たとえこの身が蛇になろうとも
※「たとえその身が蛞蝓になろうとも」と「たとえその身が蛙になろうとも」の後日談です。
前作を読まれてから読むことをお勧めします。
俺には親がいない。事情があって捨てたのかもしれないが、そんなことは知ったことではない。
育ての親のような男がいるにはいたが、俺を物乞いのタネとして利用していただけだった。
八歳ぐらいの春にその男が死んだ。ひとりで生きられるほど、世の中は甘くはない。物乞いの仕方こそ教わってはいたが、子供だからと侮られて集めた金を奪われたこともあった。
生きるのにただ必死だった。どうして生きているのかもわからないのに、生きようとあがいていた。
あの日も、生きるために盗みを働いた。
得た金を奪われたばかりで、しかも何日も食べていなくて、奪い返すには体力も気力も足りていなかった。店先に並ぶ果物を手に取り走り出すという杜撰な計画は、すぐに店主にばれた。
そして追いかけられていた俺は、道を通る馬車に気づかなかった。
小さな衝撃と、大きな叫び声。擦りむいた手足の痛み――そのどれもが不釣り合いで、しばらく呆然とその場に座り込んだ。追いついた店主に腕を取られても、俺は動けずに、停止した馬車と、その前に転がる女の子を眺めていた。
「びっくりしたー!」
がばりと起き上がった女の子の姿に、その場にいた誰もが息を呑んだ。馬車を降りて駆け寄ろうとしていた御者。俺の腕を掴んでいた店主。道行く人々、そして俺もまた、目の前の光景に目を奪われていた。
「危ないから、飛び出したらだめだよ。大丈夫? けがはしてない?」
それはこっちの台詞だ。
「どうしたの?」
お嬢様と出会ったときのことを思い出していたら、今のお嬢様が顔を覗き込んできた。まさかあの後この家で働くことになり、お嬢様の世話役になるとは思いもしていなかった。
お嬢様の世話は、大変の一言に尽きる。常識知らずかつ常識外れなお嬢様の世話役は、俺が働くようになるまでに何人も辞めていった。
人としての常識が問われる仕事は、常識の中で生きていた人にとっては厳しく辛いものだったのだろう。
俺も何度辞めてやろうかと思ったものだ。それでも辞めなかったのは、ここを辞めても行くところがないということもあるが――
「お嬢様、それは?」
「蜥蜴よ」
お嬢様が次になにをしでかすのか、興味が尽きないせいだろう。
お嬢様はこれまで何匹も動物を拾ってきた。
犬や猫は当たり前で、鼠鳥牛虎兎猿猪馬羊と普通は拾わないような動物も捨て動物だと言い張って拾ってきた。
天神を頂点として、天神を支える四神と、さらにそれを支える十二の聖獣がいると言われている。
鼠、牛、虎、兎、竜、蛇、馬、羊、猿、鳥、犬、猪。お嬢様が拾ってきた動物の種類と、十二聖獣を照らし合わせて、後は竜と蛇が揃えば完璧だと考えたのはいつのことだっただろうか。
竜は神話上の生き物だ。精々拾ってきたとしても蜥蜴ぐらいだろうと高を括っていた。そしてお嬢様は蜥蜴と言い張るものを拾ってきた。
鱗に覆われた体に、丸い目、背中から生えた羽と頭に生えた角は、どこからどう見ても物語に出てくる竜だ。
「お嬢様、蜥蜴に角はありません」
「あら、そうなの?」
お嬢様が竜の目を覗き込むと「ギャウ」と高い声で鳴いた。
「でも竜って火を吹くものよ。この子は火は吹かないわ」
お嬢様の偏った知識に頭痛を覚えかけた瞬間、含みのある言い方に疑問を抱いた。
「火は……?」
「氷を吹いたわ」
「お嬢様、生物学を学びましょうか」
「勉強は嫌いよ」
頬を膨らませて拗ねるお嬢様に、呆れを通り越してどうでもよくなる。
お嬢様は今日も馬鹿だ。
敬愛しようにもしきれないお嬢様は、これまで三回馬車に轢かれたことがある。一度だけでもどうかと思うのに、三回もだ。
一回目は俺を助けるためで、三回目は犬を助けるためだった。二回目はなにを助けるためだったかと言うと、猪だ。もしかしたらあれは馬車を助けたのかもしれない。
猛進する猪と馬車の間に割り込んだのを見たときには、お嬢様の頭を疑ったものだ。
そして猪か、あるいは飛び込んできたお嬢様に驚いた馬が暴れて馬車が転倒し、馬車の中から這い出てきた少年にお嬢様が攫われた。
お嬢様の世話役になってからまだ二年しか経っていなかった俺は、怒涛の展開に呆然としていた、お嬢様が「やばい、どうしよう」という顔をしながら少年と一緒に走り去るのを見て我に返ったときには手遅れになっていた。
