10 神剣打ち直し
巨大な龍の背にまたがって密林上空を行く。碧天のはるか上は水で覆われているようで、地上を照らす太陽の形は、磨り硝子を通して見るようだった。川は大地だけでなく空にもあって、魚や海獣や魚人や、見たこともない異形と次々に行き交う。
雫玖は興奮するやら恐ろしいやらで、空酔いするのも忘れて、背後に座す琥珀に質問し続けた。そうして得られた答えによれば、この常世は全体が水で囲まれた球体状で、時の流れは他界より緩い。大陸は一つ。目指す黄金郷はその中央にあるそうだ。
「……さて、そろそろおしゃべりの時間は終わりだ。これからのことを話そう、雫玖」
いつまでも青龍の背で騒いでいると、ついに口に人差し指を立てられた。
「まず鱗の入手だけどな。現在、蓮国と繋がりがあるのは瑪瑙だ。だから黄龍王が雫玖を仙客と認めればいい。そうすれば彼の王から宝鱗を得られる」
龍王は皆、字を持つという。青龍は凪、黄龍は瑪瑙。黄龍王は玉龍帝の三男で凪の兄にあたる。優れた医療の腕を持ち、龍脈水の源泉である黄泉を守る任にあるので、めったに外へは姿を現さない。――琥珀はこの瑪瑙の影龍なのだそうだ。
「えっと、じゃあ青龍は、琥珀の弟ってこと?」
「いや。瑪瑙が俺を作ったのは青龍が生まれた後だから、俺自身は凪より少し若い」
「ふうん、そうなの」
雫玖は眉を寄せた。見た目的には、琥珀のほうが凪より三つほど年上に見えるのだが。龍の歳はよくわからない。
「それから、割れた叢雲剣の打ち直しだが」琥珀は青龍の背を叩いた。「沙州には蒼海国でも名うての鍛冶屋がいるだろ。剣はあそこをあたる。いいな、凪」
心得たと言うように龍の身体がかしぐ。
「というわけでだ。さしあたって一番問題なのは、雫玖のこの、黒蛇なんだが――」
琥珀は雫玖の左手に、自らの手を置いた。
「正直、凪ならすぐに呪を解けるかと思ってたんだが、当てが外れちまった。俺の仮封印じゃ、根本的な解決にはならないし。それで、そもそも盗人が、どうやってこいつを霧の奥津城から入手できたのかを、考えていたんだが……」
凪が封じた悪神は地の底の国にいて、そこまでたどり着くのは容易ではないのだと説明しながら、しきりと雫玖の手首を撫でて指をからめてくる。
「この呪を盗んだやつはおそらく、闇と契約して力を得た『鵺』なんじゃないか?」
鵺という言葉に青龍の耳がひくりと反応した。
「で、その鵺が阿南王子に呪を使わせたのだとしたら。本当の狙いは雫玖をいいように操ることじゃなく、もっと別にある気がする」腰に腕が回され、後ろに引き寄せられる。「鵺はいつも、大きな災いをもたらすものだ。それは一体なんなのか……」
「あの」
雫玖は所在なげにもぞもぞと身体を動かした。いつのまにか、すっかり琥珀の胸中に収まってしまっている。正体は龍だと明かしてから、この青年はあからさまに身体を近寄せてくるようになった。まるでもう人のフリをしなくていいのだから、この距離感でもいいだろうと言わんばかりに。
「なに」
「ええと、別に、なんでもない……です」
なんでもなくはない。髪にあごを埋められ、ぴったり密着されて、耳たぶに吐息がかかって。これでは獣の毛繕いだ。でも不思議と嫌ではない。むしろ清涼な霊気で身体ごと包みこまれ、守られている感じがする。
この所作。琥珀はやはり、まぎれもなく龍なのだ。けっして人ではない。
その不可思議な事実が、すとんと腑に落ちる。
「なんにせよ龍の視点から見れば、蓮国の王位継承争いなど氷山の一角だ。人間達の欲得を利用して闇が蠢いているほうが、本来、よほど問題なんだ。なぁ凪?」
青龍の身体がうなずくように上下した。
