魔神
リナが老神官を連れてくると、まず、シンは老神官を見るなり爆笑。目尻に涙まで浮かべて、床を転げ回った。抱腹絶倒である。
カシラは、老神官が現れた途端に目を剥き、今にも飛びかからん勢いで跳ね起きようとした。が、傷に障ったのか顔を歪め、それでも敵意を剥き出しにして老神官を睨みつける。
リュウは、何ともいえない表情で無言を貫き。
リナは、
「シン、この人が会いたいって」
「ひ、や、いや、あ、あたまがっ……くくっ」
シンの爆笑は、とうに限界を超えていたらしい。息を整えることさえ、一苦労という有様である。
「こいつ、壊れたみたい。アンタも似たような有様だけど」
「はぁ、はぁ……えっと、壊れた、とは?」
シンが不思議そうに訊くのと、老神官が動いたのは同時だった。
変異による発達した筋肉が老神官の動きを加速させる。無駄に素早い動きでシンの眼前に躍り出ると、そのまま平伏。
後ろ手に縛られているせいで支えるものはなく、頭から床に激突した。
これまた無意味に発達した筋力のせいで、頭突きをくらった床は轟音と共に陥没。
シンに向けられたのは、老神官の頭部。消えさった灰色の髪。その哀れな成れの果て。
黒くすすけた跡地を見て、シンは絶句。
ぽかん、と呆けたように大口を開け──再び大爆笑。
「──ふう。汚染域をぶち抜いて空まで飛んだのか。すごいね。いくら変異しているとはいえ、普通なら丸焦げだ」
呪いともいえるような爆笑の連鎖から何とか解放され、シンは感心したようにそう口にした。
「身に余る御言葉! 卑小なる我が身に余りある栄誉! ああ、シン様! いと尊き我が聖光よ!」
陥没した床に顔をうずめたまま、老神官が喜びにむせび泣く。
「なるほどそうきたか。その発想はなかったな」
「言ったでしょ? 壊れてるって」
独り納得した様子のシンに、思わずリナは嘆息する。
「いや、壊れたわけじゃない。信仰の対象が代わったんですよ」
「信仰の対象? どういうこと?」
「太陽をご存じですか?」
タイヨー。
あの老神官が口にした内容にも、その単語があった。
リナは首を振る。
「空を覆う雲のその先、そこにある光です。あまねく世界を照らし、寒さから守り、あらゆる生命に力を授ける」
そんな話、聞いたこともない。
もし本当にそんなものが存在するとしたら、それこそ神ではないか。
「塔から噴き出る火。朝火と呼ばれるあれも、元を辿れば太陽に行き着く。太陽は塔信仰の祖……もっとも尊いものなんですよ」
「じゃあ、そのタイヨーってものを」
言いながら、目線を下へ落とす。
そこには、いまだ頭を下げたまま感涙する老神官。
「見たってこと? こいつが」
「そう。正確には僕が見せてあげた、と彼は思っているようです」
なるほど、と思った。
それで急に、態度が変わったのだ。
今まで信じてきたものの最高峰。それをいとも簡単に見せてくれた。老神官にとってシンは、聖なる光に導いてくれた真の神、といったところか。
それにしても、この変わりよう。あれだけ穢れだ何だと敵対していたくせに、虫のいい話である。
「これが信仰、ね。やっぱり理解できない」
「カラス区に宣教師はいない」
相容れない信仰という概念。
自分とは違う別の生き物を見ているような、そんな錯覚にさえ襲われそうになる。
嫌悪感すら抱いていたリナに、シンは小さく口を挟んだ。
「彼らを退け、信仰を拒絶した。そういう地区だからこそ、リナさんはそう思えるんですよ」
宣教師。
その役割をリナは知らない。知っているのは、塔信仰の祖ということだけ。
大昔に地区を訪れ、塔の信仰を広めていった、と父からそう聞いている。
「宣教師は塔の住人なんですよ」
「……え?」
淡々と告げられたシンの台詞に、思わず聞き返していた。
あまりに普通のことのように話すものだから、反応が遅れたほどだ。
見れば、リュウも驚愕に片目を見開き、食い入るようにシンの話を聞いていた。
それとは対象的に、カシラに驚いた様子はない。どういうことだ、と目だけで訴えるようにカシラを見つめるリナ。
すると、カシラは罰が悪そうにリナから視線をそらす。
知っていたのか、父は。
「まってよ。本当にいるの? 塔に人が」
そこではたと、気づく。
あの薬だって、塔の技術と言っていたではないか。
なら、そんな神のごとき術を扱う者もいる。いたとて不思議はない。
リナが気づくのを待っていたとでも言いたげに、シンは意味深な顔で頷く。
「そう。あれも塔の人間がつくったものです。昔くすねたものを塔周辺に埋めたんですよ。悪用されないように。それを掘り出すのが、僕の準備の一つ」
