6 琥珀
蓮国の北に、青峰山脈と呼ばれる山々がある。一年のほとんどを雪で覆われた標高の高い山々で、雫玖がめざす鷲蓬山もそのうちの一つだ。
山の麓には青々とした樹海が広がり、都から遠くなるにつれて舗装された道も土だらけになり、幅がせまくなっていく。
旅に出て四日目の朝、琥珀は精鋭七人を残して、小隊と牛車を都に返す決断をした。この先は少数のが動きやすい、と地勢を知る護衛の一人が提案したのだ。
目頭に泣きぼくろのあるこの史緒という女護衛は、雫玖を前に乗せて黒馬を駆る役だったので、二人はすぐに打ち解けた。
そうして芦原を川沿いに遡上していくと、やがて急に視界が開けて宿場に出た。友加里というその郷は、奇しくもかつて雫玖の母が生まれ育った郷の隣里だった。一行はすでに蓮国の少数部族、紗里が暮らす地へと足を踏み入れていたのである。
三百人ほどが暮らすというその小さな里に城郭はなく、境を示すのはただの笠木を渡した門のみ。それでも通りぬければ魔除けの呪は感じ取れる。
「この里から先は、疫の出没も多い。今夜はゆっくり身体を休ませよう」
琥珀に囁かれて実感した。都にいるとあまり実感はないが、辺境にはまだ疫と呼ばれる妖魔が跋扈していて、時に人を惑わしたり、襲ったりしているのだ――。
馬止めで馬を預け、歩いて宿へむかう。春の宵は急に風が冷える。あたりは黄昏れて、そろそろ足元が見えづらかった。真雪が手配してくれた旅籠は管理棟と客棟にわかれており、柔らかな灯りが大きな玄関口から漏れている。その時。
「……ちょいと、その子は、敷居をまたがせんといて下さい」
管理棟から慌ただしく出てきた女主人が、雫玖の足を止めた。
「悪いけどあたし、わかるんですよ。あんた、昏神さんの呪いを受けとるじゃろ」
濃い緑の髪に黒い瞳。紗里との混血だとわかる、目鼻立ちのはっきりした女だった。
「いくら真雪さまの頼みでも、穢れ者は疫を呼ぶんだ。他をあたって下さらんかね」
「待って下さい。俺は都の霊法師です。たしかに彼女は呪を受けています」琥珀が雫玖を庇うように前に立つ。「ですがこれは彼女の落ち度ではない。昏気が漏れないよう処置しますので、どこか一晩、離れの一室でも、お貸しいただけないでしょうか」
「ご当主。この方は恐れ多くも、霊香院の大師さまですよ。口を慎みなさい」
史緒がすかさず口をはさんだ。
「え、大師さまもご一緒で……? あたしゃてっきり、鎬の人ばかりかと」
女主人は気圧されたように態度を和らげた。将軍家直属の精鋭兵――鎬は皆一様に剣菱紋の籠手をしている。どうやらそれで身分を特定されたようだ。雫玖も迷わず前に出た。
「お願いします、ここに泊めてください。なんならわたし、働けます。荷解したら、薪割りでも皿洗いでも手伝いますから」
「雫玖、さすがにそれは」
琥珀はうろたえたが、どうやら女主人は雫玖のすぐ隣にいる、色白で綺麗な黒目の史緒を姫だと勘違いしているらしかった。
「……仕方ないね、じゃあその小間使いの子と霊法師さまは、管理棟のほうでよければ。姫さまと鎬さま方は客棟の奥の間をご用意してありますんで、どうぞそちらへ」
皆はざわついて顔を見合わせた。しかし雫玖は笑って口に人差し指を立てる。髪を切って以来、前にもまして下女と勘違いされる上、琥珀から極力目立たずに行動しろと出立前に言い渡されていたからだ。
やがて母屋へ去る鎬たちを見送ったあと、琥珀と二人だけ離れへ通されると、
「どうも、ごめんなさいねぇ。大奥さまは霊感がおありなもんで、神経に障りやすくって。昨晩から疫が来るー、宿が穢れるって、騒いでいてねぇ」
部屋の戸を開けてくれた、通いで働いているという中年女は、素朴で親切だった。
「ああ、そうそう。風呂場も、家人用のが使えるから。こっちこっち」
中庭の奥手で湯煙を吐く小屋へ案内されたので、雫玖は自分が使う分だけ薪割りをし、ありがたく入らせてもらった。置いてあった麻地の夜着に着替え、部屋に戻ると、
「琥珀? いないの?」
室内はもぬけの殻だ。どこへ行ったのだろう。奥に寝床と荷物。戸口にお膳が二組置かれている。雑穀米と焼いた川魚に山菜汁と大根の漬物だ。しばらく待ってみたが、琥珀が戻らないので出された膳を食べていると、やがてからりと戸が開いた。
「雫玖、戻ってたのか。風呂には入れたんだな?」
「うん、ごめん、琥珀。先にごはんも頂いてました。今までどこへ行っていたの?」
「少し鎬たちと打ち合わせに、な」琥珀は雫玖の隣に胡座をかくと、「あんた、少しも怒らないんだな。こんな殺風景な部屋で、残り飯を出されていても」