攫われたお嬢様はどこかの茶会に迷い込んだそうで、その後社交界嫌いの大層な初心になった。お嬢様が初心になったのはその後に受けた教育のせいだろう。四十八手すべてを教える必要はなかったのでは、と今でも思う。
「いやいや、全部ちゃんと教えないと駄目だろ。あいつのことだから、これはそういうのじゃないからとか言われたらあっさり信じるぞ」
そう言ったのは、次期当主でありお嬢様の兄のユリウス様だった。そもそもお嬢様がそういった教育を受けることになったのは、このユリウス様の日頃の行いが原因だ。
当時十八のユリウス様は社交場に出るようになってからの二年で、とても有名になっていた。盛んであると。
そしてその噂を聞いたお嬢様は、自分の兄が悪く言われている雰囲気を感じ取りはしたが、その意味までは理解していなかった。
そして純粋無垢に「夜を一緒にしているってどういうこと?」と聞いて、あますことなく教え込まれることになった。
弱冠十歳にして男女のあれこれを徹底的に叩きこまれたお嬢様は、異性が触れるだけで過剰に反応するようになった。赤くなったり青くなったりしながらぱたりと倒れる姿に、さすがに当主様もユリウス様も血相を変えた。
そしてなんとか家族なら平気程度には回復し、次に俺にお鉢が回ってきた。家族以外の者とも触れ合えるように、と。
「俺はお嬢様に拾われた身です。ペットみたいなものだと思えば平気でしょう?」
そうやって宥め、まずは指先から、次に手の平、と少しずつ触れる箇所を増やしていった。
「これはそういうのではありませんから、大丈夫ですよ」
奇しくもユリウス様の言っていた通り、お嬢様は簡単に言いくるめるられて「そういうのじゃないなら大丈夫!」と言えるまでに回復した。
幼いお嬢様も実に馬鹿だった。
さて、そんな馬鹿なお嬢様に婚約者ができたのは去年のこと。誠実な人柄で有名な公爵家の次期当主がお相手だった。
誠実すぎて一緒にいると息が詰まりそうだと評判のお相手は、名をアレクシスといった。
お嬢様はアレクシス様に会った瞬間に恋に落ち、一体どこをどう間違えたのか愛の言葉の代わりに辛辣な言葉を吐き出した。
お嬢様がどうしようもないほどの常識知らずだということは、屋敷で働く者なら誰もが知っている。
だがアレクシス様はそれを知らない。この婚約は長くは続かないだろうと予想していたのだが――ある日を境にお嬢様が自分の行いを正しはじめた。
そして着々と愛を育む二人を見ていて面白く思わないのは、まあしかたないことだろう。
なにしろお嬢様がアレクシス様の手を取れるようになるまで成長させたのは、他の誰でもない俺なのだから。油揚げを奪われたかのような気分にもなる。
馬車に轢かれても笑っていたお嬢様に一目惚れしたと話していたが、まともな感性ではありえない。まともじゃないお嬢様にはまともじゃない相手しか相応しくないと、そう神が定めたのかとすら思えてしまう。
まったく、実に馬鹿馬鹿しい話だ。
そして馬鹿馬鹿しいことに、俺は今、お嬢様の蜥蜴の里親探しに付き合っている。
さすがに竜を貰ってくれるようなところはないだろう。虎ですらギリギリだった。
聖獣の仲間だからとごり押して孤児院を経営している教会に預けたのは、今から三年も前のこと。
今では番虎として孤児院の子供たちと仲良くしているらしい。悪漢を退治してくれる虎は一種の観光名物と化し、教会への寄付も増えたとかでもの凄く感謝されている。
だがそれでも、やはり竜は無理だろう。蜥蜴と言い張るには角と羽が主張しすぎている。
どうやって押し付けるかと悩んで到着したのは、虎を預けた件の教会だ。虎という猛獣を押し付けた経緯があるので、ここならもう一度いけるかもしれないと考えてのことだ。
そうでなくても似たようなものを欲しがっている教会を紹介してくれるかもしれない。
「ミレイユ・シャルベール! 俺と結婚してほしい!」
たどり着いた教会で、何故かお嬢様が求婚されはじめた。
お嬢様はいつもどこからかトラブルを呼びこんでくるが、求婚されたのは初めてのことだ。初心なお嬢様のことだから倒れてしまわないかとはらはらしていたが、俺の胸中など知る由もない――知っていたとしても考慮しないお嬢様は、きょとんとしながらも首を横に振った。
「婚約者がいるので無理です」
「そこをなんとか!」
ばっさりと切り捨てられても引きさがらない姿勢に、感嘆の溜息が零れそうになる。
「六年前、身を挺して助けられてからというもの、君のことを忘れたことはなかった」
お嬢様がちらりと俺のほうを見る。これは、一体なんのことだと問いかけているのだろう。
