8 青龍の試し
春の半ばとはいえ、青峰山脈の朝晩は冷える。
それから四日間、雫玖と琥珀は紗里の番小屋を点々としながら、日中だけと決めて山を登って行った。
紗里の民はなぜか琥珀を見知っている者が多く、通りすがりに出会うとかならず会釈してくる。また、参道はおおむね安全だったが、猪や鹿の疫が出た。それを琥珀は苦無の一撃で易々と倒す。あまりに鮮やかな手並みなので雫玖が褒めると、かつて武芸の優れた師匠がいたと言う。――謎だ。謎の大師だ。
しかし一体どういう過去を持つのだか、いくら聞いても青年は涼しい顔で応えてくれなかった。ならば意地悪なのかといえばその逆で、日暮れ時になると早めに番小屋に入ってまず雫玖の足を診た。大概、一日の終わりにはボロボロになっていたからだ。
そして雫玖がいくら遠慮しても、傷を舐めて癒やすのをやめようとしない。羞恥と扇情の狭間で身もだえたあと、用意された食事を取り、おのおので軽く身体を拭く。毛織りの敷布の上に横になると、寒さをしのぐために抱き合って眠る。
そうやって五日、琥珀との距離を詰め切れずに悶々とするうち、岩と砂ばかりの山道はさらに険しくなった。もう無理だ、上れないと思いつつ鷲蓬山の最後の峠を曲がって目的地の無熱湖にたどりつくと、
「見えたぞ、雫玖」
薄い春の日差しが青緑色の湖面を照らしており、午後の空は晴れ渡っていた。まだ残雪が湖の日陰を覆い、ふきのとうや福寿草が、枯れ草の間から顔をのぞかせている。――静寂。その時、雫玖の指が前方を指し示した。
「待って、誰かいる。ほら、あそこに」
湖のふちに、翡翠の髪飾りをした青髪の若武者がいる。歳の頃は二十歳ほどか。一見して蓮の服ではないとわかる藍の半臂に長袴姿、盤長紋の入った広帯を締め、背にえらく重そうな大刀を背負っており、ちらとこちらに目をやった。けれど体勢を崩しはせず、黒皮の長靴を履いた足を前後に開くと、ふたたび湖の一点を見つめている。
「青凪じゃないか」琥珀が声をあげた。「なんでいるんだ、あいつ。いつも風来坊で、探すのが大変なのに」
「あおなぎ?」
「心配ない、味方だよ」
その瞬間、くだんの若武者はやにわに背中の大刀を引き抜き、渾身の力で振り切った。途端、大地がぐらぐらと揺れ、耳をつんざく轟音を上げて、湖から巨大な水柱が立ち上がる。今のはなに。自分の目が信じられない。衝撃のあまり、雫玖は琥珀の長袴を掴んだまま尻餅をついてしまった。くだんの水柱はいったん中空に立ち上がった後、ざあざあと音を立てて降り注ぐ雨となる。
「なにしてるの、あの人? う、寒……っ」
くしゃみをすると、すかさず琥珀が隣で指を立てた。水払いの術。ぱん、水滴があたりに勢いよく飛び散る。
「おい凪!」琥珀は若武者にむかって叫んだ。「俺はともかく、この子は只人だぞ。他人の前で、見境なくその刀を振るうな!」
両手をつかんで雫玖を立ち上がらせる合間に、若武者は背中の鞘に剣を収めた。すたすたと軽い足取りで近づくや、二人の前に仁王立ちになる。雫玖は息をつめた。
「に、兄さま……?」
自分の目がまだ信じられない。髪も目の色もちがう、雰囲気も別人だ。なのに、この凪という若者、面差しだけはひどく似ていやしないか。死んだ兄の高瀬王太子と。
「兄? なにを言っている。この娘は誰だ、琥珀」
「雫玖という。蓮国の姫君だ。これから蒼海国につれて行く」
「ふん。それで? おまえは俺に、なにか言わなきゃいけないことがあるだろうが」
どういうわけだかこの凪という若者、琥珀にひどく立腹しているようだった。顔つきも声色も単調なのに、場の空気だけが不穏に緊迫していく。
「言わなきゃいけないこと、ね。……頼む凪、無熱湖の龍門を開けてくれ」
すると凪は無言で琥珀の襟首をつかんだ。容赦ない力で引き上げるや、拳を握って横っ面を張り飛ばす。声もなく四間ほど吹っ飛んだ連れを見て、雫玖はわなないた。
「今、俺を凪と呼んだな。おまえは琥珀のほうだろう、このど阿呆が」
対する凪の額には、青筋が浮いている。
「おまえは、今更どの面下げて、俺の前に出て……っ」
最後まで言い終えず、その頬が高い音を立てた。雫玖の平手が彼を打ったからだ。
