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失われた故郷の味

夕暮れ時、店の入り口に一人の旅人が現れた。埃まみれの旅装束に身を包み、疲れた様子で佇んでいる。

「いらっしゃいませ」ナナカが声をかけると、旅人はほっとしたように微笑んだ。

「やっと見つけた…記憶の料理を出す店は、ここですか?」

「はい、メモリ・コルダータへようこそ」

旅人は店内に入り、周囲を見回した。

「私は遠い国から来ました。噂を聞いて、何か月もかけてここを探していたのです」

ナナカは彼を窓際の席に案内した。旅人は大きなバッグから、古びた小さな布包みを取り出した。

「これは…私の故郷の土地の、ほんの少しです」

包みを開くと、少量の赤い土が現れた。

「私の故郷は、十年前に大災害で消滅しました。生き残ったのは私を含めたほんの数人…」

旅人の声には深い哀しみが混じっていた。

「私は逃げる時に、この土だけを持ち出しました。これが故郷の最後の形見です。そして…」

彼は言葉を詰まらせた。

「故郷の味を忘れてしまったのです。母が作ってくれた『赤土パン』の味を…それが私の最も大切な記憶なのに」

ナナカはその話にマスターに報告した。ラズルは旅人の持ってきた土を手に取り、じっと見つめた。

「これは『記憶の土』だ…場所の記憶が宿る特別な土だよ。滅びた土地のものなら、なおさら貴重だ」

「この土から料理を?」

「いや、直接は使わない。この土が持つ『場所の記憶』を抽出し、それを基に料理を再現する」

ラズルはまず、小さな魔法の鏡を用意した。彼はその上に赤い土を少量置き、古代語で呪文を唱えた。すると鏡の表面に微かな映像が浮かび上がった。

緑豊かな渓谷に広がる赤土の畑。そこで穀物を収穫する人々。小さな家々から立ち上る煙。子供たちの笑い声。

「これが彼の故郷か…」ラズルは静かに呟いた。「平和な村だったようだ」

次に彼は特別な釜を用意し、「記憶の水」と呼ばれる透明な液体を注いだ。そこに鏡から抽出した記憶を注ぎ込む。すると水面に赤土の村の情景が映し出された。

「さあ、この村の『本質』を見極めよう」

ラズルは水面を凝視した。するとそこに新たな映像が浮かび上がる。村の中央にある石窯。女性たちがそこでパンを焼いている。特別な赤い小麦を使い、独特の形に成形していくさま。

「わかった。これが『赤土パン』だ」

ラズルは記憶を参考に材料を集め始めた。通常の小麦粉に「記憶の花」のエキス、「望郷の涙」という透明な結晶、そして最後に旅人の持ってきた赤土から抽出した記憶のエッセンスを少量加えた。

「これで生地は準備完了だ。あとは焼き上げるだけだが…」

ラズルは思案顔で言った。

「このパンには、母親の愛情も必要だ。ナナカ、君の記憶の中に、母親の愛情に関するものはないかな?」

ナナカは首を横に振った。彼女には自分の過去の記憶がない。しかし…

「でも、私がこれまでに見た母親たちの記憶ならあります。第1話の女性や、他のお客様から…」

「それでいいだろう」

最後の仕上げに、ラズルはナナカが見た様々な「母の愛」の記憶を集め、パン生地に混ぜ込んだ。それを特別な石窯で焼き上げると、部屋中に懐かしい香りが広がった。

ナナカがそのパンを旅人の前に運ぶと、彼は既に涙でいっぱいの目でそれを見つめていた。

「この香り…まさに母のパンの香りだ…」

彼が恐る恐る一口かじると、彼の表情が一変した。驚きと懐かしさと喜びが入り混じった複雑な表情だ。

「これだ…これが母のパンの味…」

彼の周りに赤い光が広がり始め、空中に故郷の映像が浮かび上がった。村の広場、子供たちが走り回る姿、母親がパンを焼く様子…それは彼の記憶そのものだった。

「みんな…みんなが生きているように見える…」

旅人は映像の中の人々に手を伸ばし、触れようとした。もちろん触れることはできないが、その仕草には深い愛情が込められていた。

「母さん…ありがとう…」

彼はパンを一つ一つ味わいながら、故郷の記憶に浸った。映像は彼の記憶に合わせて変化し、彼の人生の断片を映し出していく。

パンを食べ終わると、映像はゆっくりと消えていった。旅人は深く息を吐くと、穏やかな表情でナナカを見た。

「ありがとう。十年間探し求めていた味に、やっと出会えました」

彼は残りの赤土をそっとテーブルに置いた。

「これをあなた方に託します。私の故郷の記憶を、このレストランで生かし続けてください」

帰り際、旅人は以前よりもずっと軽やかな足取りで店を後にした。

「故郷は失われても、記憶の中では永遠に生き続ける」彼の最後の言葉だった。

翌日から、メモリ・コルダータのメニューには「遥かなる故郷の赤土パン」という品が加わった。そして店の一角には、小さな植木鉢に赤土が盛られ、そこから一本の不思議な赤い麦が育ち始めていた。

「失われた土地の記憶が、新たな形で生まれ変わったのだ」マスターはそう言って、その芽を優しく撫でた。


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