すれ違う気持ちのスープ
朝の光が差し込む店内、開店準備をしていたナナカの耳に、外からの声が聞こえてきた。
「やめてくれよ、こんなところに来るなんて…」
「だって、ここなら解決できるかもしれないじゃない!」
ベルの音とともに入ってきたのは、若いカップルだった。20代前半だろうか。女性は熱心な表情で、男性はどこか気乗りしない様子だ。
「いらっしゃいませ」ナナカが挨拶すると、女性が明るく答えた。
「こんにちは!ここが噂の記憶料理のお店ですね。予約したリサです」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
ナナカは二人を窓際のテーブルへと案内した。座った後も、二人の間には微妙な空気が流れている。
「本日はどのような記憶をお求めですか?」
リサが答える前に、男性がため息をついた。
「マルコ、お願いだから。せっかく来たんだから」リサは彼を諭すように言った。
「わかったよ…」渋々答えるマルコ。
リサは改めてナナカに向き直った。
「実は…私たち最近うまくいってないんです。一年前に付き合い始めた頃はとても幸せだったのに、今は…」
「僕に問題があるわけじゃない」マルコが言い訳するように言った。「ただ、忙しくて…」
「それで!」リサの声が少し強くなった。「私たちの関係の始まりの記憶を思い出せる料理を作ってもらいたいんです。あの頃の気持ちを思い出したくて」
「…」マルコは黙って窓の外を見ていた。
ナナカはマスターにこの状況を説明した。ラズルは複雑な表情で頷いた。
「これは難しいケースだな…二人の記憶と感情が、既にずれてしまっている」
「どうすればいいですか?」
「通常のアプローチでは不十分だろう。『共感の二重鍋』を使おう。二人の記憶を別々に抽出し、その差異を明らかにする料理だ」
ラズルはまず、二人の記憶を別々に集めることにした。リサからは「初めて会った日の喫茶店での記憶」、マルコからは「初めてプレゼントを贈った時の記憶」。二人の視点から見た関係の始まりだ。
「興味深い…」ラズルは二つの記憶の結晶を観察しながら言った。「同じ出来事を見ていても、二人の感じ方は大きく異なる。これが問題の一端かもしれない」
ラズルは特別な道具を使い、二つの鍋で別々のスープを作り始めた。一つは明るい赤色で、情熱とわくわくする気持ちに満ちている。もう一つは落ち着いた青色で、穏やかだが何かに臆するような感情が混ざっている。
「これが二人の本当の気持ちの色だ」
最後に、ラズルは二つのスープを特殊な器に注いだ。この器は真ん中に透明な壁があり、二つの液体が混ざらないようになっている。しかし、飲み口は共通で、二つの味が同時に口に広がるよう設計されていた。
「『二心のスープ』の完成だ」
ナナカがそのスープを運ぶと、二人は不思議そうに見つめた。
「これはどうやって飲むんですか?」リサが尋ねた。
「お二人で向かい合って、同時に飲んでください」ナナカは説明した。「そうすることで、お互いの気持ちを同時に味わうことができます」
二人は戸惑いながらも、指示通りにスープを飲み始めた。すると、不思議なことが起こった。二人の間に半透明の映像が浮かび上がり、同じ場面が二つの視点から映し出されたのだ。
喫茶店での初対面。リサの視点では、マルコは輝いて見え、言葉の一つ一つが特別に聞こえている。一方マルコの視点では、リサに興味はあるものの、何か別の心配事で気持ちが半分散らばっている様子が見えた。
「マルコ…あなた、あの時から心ここにいなかったの?」リサが驚いた声で言った。
「そんなことない。ただ…あの頃、父親の病気のことで頭がいっぱいだったんだ。言わなかったけど」
映像は次のシーンへと変わる。初めてのデート、初めてのキス…同じ出来事でも、二人の受け取り方の違いが鮮明に映し出されていく。
リサの涙がこぼれ落ちた。
「私、ずっと一方的だったのね。あなたの気持ちを理解しようとしてなかった…」
マルコも複雑な表情で言った。
「いや、僕こそ…君の気持ちの強さに応えられていなかった。言葉にしなかった自分が悪い」
スープを飲み終わる頃には、二人の間にあった壁が少し溶けたように見えた。二人は静かに向き合い、初めて本当の気持ちを話し始めた。
「実は最近、仕事のプレッシャーで余裕がなくて…」
「私も完璧を求めすぎてた。もっとあなたの気持ちに寄り添うべきだった…」
ナナカとラズルは少し離れたところから、二人の変化を見守っていた。
「マスター、二人は大丈夫でしょうか?」
「それは二人次第だ。料理にできるのは、本当の気持ちを見せることだけ。その先は彼ら自身が決めることだよ」
二人がレストランを出る頃には、以前よりも少し距離が縮まっていたように見えた。別れ際、リサが振り返ってナナカに言った。
「ありがとう。完全に解決したわけじゃないけど…少なくとも、お互いの本当の気持ちがわかりました」
その後、一月ほどして二人は再びレストランを訪れた。今度は二人とも笑顔で、手を繋いでいた。
「今日は『新たな始まりのパフェ』をください」リサが言った。「私たちの第二章の記念に」
マルコも微笑んで頷いた。「僕たち、もう一度やり直すことにしたんです。今度は互いをもっと理解して」
その日以降、メモリ・コルダータでは季節限定で「理解の二色スープ」が提供されるようになった。それは時に苦く、時に甘いが、いつも真実の味がする不思議なスープだった。