7 仙客《サウロ》
雫玖が目覚めた時、すでに琥珀は部屋におらず、管理棟は騒然としていた。朝餉を持ってきた昨日の下女は、昨晩遅くに神剣を狙った賊が押し入り、鎬たちと斬り合いになったのだと興奮気味に語った。
「あんた、こっちの棟にいて正解だったね。あちらは大変だったんだから」
盗賊は十人いたらしい。いずれも荒くれ者だったが、対する鎬も将軍家麾下の者たちだ。三人を返り討ちにし、一人を召し捕らえたという。
結果、残党はなにも取らずに逃げたらしいが、味方も無事では済まなかった。黒覆面をした手練れにやられて一人が重傷、二人が軽傷。琥珀は乱闘になった部屋の後始末やら、都への報告やらで、まだ母屋に留まっているそうだ。
「お連れの大師さまからの伝言だよ。とにかく動くな。しっかり食事を取ったら、自分が戻るまで。この離れで待機するようにってさ」
部屋の四隅に張られた結界陣の霊札を見て確信する。これは――おそらく昨晩は意図的に眠らされたのだ。だから琥珀が部屋に戻ってきた時、雫玖は本当は怒っていた。昨夜、隠さずに話してと頼んだのに。
「ああ、もう起きてたのか。よく寝られたか? 不安にさせて悪かったな」
けれど相手の疲れ切った顔を見てしまっては、もうなにも言えない。
「鎬たちの怪我は、どんな具合なの?」
「しくじった。敵の中に一人、そうとうな怪力がいたらしい。応急手当はしてきたが、一人は内臓が破裂していて、虫の息だった」
「そんなに酷いの」ぎゅっと胃が縮まる。「わたしになにか、手伝えることは?」
「そうだな。じゃあ誰かから、茶碗を三つ借りてきてくれよ」
わかった、と弾かれたように部屋を出る。折良く調理場に人がいたので、言われたものを携えて戻った。琥珀はすでに荷物の中から薬匙や乳鉢、薬罐など調薬に必要な道具を取り出している。手早く薬包紙から煎じ薬を取り出し、乳鉢に配合し始めた。
「雫玖は薬罐に水鞠札を張って、霊水を入れてくれるか」
「はい」
札にはこんな使い方もあるのかと薬罐を満たす。すると琥珀は雫玖に目配せした。
「絶対に、誰にも言うなよな」
懐から取り出した苦無で手首を切ると、流れ出る血を調合し終えた散剤に混ぜて、慣れた手つきで薬罐に注ぎ入れる。
「とにかく今は質問するな。後で話す」
呆然とする雫玖を尻目に手首を舐めれば、裂傷は即座に塞がった。
「いいか、これは『霊香院が龍から賜った聖水で、深手を蘇生させる秘薬』だからな」
目の奥に強い光を宿すと、薬罐と茶碗をひっつかんで部屋の外へ出て行ってしまう。しばらくして、母屋の二階で歓声が上がった。声を頼りに廊下を進むと、はたして包帯だらけの鎬が仲間に支えられ、息を吹き返している。
「まさか大師殿が、噂に名高い龍脈水をお持ちだったとは」
「ありがたい、僥倖だ。奇蹟が起きた」
ちがう、と雫玖は叫びたかった。それは琥珀の持つ特異な血を、散剤の味で上手くごまかしただけの清水で。けれど当人が完璧な無表情を貫いているから、声が出ない。
「大師、やはり敵の狙いは姫君ではなく、神剣にあったのですな」
「では手はず通りということで、よろしいか」
「ああ。けが人は傷が癒えたら、都に戻せ。――雫玖、出立するぞ、鷲蓬山に」
ひそひそと打ち合わせると、琥珀はやにわに顔を上げて立ち上がり、雫玖の手をつかむ。そのまま引っ張られるようにして部屋に戻った。
「琥珀、待ってよ」
黙々と旅装を整えて荷物を背負うなり、鎬たちに挨拶もせず宿を出る。
わけがわからない。なんで逃げ出すみたいに二人だけで出立するのか。後ろ髪を引かれるように振り返ると、二階の窓で史緒が、神剣を胸に抱えて一礼していた。
「ねえ、いいの? あの剣を置いてきてしまって」
残してきた鎬たちは、これからどうなってしまうんだろう。それに史緒はなぜ、あんなに神妙な面持ちで自分たちを見送っていたのか。思い至った仮説にぞくりとする。
けれど琥珀は雫玖の左手を離さなかった。里の端までくると、街道横に青く伸びた獣道を迷わず進んで行く。――その先は、黒く重たい針葉樹の森だ。
