水道管を伝う声
私の住むアパートは古くて、どこか奇妙なアパートだった。築年数にして五十年は軽く超えているだろう。
天井からは常に嫌な湿気の匂いが漂い、壁のあちこちには薄気味悪いカビが浮いている。だが、一番の問題は、廊下の隅に置かれた公衆電話だ。
その公衆電話は、アパート共用の洗面所の水道管と隣り合うように設置されていた。誰が、なぜ、こんな場所に公衆電話を置いたのか、知る由もない。ただ、夜な夜な、その電話が奇妙な音を立てるのだ。
「タン、タン……」
それは受話器が揺れる音でも、ベルの音でもない。水道管の中から聞こえてくるような、硬質な水の音だった。
ある夜、いつものようにその音が聞こえてきたので、私は意を決して受話器を取ってみた。すると、水道管の中を流れる水の音に混じって、囁き声が聞こえてくる。
「あの男は、浮気してるんだ……」
それは、隣の部屋に住む、若い夫婦の妻の声だった。彼女は、日頃から夫の帰りが遅いことを不審に思っていたらしい。彼女の囁きは、水道管を伝って、私の耳元に届いていたのだ。
その日から、私は夜な夜な、その公衆電話を受話器に当てて過ごすようになった。水道管を伝って聞こえてくるのは、隣人たちの心の奥底に潜む怨念や秘密。
「わたしは、猫を虐待してる……」
それは、向かいの部屋に住む老婦人の声だった。彼女は、昼間は優しそうな顔をしているが、夜になると猫を虐待しているらしい。私は、彼女の囁きを聞きながら、ぞっとした。
そしてその日の夜、水道から出てくる水が、不気味な濁りを帯び始めた。それは、水道管を伝って聞こえてくる、隣人たちの悪意が、水道水を汚染していたのだ。
私は、恐ろしくなり、公衆電話の受話器をそっと置いた。しかし、水道管からは、まだ、囁き声が聞こえている。
「あいつの財布、盗んでやったよ……」
今度は、下の階に住む青年だった。彼は、つい先日、部屋で酔い潰れていた男の財布を盗んだことを、嬉々として告白している。私は、その声を聞きながら、水道水を流しっぱなしにしてしまった。
「あのうるさい隣人、ついに殺ったよ……」
次に聞こえてきたのは、別の部屋の男の声だった。彼は、いつも騒音で悩まされていた隣人を、ついに手にかけたらしい。彼は隣人を風呂場の浴槽に沈め、水道水を流して殺したのだという。
私は、その声を聞きながら、震え上がった。
私は、公衆電話の受話器をそっと置いた。しかし、水道管からは、まだ、囁き声が聞こえている。それは、私のことを指しているのだろうか。
「あの男は、秘密を知ってしまった……」
私は、慌てて水道の蛇口をひねり、汚れた水を眺めながら、静かに、そしてゆっくりと、自分の部屋に戻って鍵を閉めた。
その時、深夜だというのに、ドアを叩く音が聞こえた。
タン、タン……
静かに、そして規則的に。
私は、息を殺してドアに耳を当てた。向こう側にいるのは誰だろう。
水に流れる声の主だろうか。
ドアの向こうから、何かの気配がする。
それは、じっと、私がドアを開けるのを待っているようだった。