ふらり、と出ていったのはそういうわけだったのか。薬を取りに行っていた、と。
「神官位の人間が追ってくることはわかっていましたからね」
言いながら、せせら笑うように平伏する頭頂部を見下ろすシン。
「まさかこんな展開になるとはね。まあ、これはこれで面白いけど」
口元を歪め、怪しく輝く少年の瞳。
「そもそも神官に追われるって……アンタ一体、なにやったのよ」
とここにきて、リナはずっと疑問だったことをシンにぶつける。
「薬といい、戦い方といい、何者なのよアンタ」
「ちょうどいい。その二つは、こいつに語ってもらいましょう」
直後、
「そこの神官。頭を上げていいよ」
底冷えするかのような声で、シンがいった。
まるで、赦しを与える王のように。
「お、畏れ多いことです! 卑小なる我が身が神たる御身に無様な顔を見せるなどっ!」
「聞こえなかったか。上げろといった」
低く、腹の底に響くような声。
遠雷の如き声音に撃ち抜かれ、老神官がばっと顔をあげる。
「話せ。お前たちはなぜ、僕を追った」
老神官は、見るからにうろたえているようだった。
おそるおそる、といった具合に口を開く。が、震える唇からは呼気のみがもれ、肝心の言葉が出てこない。
「二度、言わせる気か」
わずかに怒気の孕んだシンの声。
たったそれだけで、老神官は震え上がった。再び顔を伏せ、観念したようにぽつりぽつり、と語り出す。
「は、ハトの教典において……黒髪は黒の信奉者。ふ、ふふ、不浄なる者、と。そう、教えられてきたのです」
老神官は、途切れ途切れになりながらも必死で言葉を紡いでいく。
──かつて、大戦があった。
塔は大地に住まう人々を守り、恵みを与え、時折地上に降り立っては、飢餓にあえぐ者たちに手を差し伸べたという。
そこへ、それを快く思わない者たちが襲いかかった。
彼らは降り立った神々を殺し、恵みを与えられた人々を殺戮した。それでは飽き足らず、塔を我が物とせん、と空へその魔の手を伸ばしたという。
塔の神々は怒り、空から大量の光を放ち、彼らを滅した。
塔を欲する悪逆たる思想と残虐性は、たった一人の魔神が広めたものだった。
漆黒の姿をした魔神は、己に従うものに力を分け与え、配下になった者たちは全身が黒く変色したという。
故に、黒髪は魔神の配下であり信奉者。塔を欲し、神に仇なす者である、と。
「し、信徒たちが、どこからともなく現れた黒髪の子供を見つけたと。捕らえようにも、じゃ、邪悪なる力で逃げおおせた、と」
語り終えるなり、老神官はさらに深く頭を下げた。
「お、お赦しを! どうか! 貴方様が真なる神だと見抜けなかった我が身をどうか!」
「くだらない」
たった一言。
冷たく切り捨てるような声。
シンの瞳から、光が消えていた。
その瞳には、ただ虚空が広がり、眼前の老神官を生命とすら思っていないような。そんな、無機質な表情で。
「僕だよ。お前のいう思想も、残虐性とやらも。広めたのは……僕だ」
シンが、一歩、前に出る。
「よく言えたもんだな。あれだけ殺しておいて」
全身から仄暗い炎が噴き上がる。
それは憎悪であり、憤怒であり、殺意であり。
「忘れない。永遠に忘れはしない。あの日の血を。涙を。別れを」
老神官の後頭部、そのすぐわきにシンの足が落とされた。
「一度は、諦めた。二度目は、見逃した。三度目は、ない」
これは、なにかよくないモノだ。
老神官の魔神という言葉を信じるわけではない。信じようとも思わない。
しかし、今のシンから流れ出る音は、異質だ。人ではない、なにか別のよくないモノだ。
風の詩を拒絶することはできない。黒く、そして酷く淀んだ音の連なりが、リナの鼓膜を撫でる。
「僕は、戻ってきたぞ」
それはもはや、老神官へ向けた言葉ではなかった。
どこかで生まれた殺意を、あるべきところへ還そうとしている。
黒く淀んだ音が、老神官の頭部にまとわりつく。
「シン! ダメッ!」
シンの、もう片方の足が持ち上がる。
「もうよせ、シン殿」
声と共に、シンの肩が掴まれる。
リュウだ。彼は、今や別人といっていい雰囲気の少年を静かに諭すように、
「お前に何があったのかは知らん。今の話だけでは、俺には何が何やらわからん、というのが正直なところだ」
だが、とリュウの視線が落とされる。老神官の頭上で止まったままの、シンの片足へと。
「それを踏み抜けば、お前を信じれなくなる。俺にとってお前は、一人の小さな恩人だ。魔神だとかいう馬鹿げたものではなく、な」
シンは、ゆっくりと片足を下ろした。
震える老神官に背を向け、
「ありがとう、リュウさん」
感謝だけを残し、部屋を出ていった。