「琥珀っ、わたし、いやだ。こんな気持ちのまま、この先に足を踏み入れたくない!」
思わず立ち止まろうとすると、青年の手がぎゅっと雫玖の手を引いた。
「雫玖は本当に霊感が鋭いんだな。たしかにこの森には疫が出る。だが、それでも俺たちは行かなきゃならない。頼む、どうか今は俺を信じてくれ」
否が応もない。結局こうやっていつも、雫玖一人の力では抗えない大きなうねりに巻きこまれて流されてしまうのだ。父母が死んだ時も、兄が殺された時も。
「……わかった。あなたを信じる」
琥珀につれられて森の奥深くへ入りこみながら、にわかに胸に湧き上がってきたのはどろどろした強い熱だった。
自分は今できることを、精一杯やって、日々をすごしてきたはず。それなのに。
なんでいつも居場所を追われ、大切な人を失い、わけもわからぬまま無力感に苛まされなければならないのか。悔しい。自分を押しつぶしそうとしてくる、この無情なうねりに絶対に屈したくない。負けたくない。
「どうやら『目』が、追ってきてるな」
そうして日が中空に上がったころ、初めて琥珀が立ち止まった。懐から取り出した苦無を空に一閃する。ギチギチとけたたましく鳴く声。ごお、と水流が鎌鼬のように宙を切り、ややあって、一刀両断された百舌鳥が落ちてくる。
黒灰になって消えゆくので、ぞっとして青年に身を寄せた。落ちたモノは猫ほどの大きさで、目は六つ。まぎれもなく妖魔。――疫だ。
「触れるなよ。穢れるから」
「うん」
疫。生き物の死体が昏気を浴びて転じた化け物で、様々な形があり、人や動物を襲い食う。怨嗟と呪いの塊で、噛まれただけで肉は腐蝕し、輝気で祓わないかぎり病に冒されて死に至る。生まれて初めて感じる恐れが、足元からせり上がってきた。
「疫は今みたいに祓えれば、脅威じゃない。だから必要以上に怖がらなくていい」
「うん」
思い知る。龍に逢いたいと言いつつ、妖魔や神獣の存在自体は、どこか絵空事のように考えていたのだと。でも、これからはこうして別な世界の摂理に入りこんでいく。
もう後には引けないのだ。覚悟を決めなければ。水の入った竹筒を渡され、ごくごくと喉を潤しながら歩くうち、うっすらと日が傾き始めた。
「もうすぐ紗里人の集落だ。がんばれ」
「わかった」
励まされてふらつく足に力をこめた。粘つく土と砂利と木の根の張った悪路、腰まで生えた下草。いくら奥宮の庭園を走り回っていても、しょせん自分は籠の中の鳥だったのだと思い知る。丸一日、山行しただけで、半靴の中の足が悲鳴をあげるなんて。
情けない。だめだ、気持ちも身体もこんな体たらくでは。しっかりしろ。
そうこうするうち、笠木を渡した門が唐突に現れた。――これもまた参拝路なのか。
「こうして紗里の道さえ知っていれば、公の参拝路より近道できる。ここは番小屋だ。今は無人だな。里はもっと奥にあるはずだ。とりあえず休憩しよう」
青年は勝手知ったる人の家とばかり、簡素な小屋の引き戸を開けて、土間に荷物を下ろした。半靴を脱いで板の間に上がると、おもむろに振り返る。
「あんた、足を見せてみろ」
雫玖はうろたえた。なんのことはない、気づかれていた。
「え、なんで、大丈夫よ、これくらい」
「いいから。襪を脱げって」
板の間に座ってしかたなく素足をさらすと、琥珀は深いため息をつく。
「……こんなになるまで、なんで黙ってたんだ」
責めるような声色。それもそのはず、雫玖の足は足指も裏も皮がむけて腫れ上がり、血が滲んで、かなり無惨な有様だ。すると琥珀のほうが先に額を叩いた。
「悪い。あんたは姫さまだってのを、俺はいつも忘れちまう」
「なによ、まだ全然歩けるんだから」
「根性は認めるけどな。これから四日は山登りだ。まずはこの傷をどうにかしないと」
土間の大瓶から水を汲んでくる。琥珀の手が丁寧に、しかし容赦なく傷を洗い上げていく。その焼けつくような痛みに涙目になっていると、痛いか、と聞かれた。
痛いに決まっている。ただ、そう訴えるのは子どもみたいで自尊心が赦さない。