「あら。だって、わたしのご飯はいつもこんなものよ。磬宮って、最低限しか予算がないんだもの。よく庭師たちの手伝いをして、ご相伴にあずかったりしていたし……」
相手が引いているのに気づいて、慌てて箸を振る。
「ちょっと。今、そこまで辛酸をなめていたのか、不憫な奴とか思ったでしょっ」
「いや俺はその。悪い。今まであんまりあんたが明るかったから、全然気づけなくて」
「あのねぇ、そこで憐れまないで。知ってる? 世の中、赤の他人のほうが顔見知りより優しいってこともあるのよ。そうやって身の回りのことは一通りできるようになったんだから、別に今まで、そんなに悪くはなかったのっ」
「ん。いいと思うぞ、そういう楽観的で前向きなのは。しかしなるほど、これであんたの謎が一つ解けた」
「え? 謎?」
「そうやって下々の話し方を身につけたのか。貴重だよなー、働く姫さまってのも」
「……こら。笑いをこらえながら、褒めないで」
「なにが。あんたのその明るさと強さに、驚かされてるだけだって」
肩を震わせて顔を背ける琥珀を見て、ふと違和感を覚えた。
なんだろう。さっきとなにかがちがう気が。
「あっ。琥珀、叢雲剣はどうしたの?」
旅の始め、正殿で波布王に拝謁した際に、仰々しく貸し与えられた神剣がない。今まで肌身離さず太刀を佩いていたのに。
「目ざといな。鎬に託してきた」
「えっ、なんで?」
「いやその、怖がらせるつもりはなかったんだが」琥珀は一瞬だけ話すのをためらった。「じつは都からずっと、俺たちを付け狙っている者がいて……」
「嘘。何者? やだ、もしかして狙われているのって、わたし?」
真雪と霜葉の会話を思い出して、つい口が尖ってしまう。
「そんなしょっぱい顔をするなよ。まぁ一番怪しいのは、たしかに王女暗殺って線だけどな。神剣の簒奪もあり得るし、まだ他の可能性もある。で、たまたま今夜こうして寝所が別になったんで、皆と相談して、鎌をかけることにした」
「……そうなの」
「俺の勘が正しければ、敵さんは今夜、仕掛けてくる公算が高い。というのも紗里の森を抜ければ、この先は険しい山岳路だ。悪路で鎬と戦闘になるよりは、この郷内で夜闇に紛れて襲撃したほうが、逃走する際だって人に紛れられるだろ」
雫玖は目を見開き、なんと言ってよいかわからず箸を置いた。曲者の存在に、琥珀はいつから気づいていたのだろう。他の鎬も知っていた話なのか。いや、もしかして出立前から――。質問したいのはやまやまだが、琥珀は食えない。大事なことは煙に巻かれそうな予感もある。この青年は、いつも手札を全部はさらけ出さない。かならず裏に、なにかを一つ二つ隠している。
「なんだよ。あんたは俺が守ってやるから、かならず。とりあえず食っちまおうぜ」
「うん」
黙々と食べ終わって二人分の膳を片づけ、ようやくさしあたってもっと重大な問題に気づいた。そうか、ここは小間使い部屋だから。――寝床が一つしかない。
「どうした、さっきから黙りこんで。疲れたのか。だったらもう寝たほうがいいぞ」
胸が騒がしく鳴り出す。つい先日、阿南とあんなことがあったばかりだ。
「ええと、その、寝たいのはやまやまなんだけど」
指さすと、琥珀も遅ればせながら、寝台が夫婦用だと気づいたようだ。
「ああ。いいから、あんたはそこで寝ろよ」ふうわり抱き上げられ、気づいた時にはもう褥の上に横たえられていた。「大丈夫だ、俺は一晩中ここにいるから」番犬のように寝床脇に座りこむので、思わず身を起こして叫んでしまう。
「ちょっと。わたし一人だけ、横になって寝るわけには……っ」
「なら添い寝でもいいってことか?」琥珀は半身をねじり、物憂い顔で褥に頬杖をつく。「もう穢れ者なんて言われないよう、蛇の封印を強化しておきたいから、本当はそっちのほうがいい。けど俺はそういうの、無理強いする気はないから」
挑戦的な視線だ。自分は阿南と同等程度だと思われているのか、あえて雫玖から答えを引きだそうとするかのような。――ここは引き下がれない。直感的にそう思った。
「それならそうと言ってよ。どうぞ」
場所を空けた。琥珀はいいのかよと呟き、距離を空けて寝そべると、雫玖を疑い交じりの細目で見やってくる。
「……で、なに。寝ないわけ?」
「寝るわよっ、寝るけど!」たまらず顔から褥に倒れこむと、うつぶせになったままでうめいた。「なんていうか、いきなりでこの距離感は恥ずかしいのっ、察して!」
「へえ。どうして」
「どっ、どうしてって」
「それは俺を男として意識しているから?」きらりと鬱金の瞳が光る。「それとも護衛として信用がないから? こっちは最大限、王女さまを大切に大切に、守ってるつもりなのに。なあ、俺の立ち位置って、あんたの中ではどうなってんの」
