11 追手
次の日の昼前。岩や低木があって起伏に富んだ砂丘陵を飛んでいる最中、青龍は唐突にその動きを止めた。湿気った砂の匂い。青龍の背から琥珀と共に下ろされた雫玖は、呆然と目の前の光景を眺める。
「あれは、なに?」
この砂漠の上空には、どうやら海があるようだ。青緑色の空が、さざなみ立って揺れている。この常世にしかあり得ない、心躍る美しい水の情景。ただ今はその空にむかって黒い柱が忽然と立ち上がっていた。しかも上へむかって旋回している。
「どうやら??柱だな。――なあ凪?」
言われて目を凝らすと、たしかに柱は何万匹という魚でできていた。被衣を目深にかぶった雫玖は、凪が人型に戻ってからようやく、その柱が生き物だと気づく。
「大気の流れからして、あの上に、現世とこちらをつなぐ墨穴が空いているみたいだ」
「おかしいだろ。普通、こんなところに境界が開くか?」
「そうだよな。これは匂うぞ、琥珀」
「ああ。たぶん来るんじゃねえの、くだんの鵺の襲撃が」
そのせつな、遠雷のような音が響いて、柱の頂点から黒づくめの人影が現れた。
「ああ、いたいた。ようやく追いついたぞ、奇異の姫」
大きなしゃがれ声。あの顔――額に金環の、知っている。雫玖は目を見張る。空から一直線に舞い降りたその大男は、阿南を護衛していた武官だった。
「……豹叉?」
「光栄だな、我が名を覚えていてくれたとは」
琥珀は男が音もなく砂漠を歩くさまを見て、いらだたしげに舌打ちした。
「そうか。あんたが簗の頭領で鵺だったってわけか、盲点だった。どうりで鎬がいくら網を張っても、これまで罠に引っかからなかったわけだ」
「王妃派から情報が筒抜けだったからな。しかしこちとら、そこの姫さんと神剣が突然消えちまったから、これでも黒蛇の霊気を追うのに難儀したんだぜ?」
琥珀はすばやく雫玖を背に庇う。
「阿南王子は、知ってるのか。あんたの正体を」
「ああ。礼拝師の血筋の獣人、ってところまではな」
豹叉の瞳孔が細くなる。雫玖は身体を縮めた。この男、やはり只人ではなかった。獣人は怪力で気性が荒く、狡猾で好色だと聞く。男の獣人は女が孕むまで種を植えつけるし、女の獣人は限界まで男の精を搾り取るとも。人を好んで喰う者もいるとか。
「おい、ところで黄龍、叢雲剣はどうした。持っていないようだが」
「なんだよ、俺の正体バレてんのか。だが、あんたに教える義理はねえな」
「そうかよ。しかし鎬の持っていたほうは偽物だろ、本物はずいぶん前に折れていたはず」豹叉は唇の端をつり上げた。「……良いことを教えてやろうか。あの剣を折ったのは、この俺だよ」
「なに?」
「それが簗として蓮に入りこんだ、俺の初仕事だったんだ。ふうむ、さては魚人の刀鍛冶にでも打ち直しに出したか。余計なことを」
雫玖は思わず拳を握った。指先が冷たい。びんびんと響いてくる、この不穏で強大な霊動。この男、以前からこんなに凶悪な昏気の持ち主だったろうか。
「豹叉。そうやってしつこく叢雲剣を狙うのは、壬国の帝が欲しがっているからか?」
琥珀がにらみつけると、獣人は不敵に笑った。
「かんちがいしないでくれ。たしかに壬帝は神剣も欲しがっている。が、最終的に手に入れたいのは蓮国の守護龍、つまりおまえだ。しかしまさか龍ご本人が、わざわざ現世に出てきて王族の護衛をしていたとはな。こっぴどく殴り倒されるまで、迂闊にも気づかなかったぞ。つうことで今日こそは、おまえを生け捕りにさせてもらう」
「……たかが獣人ごときに、ずいぶんと舐められたもんだな、俺も」
