9 影法師
門を潜った先にあったのは、水の坑道だった。水晶のような回廊以外は、上下左右、すべて水でできている。すこし離れた先で、見知らぬ魚群が渡っていく。湿った苔の匂い。こぽこぽと鳴る泡の音。足元が心もとなくて、雫玖は琥珀の腕にしがみついた。
「大丈夫だ。この水道は現世と常世の境にある。抜けてしまえば、普通の景色だから」
先を行く凪が振り返る。
「海底城塞都市や、海溝といった秘境以外はだろ。人間は水の世界に神経をやられがちだから、普通はあまり蒼海国に入れないんだが」
琥珀が雫玖の手を握ってくれる。
「仙客の試しを受ける者は別だ」
「蓮の姫。歩くのがしんどいなら、琥珀につかまっていろ。俺にいい考えがある」
問う間もなく、琥珀の腕が雫玖を抱きしめてくる。何事かと顎を上げれば、凪が朗々と詠唱を始めた。古代語だろうか、まったく意味がわからない。やがて回廊の床が揺れ動く。海蛇のようにのたくりながら、水平に進み始めた。
「や、速すぎ……っ」
そうして水を抜けた先に広がっていたのは、うっそうと茂った濃い緑。
「雫玖、大丈夫か」
蔦の絡まった大樹があちこちから生え、頭上には紺碧の空。湿気た空気は生暖かく、被衣が急に重く感じられる。雫玖は目を細めた。これは密林だ。どういうからくりだか知らないが、南に運ばれたらしい。しかし今はそれよりも触りがある。
「……琥珀、ちょっと離れて、もう無理」
え、と相手が戸惑った隙に胸を突き飛ばし、四つん這いになった。
そのまま盛大に吐いてしまう。
「っ、凪が急ぎすぎるからだぞ!」
「悪い。酔わせたか。人間の姫ってのは弱いんだな」
後ろで慌てふためく声がする。大丈夫だと言いたかったが、胃の腑がよじれていて、とてもそれどころではない。
「雫玖、全部吐いちまえ、楽になるから」
胃液に喉を焼かれてえずいていると、背を優しくさすられた。口を拭く布を渡される。こんな姿をさらして恥ずかしい、穴があったら入りたい。でもまだ地面が揺れて見えて、とても立ち上がれない。
「すまなかった、蓮の姫。ほら、これを飲め」
すると目前に水晶筒がさしだされた。顔をあげると凪と目が合う。琥珀が囁いた。
「それは俺の作ったえせ薬とちがって、正真正銘の龍脈水だ。安心して飲んでいい」
「わかった……、ありがとう」
青龍の手から受け取った筒をおそるおそる嚥下すると、なんとも形容しがたい甘露が口いっぱいに広がる。さすがは龍の秘薬と言うべきか。一瞬で身体の負担が消えた。立ち上がって服の泥を払うと、凪がほっとしたように息をつく。
「どうやら回復したな。良かった」
この龍、見た目は人を殺しそうな仏頂面だが、案外いい人なのかも。
「ねえ青龍、ここはもう龍の支配する国なのよね?」
「ああ、そうだ」
言っているそばから、熱帯魚の群れが宙を泳いでいく。よく見れば樹の幹に海藻が茂っていて、雲雀がその上に巣を作っている。妙な風景だ。泥のぬかるみの上では蝶と海月が行き、大木の根元には茸と珊瑚が群生して。水と陸の生物が混在しているのに、不思議と違和感はない。はるか上空を飛ぶのは鷲ではなく幡多だった。
「琥珀。俺はこの密林には見覚えがある」
「ああ、俺もだ。現在地はおそらく南海の北か。まったく毎回、どこへ出るかわからねえなんて、これだから潮の道ってのは」
「文句を言うな。それより央の黄金館まで最短で行くには、沙土砂漠を突っ切らなきゃならないぞ。蓮の姫には強行軍だろう。どうする?」
凪が気づかうように視線をやると、琥珀は首に手をあてた。
「じゃ、まずは砂漠に入る前に沙州に寄って、鍛冶屋に寄りつつ装備を調達するか」
「おい琥珀、俺の話を聞いていたのか? 蓮の姫に砂漠は無体だと」
