1 兄の遺志
「そなたの兄のあと、東宮には我が息の阿南が入ることとなった」
三日後、雫玖を自分の部屋まで呼びつけた王妃の魅音は、開口一番そう宣言した。王の内廷の北に位置する金蘭殿。この殿舎は歴代の正室のみが住まうことを許された場所だ。かつて雫玖の母もここにいた。けれど当時の控えめなあしらいと比べて、今はずいぶん豪奢できらびやかである。ふんだんに螺鈿を施した椅子や衝立、床石は鏡のごとく磨かれ、花窓の脇にはずらりと金銀細工の調度品が並んで――魅音はさすがに隣の大国、庚国王の娘だった。
「どうしたのだ、そんなに我が殿が珍しいか」
「いえ。ただ王妃さまのお部屋は素晴らしくお美しいなぁと思いまして」
「そなたの住まう磬宮とて、景観はよいはずだが。意匠を凝らした花園がすぐ近くにあろう」
魅音は曖昧に微笑んだ。金糸の縫い取りを施した絹に身を包み、多くの下女や内官を従えて栄華を極めている身からすれば、西奥の古びた離れで暮らす雫玖など、取るに足らぬ存在だ。けれど今、王妃にはどうしても、この小娘とじかに逢いたい理由があった。
「はい、園は大変美しいです。四季折々に花木が咲き乱れますし、果実も実ります」
「そうか」
「でも金蘭殿はやはり奥宮の一かと。それに魅音さまのほうが、我が母より遠目で見ても艶やかでいらっしゃいます」
「そうかえ」
魅音は朱をさした唇を扇で隠しながらまばたきした。
「兄が突然身罷り、これからどうなることかと思いましたけれど。魅音さまの子、阿南さまが王太子に立たれるなら、蓮国も安泰でしょう。おめでとうございます」
昨日の今日でもう次の太子が決まったことや、なぜ高瀬が襲われたのか、下手人はどこの手の者か。雫玖は一切を言及してこない。長年、権力闘争に明け暮れてきた三十路すぎの王妃には、王女のそうした謙虚な態度がむしろ作為的に写る。
「じつは雫玖、今日そなたを呼んだのは、王太子選定に使う神器改めを手伝ってほしいからだ」
胸の前合わせに手を当てながら、蛇のような目つきで雫玖をためつすがめつした。
「どうであろう。立太子の儀まであと一月。そなたにはぜひ阿南の力になってほしい」
先代妃は霊水術に優れた巫だった。しかしその娘にも多少の霊力があるからと言って、外廷に出して文官と働かせようなど、ありていに言って嫌がらせだ。
受けるか、流すか。
その表情までも余すところなく見定めようと、次の言葉を待つ。
「はい、お引き受け致します」
だが雫玖はこの一手に動じなかった。むしろ喜んでいるようにさえみえる。気のせいだろうか。
「ただ、一つだけお願いが」
「なんだ」
「王妃さまより、一筆書いて頂けませんでしょうか。今後、霊香院の大師さまから、教えを受けてもよいって」
王妃は上座の椅子に座ったまま、髪の金歩搖を揺らして身体を乗り出した。
「なぜ」
「わたし以前から、水鞠札の作り方を学びたかったんです」
魅音の怪訝そうな顔を見、雫玖は破顔する。
「ご存じないですか? 霊法師が唱言を詠唱すると、札に封じた水が解放されて放射されるんですよ、こう、どばーっと。わたし前から、あの技を習得したくて」
無邪気に腕を振ってみせるので、さすがの王妃も失笑を抑えきれなかった。
「霊札の取り扱いは、難しいと聞くが」
ふ、と扇の奥から息を吐く。
「かまいません。わたしは笛や琴はダメだし、舞踊も下手くそだし、魅音さまみたいに見目麗しくもないし。縁談が来ないのは取り柄がないせいだって、いつも侍女から嘆かれていて」
「だから霊札なのか?」
「はい」
まるで自分を追い出したいなら、代わりに技を身につけさせろとでも言うようだ。
「よろしい。常に学ぼうとするその志、感じ入った。一筆書いて進ぜる」
「よかった、ありがとうございます。王妃さまのご温情に、あつくお礼申し上げます」
「あとで部屋に届けさせよう」
「はい。ではわたしは、これにて失礼いたします」
拱手して一礼し、控えていた侍女と退いていく。姿が消えると、魅音は音を立てて扇を閉じた。
「……噂通り、変わっておる。しかし、どうやら王族らしい話し方は習得していたようだな。あの姫、普段は言葉遣いも素行も、下女さながらだと聞いていたが」
扇を肩に打ちつけながら独りごちる。
「まさか、このわたくしに書状を書けと要求するとは。媚びを売るでもなく、本音を打ち明けるようなそぶりで隙も見せず。さすがは『奇異の姫』よ」
雫玖姫――先代王の息女で、先日亡くなった高瀬王太子の妹。両手に余るほどの書物を読みあさり、時に詩歌を書き綴り、余興の宴にもめったに姿を見せない。
豪奢な着物や装飾品には目もくれず、花園で果実のなる木に登っていたとか、魚を釣ろうとして池に落ちたとか。今日は地味ながら若草色の絹をまとっていたが、魅音に目通りするため召しかえたのかもしれない。
「いかが致しましょう、お父上へのご報告は。庚国にとって脅威なのであれば、排除もやむなしと仰せつかっておりますが」
王妃の椅子の後ろから、男の声だけが響いた。祖国の父が使わした間者だ。魅音は微動だにせず応える。
「いや、放っておけ」
今の波布王には側室が三人いて、愛妾の夕影妃には三歳になる息がいる。蹴落とさなければならない政敵は多く、高瀬が死んだ今、その妹はただの影の薄い駒だ。
「あれは無害な兎だ、跳ねさせておこう。今回の一件は我が息、阿南たっての頼みでもあるし」
「御意」
「しかし、わからぬ。あんな娘の、どこが良いのやら」
選別は終わった。次にあの小娘と顔を合わせるのはいつになるだろうか。まあ、いずれにせよあの兎なら、息子の好きにさせてやってもよい。魅音はそう判断した。
「とにかく兎より先に手を打たねばならぬ者は、そちも承知しておろう」
「はっ。連絡はすでに関係者に通達されました」
「あの刀筋たちにもか?」
「ははっ。石は夕影妃に投与されております。玉の調達はいかがいたしましょう」
石とは石女にするための不妊薬、玉とは夜伽の際に使う媚薬のことだ。
「いや、よい。最近、王はお変わりになった。別人のように毎夜、お元気になられたのでな」
昨夜も閨での色事が激しすぎて、今もまだ噛まれた乳房や身体の奥が痛んでいる。けれど飢えた獣のように猛々しく求められることに、女として悪い気はしない。なにより今まで果てるのが早すぎた。
「夕影などに負けはせぬ。わたくしも、もう一人くらい王子を産んでみせよう」
魅音は蠱惑的な唇を歪ませると、大きく息を吐いた。




