第10話「『焼肉』という名の革命」
会場を包み込んでいた静寂は、市長の感嘆の声をきっかけに、熱狂的な歓声へと変わった。
それは単なる拍手ではない。観客たちの腹の底から湧き上がる、根源的な食欲の叫びだった。
俺の目の前で、市長は丼を抱え込むようにして食べている。スプーンが止まらない。とろりと溶けた卵黄と、甘辛いタレが絡み合ったご飯、そして炭火で香ばしく焼かれたミスジ肉。この三位一体の攻撃に、美食家として知られる市長の理性が完全に決壊していた。
「信じられん……この私が、これほどまでに無心で米をかき込むなど……!」
市長は最後の一粒まで食べきると、満足げに息を吐き、空になった丼を天高く掲げた。
それが、勝者の合図だった。
「勝負あり! 今年の収穫祭、料理コンテストの優勝者は――テオドール選手だ!」
司会者の絶叫と共に、割れんばかりの拍手が広場を揺らした。
俺は熱くなった鉄板の前で、深く息を吐いた。勝った。前世での経験と、この世界で出会った食材、そして仲間たちの協力が結実した瞬間だった。
「……負けましたよ」
隣から、静かな声が聞こえた。
ジャン=ピエールだ。彼は帽子を取り、整えられた髪を少しかき乱しながら、俺の方へと歩み寄ってきた。その表情からは、先ほどまでの傲慢さは消え、憑き物が落ちたような清々しさが見て取れた。
「貴方の料理を一口、味見させてもらいました。……悔しいですが、私の完敗です」
「俺の肉は、野蛮でしたか?」
俺が尋ねると、彼は自嘲気味に笑って首を振った。
「いいえ。野蛮などころか、極めて計算され尽くした『科学』でした。肉の厚み、焼き加減、タレの粘度、そして米との相性。全てが食べる者の快楽中枢を直接刺激するように設計されている。私のソースが貴族のための芸術だとするなら、貴方の料理は全人類のための生命賛歌だ」
ジャンは俺の手を強く握りしめた。
「勉強になりました、テオドール殿。王都に戻ったら、私も一から出汁の引き方を見直すつもりです。素材の声を聞くという、料理の原点を思い出させてくれました」
ライバルからの最大の賛辞だった。
俺たちは互いの健闘を称え合い、ガッチリと握手を交わした。その姿に、観客たちはさらに大きな拍手を送った。
表彰式が終わり、俺のもとにガランドがやってきた。その顔には、悪巧みをする子供のような満面の笑みが張り付いている。
「やったな、テオ! 賭けは俺の勝ちだ。これでギルドの連中からふんだくった金で、最高の酒が飲めるぞ!」
「賭けてたんですか……」
「そんなことより、約束だ。店舗の件、すでに手配してある。中央広場から一本入った好立地だ。元は倉庫だったが、改装すれば立派な店になる」
仕事が早い。さすがは元Sランク冒険者だ。
「ありがとうございます。最高の店にしますよ」
それから一ヶ月。
俺は目の回るような忙しさの中にいた。
店舗の改装、調理器具の特注、食材ルートの確保、そして従業員の教育。
店の名前はシンプルに『炭火焼肉・テオ』に決めた。この世界にはまだ「焼肉」という言葉がない。だからこそ、俺の名を冠して、新しい食文化の代名詞にするつもりだった。
そして迎えた開店初日。
店の前には、開店前から長蛇の列ができていた。その先頭には、当然のようにエレナの姿がある。
「待ちくたびれたぞテオ! 私の胃袋はもう限界だ!」
「はいはい、分かってるよ。一年間タダなんだから、店を潰さない程度にしてくれよ」
俺は苦笑しながら、真新しい暖簾を掲げた。
紺色の布に白く染め抜かれた「肉」の一文字。
それが風にはためいた瞬間、俺の新しい人生が本当の意味で始まった。
「いらっしゃいませ! 『炭火焼肉・テオ』、開店です!」
ドッと客がなだれ込んでくる。
店内には七輪が並び、換気のために開けた窓からは心地よい風が吹き抜ける。
すぐに、あちこちから「ジュウウウ」という肉の焼ける音と、歓声が上がり始めた。
「うおおお! やっぱりこの匂いだ!」
「タン塩、五人前追加!」
「こっちには特上ロースと、大盛りライスをくれ!」
厨房は戦場だった。
だが、それは俺が最も愛する戦場だ。
肉を切り、タレを揉み込み、皿に盛る。その一連の動作が、今は楽しくて仕方がない。
ふと客席を見ると、父のマルコが近所の農夫たちを連れて自慢げに肉を焼いていた。母のサラは厨房の裏方で洗い物を手伝ってくれている。
そしてホールでは、妹のアリアが元気に走り回っていた。
「はい、お待たせしました! ミスジのタレ焼きです! 焼きすぎないでくださいね!」
その笑顔が、客たちの食欲をさらに増進させているようだ。
俺は鉄板の上で踊る炎を見つめた。
前世で俺は、過労で倒れて死んだ。
だが、後悔はしていない。あの時の情熱があったからこそ、今ここに立てているのだから。
ただ、今回は違う。
俺には家族がいる。仲間がいる。そして、健康な体がある。
無理はしない。楽しみながら、長く、美味しく、この店を続けていく。
「店長、オーダー溜まってますよ!」
雇ったばかりの若い店員の叫び声で、俺は我に返った。
「おう、今やる! ジャンジャン持ってこい!」
俺は包丁を握り直した。
キルシェの町に、今日も幸福な煙が立ち上る。
それは、この世界に「焼肉」という革命が定着した狼煙でもあった。