「なにをするのよ、いきなり」雫玖は渾身の力で凪をにらみつけた。「誰だか知らないけど、わたしの護衛を傷つけたら、許さないんだから!」
「黙れ、蓮国の姫。俺は琥珀に話しているんだ」
凪は今にも人を殺しそうな目つきで見下ろしてきた。ものすごい目力と覇気だ。あるいはこの顔が見ず知らずの他人だったら、腰を抜かしていたかもしれない。でも不思議と怖くはない。なにせ少しだけ若返った兄と、対峙している気分なのだから。
「雫玖よ、し・ず・く。なにが黙ってろよ。冗談じゃないわ。理由もなく他人を殴るのは悪いことよ!」
「理由ならある」凪は唇を引き締めると、傲然と腕組みした。「なにせ琥珀は、自分から俺に修行をつけてくれと言ったくせに、鍛錬が辛くて逃げ出したんだからな」
「え、え。――それ、本当の話?」
「本当だ」
「じゃ、あなたが琥珀のお師匠さま? 怒っているのは、鍛錬を放り出したせい?」
「そうだ」
信じられない。眉をよせた。この凪、自分と同じ歳くらいではないか。けれど立ち居振る舞いといい、この物言いといい、とにかく偉そうなことだけは間違いない。
「っ、よく言うよ、あんたの鍛錬ってのは、拷問のまちがいだろうがっ。なんでも根性や気合いで解決できたら苦労はねえんだって。俺は、死にたくなかっただけだ!」
すこし離れた浅瀬の砂利の上で、仰向けのまま琥珀が呻いた。
「琥珀。この人、本当にお師匠なの? あなたより年若じゃない。一体、何者なのよ」
「……そいつはたしかに俺の師匠で、そして青龍王だ」
「え? 今なんて。よく聞こえなかった」
「だから。その凪が、この無熱湖を創った龍神、本人なんだよ」
雫玖はまじまじと若武者を眺めた。
「えー、嘘。だって琥珀、この人、人間にしか見えないじゃない」
「っ、そもそも人間ってのが、大昔に神の影から創られた種族なんだ。だから今、神と呼ばれるやつらが人型に変化していたって、変じゃない。よく気配を読んでみろ」
言われて霊動を探ってみると、たしかにこの若武者、人ではない。大瀑布のような輝の霊気が体内で渦巻いていて、酔ってしまいそうなくらい強くて――。
思わず両手をかざして後ずさった。
「で、でもわたし、謝らないからね! たとえ神さまだって、師匠だって、あんなふうに琥珀をぶつのはまちがってるもの! 暴力反対っ!」
すると凪は仁王立ちになったまま、美しい群青の瞳で雫玖をじっと見つめた。
「あんた、自分の立場をわかっているのか。本当に蒼海国へ行きたいなら、まずこの俺から、龍門を通行する許可を得なきゃならないんだぞ」
「え。なにそれ、通行許可って?」
「あれを見ろ」
凪の指は、さきほど水柱の立ったほうをさしている。湖のほとりから中央へむかって、石回廊が出現していた。どうやらさきほどの大技は、これを出現させるために放ったようだ。その行き止まりに、口を開けた龍の石像が頭を出している。今まで水中にあったのが、水位の減ったせいで現れたらしい。
「蓮の姫。あの龍像は元々、夜光珠という宝珠を口に咥えていた。その宝珠は今も湖のどこかにある。それを探し出し、元の場所に戻せ。そうすれば龍門を開けてやる」
言い終わるなり、おもむろに背中の大刀を抜き放つ。水晶のごとく青く透明に輝く、剣と呼ぶにはいささか巨大すぎる塊――その切っ先が、ひたり、琥珀の喉元に定まる。雫玖は息を飲んだ。
「ちょっと! なにするつもり?」
「このど阿呆は、鍛錬を貫徹するという誓いを破ったんだ。これは当然の報いだ」
凪はものうい顔で雫玖を見やった。深く考えるいとまもない。気づけば走り寄って、刀身と琥珀の間に身体を割り入れていた。両手を広げて凪をにらみつける。
「やめて! 殺さないで! ダメよ! 琥珀を傷つけるなんて、絶対にダメ!」
「じゃあ今から一刻やる、蓮の姫。それまでに宝珠を探し出してこい」
「ええ、そんな、無理よ、だってその宝珠を見たこともないのにっ」
「どのみちあの龍像も回廊も、一刻半ほどでまた水没する」
そんな無体な。唇を噛んだが、凪は涼しい顔を崩さない。探せるものなら探してみろとでも言いたげだ。ようよう半身を起こした琥珀に視線をやった。
「琥珀、心配しないで。大丈夫よ、ここはわたしがなんとかするから、絶対に」
