5 真雪
真澄鏡損壊事件から五日後。朝の鐘が鳴ったのを見計らって、雫玖は磬宮を抜け出した。阿南一派に攫われないよう、念のため奥宮護衛の下男の官服を着ている。短髪になってしまったので、だぼついた錆鼠色の円領に顔を埋めていると、どこぞへ昼餉を届けに走っている小坊主にしか見えなかった。
――どうか雫玖君は、このまま磬宮にお留まりを。
事の発端は、前日に宮を訪れた歳破内大臣の一言だった。かつて兄、高瀬の後ろ盾だった五十路の男は、応接間に入るなりそう言って拱手したのだ。
――聞けば姫君は、阿南王子に手籠めにされそうになったとか。しかし魅音殿は、姫が自ら東宮へ参られたのだと、言い張っておられる。
自ら阿南の元へ行った。それはたしかに事実ではある。ただしあの時の状況で、雫玖に拒否する選択肢があっただろうか。そう伝えると、内大臣はうなずいた。
――霊香院は、貴女を鷲蓬山へ派遣するよう準備している。しかし私は反対だ。波布王は今日の朝廷で『たとえ鏡が復活せずとも、秋の例大祭で立太子の儀を執り行う』と仰せられた。ゆえに、あなたの旅で宝鱗が手に入ったとしても、期限までに帰ってこられなければ阿南王子が太子になる。霊香院の努力は水泡に帰すかもしれない。
切れ者と名高い文官は、衰え知らずの強い輝きを瞳に宿し、切々と訴えた。
――それより今や貴女は孤立無援。そのように勝手に髪を下ろされ、ここでまた奥宮の掟を無視して行動したら、魅音一派の思うつぼではないか。
内大臣の言うことはもっともだった。けれど阿南に受けた仕打ちが無かったことにされたように、真実なんて権威者の良いようにいくらでも上書きされてしまう。馬鹿正直に掟に従っていても、益があるとはかぎらない。
「結局、自分から動かないと、なにも得られないのよね」
知識は力だ。知らなければ、考えることすらできないではないか。勝手知ったる回廊を小走りに通り抜け、一目散に霊香院を目指す。霜葉老師なら、なにがしかの助言をくれるはず。裏から表門に回ろうとして、ふと足を止めた。
誰か、顔見知りが大殿に来ている。微妙な霊気の揺らぎと強烈な気配。誰だろう。本堂の壁伝いにそろそろと移動し、窓から中をのぞきこむ。はたして中で仁王立ちになっていたのは、見事に引き締まった体躯の武官だった。――真雪。雫玖たち兄妹の幼なじみで、高瀬王太子のもう一人の側付だった、錏将軍の息子だ。
「言え爺、琥珀はどこにいる」
「ちょうど今しがた、王に呼ばれて出て行ったところじゃ。半刻ほどで戻ろう」
「しかしなんで琥珀と雫玖なんだ。神龍詣でなんて、他の奴が行けばいいじゃねえか。波布王は広く、巷間からも参拝者を募ると言ってるんだろ?」
一文字眉に涼やかな切れ長の瞳。くっきりした頬、厚い胸板、長い手足。虎の刺繍が入った黒い武官服。真雪もその父の将軍も名高い槍使いだが、あの高身長から繰り出す剣戟はいかにも迫力がありそうだ。
「龍は気むずかしい。登山したところで、拝謁できる者なぞ限られておる。数を打てばよいというものでもない」
対面で円椅に腰掛けているのは、枯茶色の官服をまとった霜葉老師だった。
「おい、爺。あの王は王太子暗殺より、自分の銅像の建立式典が延期になったのを嘆いていたぼんくらだぞ。いいかげん、あいつを擁護するのはよせよ」
どうやら真雪は怒って意見しにきたらしい。腕組みして老爺をにらみつけている。この青年、霜葉老師の孫にあたるため、目上の大師に対しても物言いに遠慮がない。
「わしはべつに、波布王を贔屓なぞしておらん」
