の調度品は本朱色の漆塗りで統一され、天蓋つきの架子床には螺鈿細工まで施されていて――。
「凪っ、わたし、こんな立派な部屋に泊まれない。ここってもしかして、最上級の殿舎よね? やだ、気後れしちゃう」
「なんでだ? 雫玖姫は瑪瑙の賓客だぞ。これくらい当然だろう。それより俺はこれから龍脈水を汲みに行く。どうしても鍛錬に必要だから」凪はあいかわらず鍛錬のことで頭がいっぱいのようだ。「なにかあったら、回廊をつっきって反対側の西舎に来い。そこにいる。火急の際には、俺の名を叫べ」
「……わかった。ようするに今はわたし、ここで大人しくしていたほうがいいのね」
「ああ、悪い」
「凪、琥珀は? あとでここに来る?」
「瑪瑙と話が済めば、おそらく。まあ、そう心配するな」
凪は雫玖の頭を軽く撫でると、控えていた侍女たちを呼び寄せた。慣れた様子で夕餉や湯浴みの世話を差配する。それから風のように部屋を去っていってしまう。
「琥珀、大丈夫だったかな」
雫玖は吐息をついた。まさか黄龍と分身に、あんな明確な力関係があったなんて。
「あーあ、いつ戻ってくるんだろう、琥珀……」
ここ数日、青年が妙にそわそわしていたのを思い出す。
はたしてあの曲者でしたたかな本体から、宝鱗をもらって帰れるのだろうか。
じわり、焦燥にも似た想いが胸を焼いた。
こういう時の嫌な予感ほどあたるもので、案の定、その夜に事件は起きたのだった。