雫玖は顔を上げて口を引き結んだ。ようするにこの青年、ふてくされている。
「そんなに怒らないでよ。この状況で緊張しないほうが、むしろ変でしょ?」
「じゃあもし今、ここにいるのが真雪だったら」
「え……え? なんでいきなり、真雪が出てくるの」
「だってあいつ、あんたの幼なじみなんだろ」
まぶたをしばたたく。琥珀はなににこだわっているのだろう。皆目わからない。
「そうね、真雪がもし、ここにいたら。うーん、たしかに昔なら、気にせず寝たかもしれない。でも今は、むしろ琥珀より怖いかも。だってあの人、図体も態度も大きいし、筋肉が逞しすぎて、なんだか威圧されるし」
「そうか。やっぱり雫玖は、真雪が好きなのか」
は、と目をむいた。だから、なにがどうしたらそういう解釈になるのだ。
「見たんだよ、俺。あんた出立前に霊香院で真雪と、ずいぶん親しげに話してたよな」
今や琥珀ははっきりと雫玖をにらんでいた。
「ええ? なに、えっと……、もしかして琥珀は、真雪に嫉妬しているの?」
おそるおそる問いかけると、青年の顔がかっと赤くなる。まさか図星か。信じられない。思わず手を伸ばして頬に触れた。
「琥珀。なにを誤解しているのかわからないけど、嫉妬なんてしなくていい。だってわたし、あなたといるほうが、……っ!」
言いかけたままの体勢で固まる。相手が突然、腕を開いて抱きしめてきたからだ。
「俺といるほうが、なに?」囁く声が、つむじの上に降ってくる。「ちゃんと言えよ」
「あ、安心する……っ、けど今は、あの」
思わせぶりに髪を撫でる指。艶やかなまなざし。なにこれ。固く閉じられた胸の中でまごついていると、喉を震わせて忍び笑う声が耳をついた。
「ちょっと琥珀、ひどい! わざとなのね? もう離して!」
「ダメだ。こうして俺の霊気で相殺しないと、黒蛇の昏気で敵に居場所がバレちまう」
「ねえ琥珀、敵って誰なのよ。もしかして高瀬兄さまを暗殺したのと同じ賊なの? どうしてその人、蛇の昏気をたどれるの」
「だんまりを決めこんでいたと思えば、今度はずいぶんと、質問が多いな」
「だ、だって、聞いてもあなた、答えてくれるのかわからないなって、思ってたから」
じっと見上げると、相手の目がどんどん柔らかくなるのがわかった。
「ふぅん。さっきからぎごちなかったのは、ようするに俺に応えてほしかったわけか」
「そ、そうよ、悪い?」
「俺に守られるのが、嫌ってわけじゃないんだな?」
念押しされてうなずく。やっと得心した。琥珀は聡いから、だいたいなんでも察してやってしまう、それも完璧に。でも本当は言葉が欲しいのかもしれない。自分の行動に対して、気持ちを返してほしい。それは人として、当然の欲求だと思う。
「ごめん琥珀、わたしこれからもっと、自分の気持ちを正直に伝える。だから、あなたもなにも隠さないでくれないかな」
なんだろう、この包みこむようなまなざし。熱くて優しくて、胸がどきどきする。
「お願い、わたしに、あなたの心を見せて……?」
すると琥珀は目を見開き、息をつめた。それから眉を寄せると、ほんのりと目元まで赤く染めて、可愛いな、なんだよそれ、素直かよと呟いた。
「あんたの気持ちはよくわかった。こっちこそ大人げなく、いらついてすまなかった。今夜はもう休め」
「琥珀、全っ然返事になってない。ずるいわよ、わたしにばっかり言わせて。それにあの……、できればもう少し、離れてくれたほうがありがたいんだけど」
吐息がかかるほど間近で見つめられて、顔に血が集まった。心が妙にそわそわする。すると琥珀はそんな雫玖を見て、ふ、と微笑んだ。
「無理」
「えええ、無理って」
「雫玖はこのままずっと、俺に守られてろ」
やがて頭上で機嫌良く歌う声が聞こえた。古い魔歌なのか、どこの国の言葉ともわからぬ不可思議な響き。低くて艶のある声に思わず聞き惚れてしまう。
「……琥珀、完璧すぎ……歌まで上手いなんて、知らなかった……」
左手をさする手のひら。人肌の温もりが、やわらかな指先が、たまらなく心地良い。
潮騒にも似た美しい旋律が、ゆったりと身体全体を包んでいく。やがて禊ぎ水に浸かったような高揚感がこみ上げ、急に眠気が押し寄せてきた。
「我慢するな。眠れ、雫玖」
「……ん」
琥珀って、いったい何者なんだろう。ただの地方貴族にこんな力、あるわけがない。
絶対に明日、真実を聞き出さなければ。
強く念じながらもその夜、雫玖は青年の腕に抱かれてぐっすりと眠った。
――そして次の朝、夜のうちに、母屋で激しい戦闘があったのを知ったのだった。