とは言え、どうする。湖は早足で一周しても半刻はかかりそうな広さだ。この中でどうやって小さな珠一つ見つけよと。だいたいどんな形かすら、わからないのに。たしか夜光珠とか言ったか。――夜光珠? そうだ、もしかして。
「ねえ。夜光珠って昔、加那汰大師が死にかけた時に、蘇生に使われたとかいう珠?」
はたして凪は眉を上げた。
「あんた、もしかして、加那汰の知り合いなのか?」
「わたしは初代の加那汰大師から数えて、玄孫世代の霊法師なの」
霊香院縁起によると、初代は少年のころ、凶悪な疫に襲われて死にかけたそうだ。たしかこの災難を、青龍が夜光珠で救ってくれたと載っていた記憶がある。
「古文書によると、宝珠は上部が尖った球形で、剣の柄に収まる大きさだったとか?」
「……よく知っているな」
「初代が書き残してくれたもの。ところでその剣の柄頭には、空洞があるわね」
大刀に目を走らせると、すかさず凪が背の鞘に大刀を戻す。今の反応。やはり宝珠とやらは、あの剣にはまっていたのだ。問題は――そう、どこに珠があるのかだろう。考えろ。初代を救ったのはたしか深海の底でも光を放つという、生命の根源の宝玉だったはず。そんな希少な石を、はたしてこの所有者が、そこらに放り出すだろうか。
「縁起によると青龍は生真面目で、まっすぐで頑固で、嘘をつけない性格だったはず」
そして武術に長けた龍王の中でも天賦の才に恵まれ、玉龍帝の末子にして『青い牙』と名を馳せる武将だと書いてあった。――今、目前にいるのは痩身の若者だけれど。
「なんだそれは。もしかして、それも加那汰が書き残したのか?」
「そうよ。文献にはそう書かれていた」
「っ、あの悪ガキ、余計なことをっ」
初代がまるで子ども扱いだ。知らず苦笑した。でもそれも道理か。龍とはこの世界でもっとも長命な種族なのだ。きっと凪が出会ったのは、年端のいかない少年の加那汰だった。首をひねる。けれど初代が夜光珠を見て知っていたということは、きっと手がかりも初代が生きていた当時から、変わらずに存在するものの中にあるはずだ。
あちこちに目を走らせる。この湖で今も昔もあるもの。そうだ、いきなり出現したあの龍の石像、妙ではないか。なぜいつもは、水に沈んでいるのだろう――。
「わかったかも。宝珠の隠し場所」
足元に落ちていた小枝を拾った。やおら回廊へと走り出す。どうにも、あの石像が怪しい。濡れた床面をばしゃばしゃと蹴立てて、像の前に立った。
「なにをするつもりだ、そんな小枝で」
いつのまにか背後に凪がついてきている。けれど雫玖を阻止する気配はなかったので、これ幸いと、龍の大口へ枝を突っこんだ。
「宝珠は最初から、この口の中にあったんじゃない? だからわたしはそれを取り出して、また戻せばいい。そういうことなんでしょ。あ!」
説明半ばで尻餅をついた。石像の口が突然、閉じたのだ。枝をちぎらんばかりに噛んだまま、押しても引いても動かない。
「ふん。着想はよかったが、残念だったな」
「雫玖。その龍の像は一度食らいついたら、一年は獲物を離さない仕様なんだ」
気づけば琥珀まで凪の横に並んでいた。
「つまりこの口に、直接わたしが手を突っこんでいたなら、あやうく惨事だったの?」
すると凪は涼しい顔で答えた。
「ああ。そうだな、腕を噛みちぎられて出血死するか、湖に水没して溺死するか」
「ずいぶん悪趣味な像ね」
「疫避けの仕掛けだからな。で? ここからどうする」
群青の瞳に、好奇の色が見て取れる。
「なによ。まだ手はあるんだから、降参しないわよ。そうね、こういうのはどう?」
雫玖はすかさず懐から水鞠札を取り出した。龍の鼻柱に貼り付け、二本指をたてる。
「『解』!」
とたん、勢いよく龍の口から水が噴き出した。せき止められていた湧き水よろしく、三人にむかってふりかかる。
「……ほらね、取った!」
雫玖はびしょ濡れになるのもかまわず、龍の口から吐き出された石に飛びついた。はずみで盛大に転んだが、かまわない。振り返って宝珠をかかげてみせる。
「どうよ! これで文句ないでしょ!」
「水鞠札か。意外と強引だな、蓮の姫は」
凪の丸く開いた口で、驚いているのがわかる。琥珀が勝ち誇ったように笑った。