琥珀の身体から、ゆらゆらと霊気が立ち上がる。
「凪。悪い。雫玖を頼めるか」
「ああ、いいぞ」
琥珀が前に出、凪は代わりに雫玖と下がった。
「前に奥宮でやり合った際に、実力の差は身に染みたと思っていたが。また痛い目見たいってわけか。こりないね、あんたも」
雫玖はぶるりと震えた。ちがう。だめだ、油断しては。たしかに琥珀の覇気は静かで圧倒的だけれど、今日は豹叉の様子がどこかちがう。――この獣人は今まで実力を巧妙に隠してきた、そんな予感。この口調といい、奥の手を持っている気がする。
「龍王さまのほうこそ、舐めるなよ。ここは蓮の奥宮じゃねえ。つまり俺も、本来の力でやり合えるってわけだ!」
男は額の額環を外して懐にしまう。とたんに背丈が伸び、巨大な山虎に変化した。まるで太陽光が弱まったかのような錯覚。大気が重く深く沈みこんでいく。どどう、生暖かい風が吹き始める。
「雫玖、俺の側から動くな。あの男、相当数の魂を食って力を得た鵺のようだ」
凪が折れた剣を抜いて構え、腰を低くする。雫玖は固唾を飲んだ。
落ちつけ。霊動に圧倒されていないで、まず状況を整理しろ。
簗は壬の暗殺旅団だ。豹叉はその簗に属する獣人で、破壊神の呪詛を扱えるほど強い鵺だった。そして壬帝が龍を欲しているから、雫玖に黒蛇という目印をつけ、そばで護衛する黄龍を狙って、常世へやってきた――。今までの話がすべて符合していく。
「凪、いくら豹叉が鵺でも、琥珀は勝てるわよね?」
「いや。鵺ってのは、疫の百倍は強い。対処法も千差万別だ。簡単に決着はつかない」
その言葉どおり、今や力で圧倒的に押し負けているのは琥珀のほうだった。四つに組んでは跳ね飛ばされ、受け手を取ったところを強打されている。信じられない。身体ごと吹っ飛ぶさまは、まるで大人と子どもの組み手を見ているかのようだ。
「凪、琥珀を助けてよ、このままじゃ死んじゃうわ!」
「いいや、龍の身体は頑健だ。滅多なことじゃまず死なない。もう少し様子を見る」
それなのに凪は一方的にやられる琥珀を、ただ静観するだけだった。
「はっは、弱いな、黄龍は。龍王の中で最弱と聞いていたが、聞きしに勝る弱さだ!」
抵抗する琥珀の襟首を掴んで宙に持ち上げ、せせら笑う。
「龍と鵺、勝ちは鵺ってことで――いいよなぁ?」
そのまま無情にも、突き出た岩に渾身の力で叩きつけた。
「いやっ、琥珀!」
青年は不自然に身体をひしゃげるなり、頭と口から派手に流血して動かなくなった。
「ふん、虫の息ってとこか。まあ生きてりゃ大蛇なんざ、動かないほうが楽でいいやな。悪いがこの獲物は頂いていくぜ、お姫さん」
「……ちょっと待てよ。次は俺の番だぞ、鵺の獣人」
するとその時、それまで微動だにしなかった凪がようやく豹叉の前に進み出た。
「なんだ、誰だおまえ。やめとけって。黄龍の後ろで、さっきまでこそこそ隠れていた若造が、まさかそんな刃折れの剣で、この俺と戦うつもりかよ」
豹叉が馬鹿にしたような笑みを浮かべる。すると凪は生真面目に答えた。
「俺は、多勢で一人をなぶるのは好かない。勝負とは正々堂々、一対一で為すものだ」
「嘘でしょ。凪、あなたまさかそんな理由で、琥珀に加勢してくれなかったの?」
雫玖は呆然とする。それは豹叉も同じだったようで、呆れ顔で肩をすくめた。
「聞いたことがあるぞ、龍の武道かよ。律儀なことだな。まぁ、その心意気に免じて一回だけ太刀を受けてやるよ。ありがたく思え、このひょろひょろ」
