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消えた味の記憶

「いらっしゃいませ、メモリ・コルダータへようこそ」

店の扉が開くと同時に、ナナカは身に着けたエプロンのしわを伸ばしながら、いつもの挨拶を口にした。朝日が優しく差し込む店内には、まだ誰もいない。シフト開始前の静かな時間だ。

メモリ・コルダータ——記憶の心臓、と呼ばれるこの不思議なレストランは、空に浮かぶ巨大な樹の枝に作られた小さな建物だった。外見は普通の木造建築だが、内部は常に微妙に変化している。天井から吊るされた色とりどりの結晶が、昨日よりも鮮やかに光っていることに気づいたナナカは、その一つをそっと指先で触れてみた。

「記憶の結晶が輝いているわね。今日は特別なお客様が来るのかしら」

細い指先を透き通る結晶に当てると、一瞬だけ何かの映像が脳裏に浮かんだ気がした。しかし、つかもうとすると霧のように消えてしまう。

「はぁ…やっぱり私の記憶はまだ戻ってこないね」

首を横に振り、ナナカは仕事に集中しようと決意を新たにした。いつものように白い布でテーブルを拭き、カトラリーを並べていく。そうしているうちに、厨房からいい匂いが漂ってきた。

「おはよう、ナナカ。今日も元気そうだね」

振り返ると、マスター・ラズルが魔法の鍋から立ち上る金色の蒸気を見つめながら立っていた。長身で痩せ型の老人は、常に品のある動きで料理を仕上げていく。かつて王国随一の錬金術師だったという彼の手には、今も独特の気品があった。

「おはようございます、マスター。今日は何を作っているんですか?」

「これはね、『朝露の記憶』という前菜だよ。森の中で目覚めた時の爽やかさを味わえる一品さ」

ラズルは微笑みながら小さな結晶を鍋に落とし込んだ。するとたちまち、鍋の中から明るい光が放たれ、香りがさらに豊かになった。

「マスター、どうして料理に記憶を入れることを思いついたんですか?」

何度か聞いた質問だったが、ナナカは自分の素性も、このレストランのことも、十分に理解できていなかった。半年前にここで目を覚ました時から、彼女の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。自分の名前さえ覚えていなかった彼女を、マスターが「ナナカ」と名付け、給仕として働かせてくれている。

「世界にはね、記憶を失った人も、忘れたい記憶に苦しむ人も、大切な思い出を取り戻したい人もいる。そんな人たちが求めるものを、私は料理という形で提供できると思ったんだ」

ラズルの瞳は遠くを見つめ、何かを懐かしむような表情を浮かべていた。

「記憶を料理にする魔法は古代から伝わる技術だけど、それを味わうことで心が癒されることもある。時には苦い思い出でも、違う形で受け入れられることもあるんだ」

ナナカは自分の前に広がるスープを見つめた。透明な琥珀色の液体の中に、小さな光の粒が浮かんでいる。一口すすると、朝露に濡れた草の匂い、鳥のさえずり、そして温かな陽の光が心に広がった。どこかで体験したような気もするが、それが自分の記憶なのか、料理に込められた誰かの記憶なのかはわからない。

「美味しい…でも、どこか切ないですね」

「そうだね。記憶には必ず喜びと悲しみが混ざっている。それが記憶の本質さ」

そのとき、店の入り口のベルが鳴り、最初の客が訪れた。背の高い男性が、少し不安そうな表情でレストランに足を踏み入れる。

「いらっしゃいませ」

ナナカが笑顔で挨拶すると、男性はほっとしたように微笑んだ。

「あの、ここが…記憶を食べられるレストランですか?」

「はい、メモリ・コルダータへようこそ。本日はどのような記憶をお求めですか?」

男性は少し考え込むように目を閉じた。

「私は…大切な人との思い出を、もう一度味わいたいんです」

ナナカは男性の瞳に浮かぶ哀しみに気づいたが、プロに振る舞うよう心がけた。

「かしこまりました。どうぞこちらへ」

窓際の席に男性を案内しながら、ナナカは今日も多くの物語が始まることを予感していた。このレストランには様々な理由を持つ客が訪れる。彼らの求める記憶を料理という形で提供することが、彼女の仕事だった。

そして、いつか自分自身の失われた記憶も見つけられるかもしれないという希望を胸に、ナナカは今日も給仕を務める。そこには、彼女が知らない、大いなる物語が待っているのだから。