「ねえ、今まで蓮にいて、琥珀はずっと一人で、そんなことばかりを考えていたの?」
「ああ。龍ってのは本来、異世を監視する役も負ってる。瑪瑙が俺を創ったのだって、泉に縛られた自分に成り代わって、自由に動ける身体がほしかったからだし」
なるほど、こういうものなのか、龍というのは。
琥珀に説明されて初めて、世界を俯瞰した気持ちになった。
人間はしょせん自らが生きる尺度でしか時も空間も図れないけれど、本来、大切なのは世界をどう護りつなげていくかで。これが龍の、汀の意志――。
雫玖が押し黙っていると、なにを思ったのか、琥珀は励ますように頭を撫でてきた。
「大丈夫。瑪瑙はきっとあんたを気に入るよ」
また瑪瑙。これほど琥珀が気にする黄龍王とは、いったいどんな人物なんだろう。
釈然としないうち夕刻になり、ようやく沙州につく。人に戻った凪と三人で正門を通りぬけると、目の前には賑やかな大通りが広がっていた。
両端には所狭しと露店が立ち並び、活気のある呼び声が響いている。行き交う人は皆、色鮮やかな髪色、耳はえら状、身体の一部が鱗肌だ。――魚人街。
やがて左に折れ、頭上に洗濯物のはためく路地を行くと、鉄を打つ鋭い音が響いてきた。古びた看板の店に入る。店主は客を見るなり平身低頭し、奥の間へ引き入れた。
「これはこれは龍王さま方、お久しぶりです。今日は、以前ご連絡頂いたご用件で?」
「ああ、主。忙しいところ悪いが、この剣を打ち直せるか、見定めてほしい」
さっそく琥珀が荷物から叢雲剣を取り出した。長方卓に残骸を並べる。首に襟布を巻いた上半身裸の中年男は、むうとしかめっ面になった。
「こりゃまたずいぶん、派手に割れてますなぁ。黄龍さまの剣ですかい」
「いや。これはもともと、亡き紫龍王の剣だ」
「うーん、さようで。良質な地鉄を足せば、なんとか」男は粉々になった欠片をしきりと光に透かしている。「いや、どうかな、ちと厳しいかもしれねえ」
するとそれまでやりとりを静観していた凪が、いきなり背から大刀を抜き放った。
「待て。今、紫水の剣と言ったよな。ならば、足りない分はこれを使ってくれないか?」
剣を卓上に置くや、手刀を叩きこむ。ひとかけらの躊躇もなかった。
派手な破砕音。包丁で切ったごとく、水晶の刀身が卓ごとすっぱり真っ二つになる。
「ああ悪い店主、力加減をまちがえた。卓は後ほど弁償する」
「っ、凪、弁償とかじゃねえだろ。信じらんねえ、玉龍帝から賜った宝剣をまじで割ってるし。あんたこの先、自分の務めだってあるのに、いったいどうするつもりだっ」
いつも動じない琥珀がさすがに顔色を変えると、
「ああ琥珀、俺の青龍剣は生きているんだ。だからまったく問題ない。柄に夜光珠もあるし、そのうち勝手に再生する、気にするな」
凪は背後の鞘へ刃折れの剣を戻して、珍しくぱあっと破顔した。
「それより知らなかったぞ。蓮国では、紫水の剣を祀っていたんだな!」
雫玖は琥珀と顔を見合わせた。どうやら凪の紫龍好きは、そうとうなものらしい。
呆れている間にも商談は成立し、でき上がり次第、店主から連絡が入る算段となる。
「よかった、どうなることかと思ったけど。これで剣はなんとかなりそうね、琥珀?」
「ま、そうだな。あとは鱗だけだ」
外に出ると空はすでに茜色に染まっており、西から薄闇がひたひたと迫っていた。
空だけは奥宮と同じ色。しんみりしてしまう。
まさかこんなふうに、異界を旅する日がくるなんて。
「そうだ。あの……青龍も、いろいろと力を貸してくれて、どうもありがとうね」
店先で頭を下げると、どう返そうか逡巡するような間があってから、肩を叩かれた。