「そうか。……なら遠慮なく行かせてもらうぞ、鵺の獣人」
凪の目に強い光が宿る。その次の瞬間、豹叉の胸から左耳までが一文字に切り裂かれ、ぱっくり開いた傷口から勢いよく鮮血が吹き出した。
「な……んだと?」
ぼたり、耳朶の半分が地に落ちる。
「ああ失敬、名乗り忘れた。俺は琥珀の兄弟で青龍王。名を青、字を凪と言う」
「な、なに? それじゃおまえが、あの黒闇の破壊神を封じたという『青い牙』か?」
うろたえ、たたらを踏む豹叉の目前で、凪は大刀を上段に振りかぶる。
「そんな通り名で、俺を呼ぶ者もいるな」
大きく刃が半円を描いたと思う間もなく、剣から吹き出した水が濁流となった。
「っ、ぬかった、畜生ぉ、よもや伝説の大剣豪が、こんな青二才だったとは!」
驚愕と焦りに顔を歪ませ、豹叉が防御姿勢を取る。――しかし後の祭りだった。
「悪かったな、ひよひよ龍で」
圧倒的な水飛沫が豹叉を襲うや、津波のように巨体を弾き飛ばした。
「くそが! ふざけるな、俺はこんなことくらいじゃ、諦めねえからなぁっ」
一瞬だった。雫玖は呆然と胸の前で手を握った。凪のあの技、水鞠札と原理は同じだ。けれど霊札と比較にならない圧倒的な水量は、大瀑布が逆流したように見える。
豹叉が天上近くまで飛ばされるや、??柱が群がって墨穴へと押しこめる。青龍を援護するように。ついで雷のような衝撃音が響き、みるみる境界が閉じていく――。
「よし、終わった。雫玖、怪我はないか? ……っ、どうした、大丈夫か!」
凪が顔色を変えて駆けよってくる。雫玖がへたりこんでいたので、慌てたのだろう。
「わたしは全然、それより琥珀を」
「ああ心配するな、琥珀の怪我ならすぐに癒える。あいつの身体は瑪瑙譲りだからな」 凪は動かない琥珀の横に仁王立ちになった。
「それより、いいかげん自覚しただろう。今のおまえは弱い」
倒れ伏していた青年がうめき声をあげる。それで気づく。――凪が最初のやり合いに手を出さなかったのは、琥珀に今の実力を思い知らせるためもあったようだ。
「琥珀はまだ龍としては、俺よりずっと弱い。あの鵺の獣人に完敗するほど弱い」
「っ、うるせえな、弱い弱い言われなくてもわかってるっ、嫌味かよ!」
「いいや、嫌味じゃない。これは単なる事実だ。かつておまえは、俺の鍛錬を嫌って逃げた。その結果がこれだ。だがまだ鍛え方次第で強くなれる、かならず」
「な。本当か?」
「疑うな。できるまでやればできる」
頭を押さえて起き上がった琥珀は、力なく咳きこんだ。
「そうやって、またあんたは、根性至上主義を振りかざす。ふざけんな。どうあっても俺に、龍の奥義を伝授したいのかよ」
「そうだ。だから死ぬ気で鍛錬しろ、今度こそ。いいか琥珀、苦手というのはな、逃げればとことん追いかけてきて、おまえを脅かす。だから立ち向かって前へ進め。そうして強くなって、あの鵺の獣人を一撃でぶちのめせ」
途中までいい話だったのに、最後が結局、脳筋発言なのが残念すぎる。
「どのみちおまえ、弱いままじゃ蓮に戻れないぞ。きちんと雫玖姫を守りたいんなら、龍の力は絶対なんだと知らしめろよ」
しかしとつとつと話す言葉を聞くうち、雫玖の心にもなにかが灯るような気がした。
凪はまっすぐだ。いつだって、前しかむいていない。
こんなふうになりたい。ひるむな。足を踏み出せ。ここ最近、思いもよらないことばかり起きたけれど、大丈夫。心配するな、なんとかなる。
自分も琥珀もきっと今、天に心意気を試されているのだ。――そう思った。