繁忙期を過ぎた午後、店には穏やかな静けさが流れていた。ナナカは窓から差し込む黄金色の光を眺めながら、テーブルを拭いていた。その時、店の扉が静かに開いた。

「いらっしゃいませ」

入ってきたのは、年配の女性だった。灰色がかった髪をきちんとまとめ、質素ながらも品のある服を身につけている。だが、その表情には深い悲しみが浮かんでいた。

「こんにちは…ここが噂の、記憶の料理を出すレストランですか?」

「はい、メモリ・コルダータへようこそ」ナナカは明るく答えた。「どのようなお料理をお求めですか?」

女性は躊躇いながらも、静かに口を開いた。

「私は…娘が作ってくれた料理の味を、もう一度味わいたいのです」

その言葉に、ナナカは一瞬動きを止めた。女性の目には、既に涙が浮かんでいた。

「娘は…五年前に病で亡くなりました。彼女はとても料理上手で、特に彼女の作る『フィオレラ・スープ』は家族の大好物だったのです。でも私は…」

女性の声が震えた。

「私は、その味を忘れてしまったのです。どんなに思い出そうとしても、あの味が蘇らない…」

「お辛いお気持ち、お察しします」ナナカは優しく言った。「マスターにご相談してみましょう」

厨房に向かったナナカは、ラズルに状況を説明した。老錬金術師は静かに頷くと、思案顔で言った。

「失われた味の記憶か…難しいケースだね。通常、我々は客自身の記憶から料理を作り出す。だが、記憶そのものが曖昧になっている場合は…」

「どうすればいいんですか?」

「彼女の記憶を少し探る必要があるだろうね。ナナカ、『記憶の鍵』を持ってきてくれるかい?」

ラズルが指し示した棚から、ナナカは小さな銀の鍵を取り出した。それは握ると温かみを感じる不思議な道具だった。

「この鍵は、閉ざされた記憶を開くことができる。だがそれには、相手の信頼が必要だ」

客のテーブルに戻ったナナカは、女性にマスターの言葉を伝えた。

「記憶を少し探らせていただけますか?ご安心ください、深いところには触れません」

女性はためらいながらも同意した。ナナカが銀の鍵を女性の手のひらに置くと、かすかな光が二人を包んだ。ナナカの目の前に、ぼんやりとした映像が浮かび上がる。

台所に立つ若い女性。陽の光が降り注ぐ明るいキッチン。鍋からは優しい香りが立ち上っている。母親(今の客)が部屋に入ってくると、娘は振り返ってほほ笑む。

「ママ、今日はフィオレラ・スープを作ってるの。森で見つけたハーブを入れてみたから、いつもと少し違うかも」

映像はそこで途切れた。ナナカは目を開けると、女性が静かに涙を流しているのを見た。

「娘さんは、森のハーブを使っていたんですね」

「そうだったわ…すっかり忘れていました。娘は自然が大好きで、よく森に出かけては珍しい草花を持ち帰っていました」

ナナカはすぐにマスターに報告した。ラズルは深く頷くと、調理台に向かった。

「森のハーブか…それなら『森の記憶』を基調にしよう。そこに彼女の愛情の記憶を混ぜ合わせれば…」

ラズルは様々な魔法素材を調合し始めた。透明なスープに、緑色の草花、キラキラと光る水滴のような結晶を加えていく。そして最後に、ナナカの見た映像の記憶を少量すくい取り、料理に注ぎ込んだ。

一時間後、ナナカはこの日のために特別に用意された陶器のボウルにスープを注ぎ、女性の前に運んだ。

「お待たせしました。『思い出のフィオレラ・スープ』です」

ボウルからは、森の香りと、どこか懐かしい温かさが立ち上っていた。女性は恐る恐る一口すすった。

次の瞬間、彼女の顔に驚きの表情が広がり、そして大粒の涙があふれ出した。

「これ…これです!娘のスープの味…」

女性は感極まりながら言った。

「あの子がよく入れていた、少し苦みのあるハーブの味。そして最後に残る甘さ…どうしてこんな…」

「料理には作り手の想いが宿ります」ナナカは優しく説明した。「このスープには、お嬢さんがお母様に向けた愛情が込められているのではないでしょうか」

女性はしばらくスープをすすりながら、時折微笑み、時折涙を流した。やがて彼女は静かに言った。

「私はずっと、娘の味を忘れてしまったことを自分を責めていました。最後の思い出さえ大切にできない母親だと…」

「でも、本当に大切なのは味そのものではなく、娘さんとの思い出なのではないでしょうか」ナナカは言った。「その証拠に、たった今、その思い出が蘇りましたから」

女性は静かに頷いた。「あなたの言う通りです。娘は料理を通して愛情を伝えてくれていた。その思いさえ覚えていれば、味は少し違っても大丈夫なのかもしれません」

帰り際、女性はナナカの手を握り、こう言った。

「ありがとう。今日からは自分でも娘のスープを作ってみようと思います。完璧な再現はできないでしょうが、娘の思いを込めて作れば、それが一番の供養になるでしょう」

女性が去った後、ナナカは不思議な感情に包まれていた。料理を通じて繋がる記憶と想い。それは単なる味の再現ではなく、もっと深いものだったのだ。

マスター・ラズルは遠くからその様子を見ていた。

「料理には、科学では説明できない魔法がある」彼は静かに呟いた。「それは人の心を繋ぐ、最も原初的な魔法なのだよ」

その日以降、メモリ・コルダータの棚には、フィオレラという花が描かれた小さな陶器のボウルが飾られるようになった。ナナカはそれを見るたびに、失われた味の記憶が、新たな形で生まれ変わったことを思い出すのだった。


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