「あー、迂回は却下だ。蒼海国の半日が、いったい地上で何年になると思ってんだよ。帰りの龍門で時を巻き戻すとしても、沙州で一泊、黄金館に四泊。それが限度だろ」
言い合う二人を見ているうち、悪いと思いつつ吹き出してしまった。
「琥珀がそんなに気安く話しているの、初めて見たかも。仲が良いんだ、二人とも。なんだか師弟と言うより、本当の兄弟みたいね」
すると二人に微妙な間が訪れる。
「え、なに? え……、え? まさか本当に兄弟なの?」
「琥珀。おまえどうして、何も話していないんだよ」
凪がじとりと琥珀をにらんだ。
「知っていると思うが、俺は昔から話し下手だ。ややこしい話を解説するのは特に苦手だ。疫との戦闘なら喜んで引き受けるが、俺にそういう期待だけはするな!」
「ちょ、ちょっと。話がまったく見えないんだけど」
雫玖は目を細める。どういうこと。だいたい凪は青龍ではないか。ということはだ、もし琥珀と血のつながりがあるのなら、琥珀だって龍神ということに――。
はたと顔を上げた。
「……琥珀、あなた、もしかして人間じゃなかったの?」
青年はすかさず視線を伏せ、代わりに凪が答える。
「なんだ。けっこう聡いじゃないか、蓮の姫は。そうだ、こいつが黄龍王だ」
雫玖は丸く口を開いた。声が出ない。今まで不可解だった数々の出来事が、急に腑に落ちてくる。琥珀の博識さや身体的な強靱さ、そしてあの不可解な血の力。
たしかに龍王と言われたら、ひどく納得できるけれど、でも。
「本当なのそれ、琥珀? じゃあなんでわたしたち、ここまで旅してきたの。蒼海国に来る意味なんて、初めからなかったじゃないっ」
「いいや、俺は黄龍王じゃない」琥珀はひどく切迫した顔つきで凪の言葉を否定した。「本物の黄龍王は瑪瑙のほうだ。俺はあの医術狂のただの影龍で、鱗もないし……」
「はあ? おい琥珀、いいかげんにしろよ。どうしておまえはいつもそこで、卑屈になるんだっ。おまえだって正真正銘の黄龍王だって、俺は何度も言っているだろ!」
凪は本気で怒っているようだった。群青の瞳がぐんと強い光を帯びる。視線を合わせようとしない琥珀の両肩を掴むと、強引に自分へむかせてにらみすえた。
「たしかに瑪瑙は、自らの身体を裂いておまえを造ったさ。だが、それがなんだってんだ? 琥珀は琥珀だろう。黄龍がどうしても嫌なら、そうだな、おまえのたてがみは瑪瑙より橙っぽいんだから、橙龍とでも名乗ればいいじゃないか」
すると、わずかに背で勝る琥珀が乱暴に凪の手を払った。
「っ、なんであんたはそう、馬鹿みたいにまっすぐなんだ。反吐が出るっ」
「なんだと?」
「世の中なぁ、なんでもそう単純なら、誰も苦労はしないんだよ!」
二人の視線が激しくぶつかり、一瞬、気のせいではなく空気が揺らいだ。
「雫玖の兄は死んだ。もう生き返らない。俺は黄龍の生み出した分身だ、これも変えられない。なあ、あんたになにがわかる? 初めから玉龍帝の秘蔵っ子で、さんざ兄龍たちに可愛がられ、目をかけられて育ったあんたに! 影龍の俺のなにが!」
凪の胸を琥珀の手が突く。よろけた隙をぬって、襟首を掴むと締め上げた。
「言ってみろよ! あの超絶ねじくれた本体に従うしかない俺のどこに、まっとうな自由があるってんだ!」
「琥珀……、離せっ」
「ムカつくんだよ。あんたいつも自分が特別なんだって、全然わかっちゃいなくて」
琥珀の背中からまばゆい霊気が立ち上がる。その瞳は、今や爛々と輝いていた。
「紫龍から、奥義を託された時だってそうだ。他の兄弟龍が、あんたの才を羨まなかったとでも? 日向が明るいからこそ、それを支える影法師はより惨めになるんだよ。生まれてからずっと日向者だったやつに、そういうのをつべこべ言われたくねえ!」
「琥珀、もうやめて!」