「あんたの負けだ、凪。認めろよ。俺の雫玖は賢いだろう」
俺の雫玖。思いがけない琥珀の言葉に、なぜか顔が赤らんだ。
「なによ。ひどい。どういうこと? 今の、二人してぐるだったの?」
「悪いな雫玖。今のが青龍王の『龍の試し』だったんだ。龍は口より目で物事を語る。だからさっき目を合わせた時にわかった、凪は俺の霊動を察知して開門しに来てくれたんだって。でも、問題ないよな」
琥珀の手が、ぐしゃぐしゃと凪の青髪をかきまぜる。
「ああ、蓮の姫、あんたは合格だ。門を開けてやるし、一つだけ願いも聞いてやるよ」
凪がうるさそうにその手を払いのけた。まるでじゃれ合う犬のようだ。この二人、本当に師弟なのだろうか。雫玖がいぶかしんでいると、琥珀がふいに目配せした。
「じゃあぜひ、雫玖の黒蛇もなんとかしてやってくれよ。凪ならどうにかできるだろ」
雫玖が左手首をまくりあげるなり、凪の目の色がじょじょに変わっていく。
「おい琥珀これ、破壊神の呪楔じゃないか。馬鹿な。この呪は百年ほど前に、俺が相棒の雷神と、霜の奥津城に封印したはずだぞ!」
「だから。おそらく盗んだんだろうな、誰かが。だがそこは今、さして問題じゃない。俺が言いたいのは、そうした黒蛇の本質をよくご理解している青い牙さまなら、すぐにでも雫玖の呪楔を解けるんだろって話で……」
「っ、いや、残念だが俺には無理だ。この呪は下手につつくと逆に暴れるように仕組まれている。雷相応の輝気がないと、相殺まではできない」
「なんだ。青龍王ってわりに、使えねえのな。期待して損した」
琥珀は凪の凄睨みを無視すると、雫玖の手を取って引き立たせる。術で軽々と水を飛ばすと、宝珠を受け取って凪に渡した。
「じゃ、残念ながら、あんたが頼りにならなさそうなんで、俺は雫玖とこれから黄金郷まで行ってくる。とりあえず黄龍王の試しを受け、蓮国のために宝鱗をもらわねえと」
なんなのだこの会話は。凪は気づいていないようだが、さきほどからなにか作為的なものを感じる。黙って聞いていた雫玖は、たまらず片手を上げた。
「はい。ちょっと待って大師さま、質問です。初代に鱗をくれたのって、紫龍のはずでは? なんでいきなり、黄龍王っていう人が出てくるの?」
「ああ。紫龍王はもうずいぶん前に亡くなったんだ。だから今、蓮国を代わりに見ているのは黄龍王なんだよ。凪もそれで紫の剣の奥義を継承した。しかし、お強い青龍王さまなら、黒蛇をどうにかしてくれるかと思ったのに、当てが外れちまったな」
凪はそれまで思案顔だったが、琥珀のぼやきを聞くと、ぱっと顔を上げた。
「ならば俺も黄金館へ一緒についていこう! 姫の願い事も一つ聞くと約束したし」
「ほう、それはそれは。あんたが一緒なら心強い」
琥珀はなにもかも心得た体だった。ぴんとくる。この英才、今わざと青龍王が手を貸すよう話を誘導したのでは。きっとこれから蒼海国を行くには、龍神が一緒のほうがなにかと融通が利くから。雫玖と目が合うと、片目を閉じてみせる。やはり。
「よし。じゃあついでに今度こそ紫水の奥義を、琥珀にも叩きこんでやろう」
だが余裕綽々だった琥珀は、凪の最後の一言で態度を一変させる羽目になった。
「は? いや、それは。別に、俺は奥義継承は、もういいって言うか……」
あきらかに嫌がっている。どうやら鍛錬の件までは、想定外だったようだ。
「凪、あんたは幼少の頃から比類無き怪力の天才児だ。その上、凝り性の鍛錬狂で。だが俺は面倒くさがりの逃げたがりなんだ。なんていうか、器がちがうっていうか」
「そんなに謙遜するな。きちんと教えてやるから。そうと決まれば出発だな!」
しかし凪はいっこうに琥珀の意図を介さなかった。地味に浮かれているようにも見える。どうやら徹底的に武闘一途な気質のせいで、奥義や鍛錬に興味がない者もいるなどとは、考えもしないらしい。
「安心しろ、蓮の姫。俺は兄弟の中では一番年若だが、武将としては一番強い。おまえたちは、この青龍王がかならず守ってやる」
話しながら石像の頬を叩くと像がぼやけていき、代わりに牌楼が出現する。それは青を基調とした、五階建ての楼閣ほどはあろうかという、しごく流麗な大門だった。