「いや、あんたは十分がんばっている。凪だ、連の姫。青龍じゃなく、凪でいい」
この龍は本当に目力が半端ない。海のように美しい群青に吸いこまれそうだ。
「じゃあ凪、わたしのことも蓮の姫じゃなく、雫玖って名前で呼んでくれる?」
「わかった、雫玖姫。善処しよう」
わかっていないではないか。でもなんだかもう凪はこれでいい気がする。律儀に手をさし出されたので握手していると、隣で琥珀がおもしろくなさそうに唸った。
「珍しいな。女嫌いの凪が、一人に心を開くなんて。どういう風の吹き回しだよ」
「琥珀、それは誤解だ。俺は別に女が嫌いなわけじゃない。ただ、いつもは接点がないだけだ。それに俺はこの雫玖姫を、すこぶる気に入ったぞ」
「……は?」
「まず龍の視線を、まっこうから受け止めるのが良い。雫玖姫、大船の乗ったつもりでいろ。約束しよう。そのうち俺がかならず、あんたのその呪を解いてやる」
頭に手が乗り、くしゃくしゃと撫でられる。兄のように。なんだかくすぐったい。
「うん、凪は本当に善い龍よね。ありがと。わたし、あなたは信用できると思ってる」
にっこり笑うと、凪の瞳がきらりと光った。
「そうか……! 善い龍か。ふふん。善い龍。いい響きだな琥珀?」
「っ、俺に同意を求めるなよ」
「じゃあ俺は、今から砂漠の旅装を調達してきてやろう。その間に琥珀は、姫が快適に泊まれる宿を探せ。よし、さっそく行ってくる!」
上機嫌で手を振りながら喧噪の中に消えていくので、手を振り返しながら微笑んだ。なるほど。だんだんわかってきた。中身は純真無垢な少年そのものなのだ、青龍は。
「最初は目つきが怖いと思ったけど、けっこう可愛いかもね、あの人」
思わずそう漏らすと、琥珀は隣でふてくされた声を出した。
「ふん、どうせ凪は誰からも好かれるんだ、まともに愛想笑いもできないのに。なあ雫玖、俺は? あんたにとってどういう人なの」
そのただならぬ声音に驚く。明らかに怒っていて、どこかとても不安そうな顔。
そうか、この影龍は――、雫玖は息を詰めた。つねに冷静を装っているけれど、そのじつ分身という特異な出自ゆえに、けっこうこじれた性格なのだ。
絶対に弱味を見せようとはしないくせに、どこかで疑り深く怯えていて。
まったく、いじらしいというか、勘違いもはなはだしいというか。
気づけば、青年の端正な頬に両手をあてて叫んでいた。
「馬鹿な人ね。あなたは特別よ。そんなの、わかりきったことじゃない」
相手の目が大きく見開かれるのに合わせて、満面の笑みを浮かべる。
「あなたはわたしにとって、もうとっくに一番大切で、失えない人よ?」
そして今、誰より離れたくない人だ。噛みしめるように思い知る。
好きなのだ、自分はこの龍が。いつからだったのだろう。拙すぎる初恋。
よっぽどこの気持ちを本人に伝えてしまいたい。でも琥珀は龍としての責務で雫玖を護衛しているだけだから、これ以上の負担はかけられない。重荷にはなりたくない。
じりじりと焦げつく想いを無理矢理、胸の奥へと押しこめる。
「俺は、雫玖の特別……、か」
すると琥珀の手が、頬にあった雫玖の手をつかんだ。うやうやしく唇を押し当てる。
「ちょ、ちょっと、琥珀?」
「俺もあんたが大切だ。たぶん今まで出会った人間の中で……、一番」
まぶたを閉じて、味わうように唇を走らせている。どくん、胸が飛び跳ねた。
なぜ琥珀はこんなに哀しげな顔をするのだろう。せつなそうに目元を赤く染めて。
「だからさ、とにかくあんたが仙客に選ばれるよう、俺も全力を尽くすよ」
なにかをこらえるように、手を引いて歩き出す。高い背が泣いているようだった。