ごうごうと気を飛ばす腕をつかんで、雫玖はかすれ声を出した。霊動が激しすぎて、身体ごと吹き飛ばされそうだ。まさか、いつだって斜に構えて冷静な青年が、こんなに激高するとは。よほど触れられたくない話だったにちがいない。
「お願い、琥珀。わたしの話を聞いて」
渾身の力で青年の腰にしがみついた。初めて聞いた本音に、たまらなく胸を揺さぶられてしまう。この人はいったい今まで、どんな気持ちで蓮国にいたんだろう。
「ねえ、正直に答えて。琥珀が蓮国に来たのは、真澄鏡で兄さまに呼ばれたから?」
先代王が不自然に身罷り、その後、叢雲剣までもが破壊されてしまい、兄は守護龍に助けを求めたのだと思う。その召喚に応じたのがきっと黄龍だったのだ。
「ああ、……そうだ」
「じゃあ兄さまは、琥珀が龍だってことも、初めから知っていたのよね」
「ああ。本当のところ、高瀬に呼ばれたのは瑪瑙のほうだったんだが。俺の本体は――黄金郷を離れられないから」吐息が聞こえた。「俺が代わりに現世へ出たんだ」
琥珀の手が凪を放した気配があったが、雫玖はなおも固い胸に顔を埋め続ける。
「そうだったのね。でもわたしは、琥珀が来てくれて良かった。あなたが側にいてくれて助けてくれて、支えてくれたから、わたしは今、ここに立てているのよ」
「……」
「わたしもずっと、日陰にいた。だからあなたの気持ちはよくわかる。ねえ、そんなに怒らないで。本当はわかってるんでしょ、青龍があなたを大事に思ってるって」
琥珀がどうして鏡の召喚を断り切れずに引き受けたのか、なんとなく想像がつく。――高瀬が凪に似ていたからだ。
「いいな、兄弟がいて羨ましい。わたしはもう独りぼっちだから」
そう呟くと、琥珀はわずかに身じろいだ。
「雫玖、あんたには俺がいるだろ?」
「そうだけど。でもあなたは兄さまじゃない。兄さまは逝ってしまった。もう戻ってこない」
「そ……悪かったな、大声出して」
慈しむように長い指が髪を撫ではじめた。
「なあ。怖くないのか、雫玖は。俺が人じゃなくて、じつは龍でも」
「全然。だって琥珀は琥珀でしょ?」
「そうか、……良かった。本当のことを話したら、嫌われるんじゃないかと思ってた」
ほっとした声。雫玖はようよう身体を外すと相手を見上げる。
「琥珀。わたしは絶対に、あなたを嫌いにならない。あなたを信じているし、必要としてるし、とてもとても大切に思ってる。だからお願い。青龍にも謝って?」
うっと琥珀が腕を口に当ててつまる。顔が赤い。やはりこの人は正面からの押しにすこぶる弱い。もう一押し。雫玖は眉を寄せる相手に言いつのった。
「お願い。相手が生きているから、喧嘩だってできるんじゃない」
振り返れば、凪はあからさまにふくれっ面をしている。言いたいことはたくさんあるが、あえて口に出さないと言った体だ。
「ごめんなさいね、青龍。琥珀が失礼なことを言って。ほら琥珀も謝って」
「わかったよっ、すまなかった凪」
頭を下げられると、もういいと肩をすくめた。
「いや、俺も配慮が足りなかった。どうにもこの口下手ってのは、直らないものだな。それよりいつ亡くなったんだ、蓮の姫の兄上は」
この青龍は武骨だが、器が大きい。時折、まるで海と対峙している心持ちになる。
「つい先頃よ。暗殺者の毒矢で」雫玖が応えると、琥珀が後をつぐ。「高瀬は王太子だった。それで今、蓮では跡目争いが激しくなってるんだ」
二人の話を聞くと、凪は感慨深げにしばらく無言になった。
「……俺も紫水の兄上が亡くなった時は、ずいぶん落ちこんだ。何日も寝られなかった。蓮の姫がこの蒼海国へきたのも、ひょっとして兄を想ってのことなのか?」
琥珀がうなずくと、よし、と深く息を吸う。
「状況は理解した。二人とも、俺の背に乗れ。特別に沙州まで飛んで行ってやる」