黙ってかぶりを振ると、ふいに足首をつかんで持ち上げられた。
「動くなよ」
そのまま口で吸いつかれたので、心臓が止まりそうになった。
「ちょ、ちょっと……!」
「これくらいなら薬を塗るまでもない。舐めときゃ一晩で治る」
青年の口が容赦なく足指を咥える。暖かく濡れた舌が、傷口を丁寧になぞっていく。
「琥珀、やめて、なんかやだっ、恥ずかしい」
その感触に、じわじわと肌が熱くなる。
「我慢しろ。数でも数えて気を散らせばいい」
足裏を吸っている相手と目が合ってしまい、どくんと胸が鳴った。
反射的に顔をそむけて目をつぶる。
これは治療だ。どういうわけだか、琥珀の体液には治癒の力がある。
なのに湧き上がってくる感情を抑えられない。なんで、どうして。
今すぐ逃げ出したいのに、舌の動きがたまらなく気持ちよくて、もっと続けてほしい。この人にこのまま、壊れ物を扱うみたいに触れていてほしい――。
「これでよし。終わったぞ」
こらえきれず身体を震わせていると、ようやく琥珀の手が両足を解放した。
呆然とする。今のはなに。我に返るなり羞恥の波が押し寄せ、顔を両手で覆う。
「……大師、お久しぶりです」
その時、引き戸のほうから声がかかった。打たれたように顔を上げると、痩せた長身の女が立っている。歳は波布王と同じくらいだろうか。
「岳か。元気にしていたか」
刻まれた皺と黒光りする肌、目に鮮やかな緑髪と金茶の瞳。額には花の入れ墨。どこか母に似た面差しの女は、琥珀の手が雫玖の足をつかんでいるのを見、目を細めた。
「おかげさまで。その娘は仙客ですか」
「いや、まだだ。これから龍の試しを受けに行く」
「見たところ蓮と紗里の合いの子のようですが。もしや我が妹、澪の娘でしょうか」
思いがけず上がった母の名に目を見開くと、女は納得したように微笑んだ。
「なるほど、たしかに面影があります。しかしまさか我が血縁から、王妃のみならず、斎女を出す誉れに預かれようとは……」
「おいおい、待てよ、まだ仙客になると決まってないんだって」
「なにをおっしゃいますか。大師が随伴されている時点で、かなり有望でしょうに」
どこか慌てたふうの琥珀を見て失笑をもらし、女は心得た様子で胸に手を当てる。
「つまり蓮の王太子が亡くなっても、汀の意志はまだ生きているということですね。そういうことなら、全面的に協力いたします。なんなりとお申し付けください」
「助かる。では紗里道と番小屋使用の許可を。追っ手も巻いてもらえるとありがたい」
「追っ手? 誰かに追われているのですか」
琥珀はつかのま、気づかうように雫玖を見やった。
「確証はないけどな。蓮国将軍の息によると、壬国の『簗』だそうだ」
「な、よりによって構成員に異形も多数いるという、あの暗殺旅団に? なんでまた」
女は驚愕したように身じろいだが、ややあってはっとしたように頭を下げた。
「……深くは追求致しますまい。まずは食物と水をお持ちします。あと通行許可証も」
「すまない、助かる」
一拍おき、はたりと戸が閉まった。静寂が場を包む。琥珀と二人きりだ。
足を見やると、あれほど赤むくれていた傷が、もうほぼ新しい皮膚で覆われている。
「……ねえ、琥珀、どういうこと」
情けなくも声が震えてしまった。心の平静を保つのは、こんなに大変だったろうか。
「サウロってなに。暗殺旅団って。さっきの人は母の親族なの? あなた昨日、言ったわよね、全部ちゃんと説明してくれるって。わたし琥珀を信じてる、全然疑ったりしてないけど、でも」
今日は一日、いろいろなことがありすぎて。
いや、兄が死んでからもうずっと、引き返せない道を歩み続けている。
その事実が急に、両肩に重くのしかかってきた。
「もとより、そのつもりだよ」
琥珀はそんな雫玖の様子を見て取ると、背筋を伸ばして居住まいを正した。
「ごめんな。不安にさせて悪かった。約束どおり全部話す。疲れているだろうが、とにかくまずは聞いてくれ。今の蓮国の、立ち位置からな……」
深呼吸してから口を開くと、滔々と語り始めた。