「本当かよ。そうは見えねーぞ。なにか他に意図があるのかよ」
「じつはのう、雫玖の黒蛇の出所が気になっておるのじゃ」老師は顎に手をやった。「あれほど危険な呪札を、阿南王子はどこから入手されたやら」
「そんなもん、おおかた魅音王妃一派か、あの漆氏の護衛官あたりじゃね?」
「そうかもしれぬ。しかしそうではないやもしれぬ」
「どういう意味だよ」
「真澄鏡を割ったのが人間であるなら、十中八九、今回の王位継承を巡る勢力争いが元じゃろ。しかしもし鏡を割ったのが異形なら?」
「なんだと」
「どこぞの国の、暗殺旅団という可能性もあるじゃろうが」
傍目にも、真雪が息をつめたのがわかった。
「ゆえにわしは護身用として、今般の旅には神器の叢雲剣を持たせようと思うておる」
「ちょい待ち、それって王や歳破内大臣は了承している話なのか? もし琥珀がしくじったら、蓮国は鏡だけじゃなく、神剣まで失うことになるんだぞ!」
だが霜葉は飄々としていた。さすがは年の功というべきだろうか。
「どのみちこのまま龍の宝鱗がなければ、次王は阿南王子になろうが」
「は? なんでそうなる」
「簡単じゃ。波布王が譲位すれば事はなろう。なぜならもう真澄鏡はない。この間の朝廷で、王は秋の例大祭には鏡なしでも立太子の儀を行うと言われた。ようするにそれは、これから蓮は、王の一存で後継者を選ぶ国になるということ」
老師の言葉に真雪はぐっと黙りこんだ。
「よく考えてみよ。だが龍の試しを受けない王子が玉座に就けば、蓮はどうなる?」
「この国は龍という拠り所を失い、いずれどこぞの国の属領に落ちる……、いやいや、だがそうなれば、朝廷は大荒れだぞ。内大臣あたりが別な王を担ぎ出す可能性も」
「そのとおり。ではその場合、魅音派にとって一番、邪魔になるのは誰じゃ」
真雪ははたと眉をあげた。
「前王息女か。たしかに雫玖がいたら、どこの馬の骨ともわからん男が、夫として玉座につける可能性が生まれるな」
「そうじゃ。ゆえに雫玖は今、琥珀と外に出たほうがまだ安全である。であろう?」
雫玖は血の気が失せるのを感じた。やはり霊香院に来てみてよかった。まさかそんな話になっていようとは――。真雪がしかめっつらをして額に手を当てている。
「だが今、叢雲剣まで王宮外に出すのはやばいって。爺がどこまで聞いてるんだか知らねえけど、たしかに壬国の簗って暗殺旅団が、蓮に忍びこんだって情報があるんだ。そういうわけなら、俺も雫玖の護衛につくぜ。むざむざ高瀬の妹を、危険な目に遭わせるわけにはいかねえ」
「ならぬ。おまえは都に留まれ」
「は? なんで爺がすべて仕切ってんだよ。たとえ汀の意志だって言われてもなぁ、悪いが俺は、自分の考えで動かせてもらう……」
「ならぬ」老師が大喝一声した。「そなたの父、錏将軍と歳破内大臣は、長らく犬猿の仲であろう。内大臣がこの機会に、将軍家の力を削ごうとしているとの噂がある」
「な……に?」
「我が不貞の息、錏将軍は味方も多いが、一本気な気性ゆえ、とかく敵が多い。おまえは父になにかあった時、すぐ対応できるようにしておかねば」
霜葉が意図しているのは、将軍が謀殺されたら、真雪があとを継げという話だ。
「ちっ。大の男が足の引っ張り合いかよ、だっせえな、こんな大事な時に。あの二人、昔は仲が良かったのに、なんだって喧嘩ばっかりするようになっちまったんだ」
雫玖はなんだか足先から石化していくような心持ちがした。人の欲とは恐ろしい。そして気づく。兄とその側付たちはずっと、こういった殺伐とした外廷の政事から、雫玖を守ってくれていたのだと。
「――というわけじゃ、雫玖。そなたはただちに龍の元へ行かねばならぬぞ」
「は? 雫玖って? 爺、なに言ってやが……っ」
真雪がいぶかしげに視線を上げた。慌てて窓から離れるが、時すでに遅し。武官は一瞬で外へ飛び出してきた。
「おまっ、幽霊じゃねえよな? つうか一体どうしたんだ、そのざんばら髪はっ」
肩を浮かす雫玖を、容赦なく壁際に追いつめて両手をつく。
「こ、こんにちは真雪、ひさしぶりね」
顔が近い。心臓が縮む。琥珀がひねくれ者なら、真雪はまちがいなく破天荒者だ。
「琥珀によると、雫玖は自ら髪を下ろしたそうじゃ。形代に己の髪を使えと言ってな。おおかたここに来たのも、情報収集であろうよ」
後ろから霜葉が声をかける。白く長い眉の下の瞳は、愉悦を含んで輝いていた。
「うお、すげえな『奇異の姫』は。やることが半端ねえ」
「なによそれ、嫌味?」
「なに言ってんだ、おまえ。筋通したんだろうが、恰好いいじゃねえか。あ、やべ、女に恰好いいってのは、褒め言葉になってねーか」
「べつに無理に、褒めてくれなくてもいいんだけど」
「ちげえよ。雫玖は可愛い。ざんばら髪でも、男の服を着ていても。もっとよく顔を見せてくれよ、ちょっと見ないうちに、いくぶん女っぽくなったんじゃねえの?」
雫玖は赤くなって真雪を見上げた。巨?とはよく言ったものだ。同じ歳のはずなのに、なにを食べたらこんなにがっしり育つのだろう。
「しかし雫玖よ。ひとたび宮城の外へ出たら、もうお侠は控えよ。琥珀の言うことをよおく聞いて、おとなしく後をついてゆくんじゃぞ」
老師が微笑む。この二人、血は争えない。強引で利かん気な雰囲気がよく似ている。
「あの、霜葉さま。いくらなんでも、わたしもう、子どもじゃないんですから」
雫玖が口を尖らせると、真雪は喉を鳴らして笑った。
「俺と並んだら完璧に下働きの、ちんまりした小僧に見えるけどなー」
「失礼ね。真雪、小さいころはもっと優しかったのに。よく木に登って梨や桃をもいでくれたり、祭りのたびに美味しいお菓子をくれたりして」
錏将軍は高瀬王太子の側付に息子を擁立すべく、小さなころよりよく東宮に真雪をつれてきた。ゆえに彼は高瀬だけでなく、同い年の雫玖とも親しい顔なじみだ。
「よく覚えてるな、十年以上前の話だろ。俺は正直あんまり記憶がねえ。あの頃からとにかく毎日、親父にしごかれて痣だらけだったしな。まぁ、おかげでこうして強くなれたわけだが――どうだ、すげえだろ?」
やにわに腕まくりして力こぶを作ってみせる。
「……なんか肉々しくて怖い」
「ひでえな、おい」
真雪は苦笑した。そんなことを言われたって。本人はわからないだろうけれど、彼の身体からほとばしる覇気は強い。高瀬と同じくらいかもしれない。ちらりと面影が重なってせつなくなる。なんでだろう。兄とは全然、体格も性格もちがうのに。
「まぁいいや、雫玖なら何を言っても許してやるよ。だいたい、おまえは昔から言い出したら聞かないし、何するかわかんねえし、負けず嫌いだし、泣き虫だし」
「真雪のほうがひどい」
「とにかく、道中の鎬の手配は俺がしてやるから。将軍付きの精鋭をつれていけ」
「ええ、そんな。いいのに、琥珀もいるし」
「いーや、なにかあったら俺は、死んだ高瀬に顔向けできねえ。このままじゃ、蓮国存亡の危機だしな。なんとか龍から宝鱗をもらってきてくれ。頼んだぞ雫玖」
そう言うと真雪は、雫玖の肩をはげますように叩いた。