お嬢様が助けたことがあるのは動物ぐらいなものだ。もしかしたらこの男は動物が人化したものなのかもしれない。馬鹿馬鹿しい考えを口にしたらお嬢様が信じてしまいそうなので、知りませんと首を振るだけに留めた。
六年前というと、お嬢様は十歳だ。あの当時起きた大きな事件は、猪を助けるために馬車に轢かれたのと、犬を助けるために川に飛び込んだのと、猫を助けるために木を登ったのと、鳥を助けるために時計台に侵入したのと――駄目だ、心当たりがありすぎる。
「ごめんなさい。覚えてないわ」
「いや、そんなはずはない。馬車と猪の間に挟まれたことを忘れられる人間がいるはずがない」
お嬢様のことだから猪のことは忘れているかもしれない。馬車に轢かれたことは、その後当主様に怒られたから覚えているはずだ。そう思いたい。
しかし、アレクシス様以外にも馬車に轢かれた現場を見て惚れる男がいるとは――世も末だ。
「父に願ったが君との婚約を結ぶことはできなかった。だからこうして、君に直接願い出ることにした」
諦めろよ。
「私にはアレクシス様がいるので間に合ってます」
「安心してくれ。君とアレクシスの婚約は俺がどうにこうにか、いい感じに頑張って解消させてみせる」
計画が杜撰すぎる。
さて、アレクシス様を呼び捨てにしたことや、色気のある顔立ちとか、まあその他諸々を加味した結果、この世も末な男の正体は第三王子なのだということがわかった。
この国には三人の王子と三人の王女がいる。第三王女のメロディ様がアレクシス様に懸想していたことは記憶に新しい。そして今は、第三王子がお嬢様に懸想している。
第三と付く者は呪われているのかもしれない。
「アレクシス様と私の婚約を解消させるですって? 冗談じゃないわ。もしもそんなことをしたら、毎夜枕元に立って恨みつらみを語って差し上げるわ」
「毎夜とは……積極的だな」
この王子はやばい男だ。お嬢様並に話が通じない。
やはりまともじゃないお嬢様にはまともじゃない男しか寄ってこないようだ。
「僭越ながら、口を挟む許可を出していただけますか?」
「ん? お前は?」
「彼はシリルよ。使用人」
「なるほど、君の使用人か。いいだろう、特別に許可してやる」
そう言いながらも王子の目はお嬢様に釘付けで、俺をちらりとも見ようとしない。
この傲岸不遜な王子をどうやって退散させるべきか。下手に追い払ってお嬢様にちょっかいをかけられるのも面白くないが、不敬だと弾じられるのも面白くない。
「たしか、お嬢様とのご婚約は陛下自ら却下されたとお聞きしました」
「ああそうだ。だが誰も相手がいないとなれば父も俺との婚約を認めざるを得ないだろう」
「現段階ではアレクシス様とお嬢様の間に婚約が結ばれております。この婚約を反故することは、たとえ殿下ほどのお人であろうと、無理でしょう」
そもそも相手がいなかったとしても、王はお嬢様を王族の一員にすることはないだろう。王と当主様は犬猿の仲だ。
王と当主様は同年代で――まあ色々とあったらしい。詳しいことは俺も知らない。
「そしてお嬢様はアレクシス様のお体が蛞蝓になろうとも愛しぬく所存です。婚約がなくなろうと、お嬢様のお気持ちは変わらないでしょう。無理を通して婚約を結べば、お嬢様はその身を崖に落とすことになるかと」
なにしろお嬢様はアレクシス様との婚約がなくなって、崖に飛びこんだと自ら言っていたほどだ。あのとき言っていた未来視がどうのという話は眉唾ものだが、お嬢様の気持ちはよくわかった。
お嬢様は馬車に轢かれようと、木から落下しようと傷一つ負わない。そういう異能持ちだ。
常識外れなお嬢様はその異能すら常識外れで、普通なら物を動かしたり、千里先を見通したりする程度のものなのに、お嬢様の祈りは天に届き、その体は悪意にひれ伏すことはない。まさに神に愛されていると言っても過言ではないほどだ。
もしもお嬢様自らが死を望んだらどうなるのか――神の怒りに触れてとんでもないことが起きても不思議ではない。
世界の平和のためにも、お嬢様の心は安らかでいてもらわないと困る。
「いや、しかし……ミレイユは俺を助けてくれた。その恩に報いたいと思うのは当然だろう」
「まず、お嬢様が殿下をお助けになられたという話を今日初めて聞きました」
お嬢様にとっては些細なことだ、という意味で言ったのだが、王子は別の意味に捉えたようで、嬉々としてお嬢様との出会いを語りはじめた。
あの日、王子は一人で街中を出歩いていたら、悪漢に攫われ馬車に押し込まれた。第三王子とされているが、王妃の子ではなく妾腹の子である王子には敵も多く、そういった輩の誰かが雇った悪漢だったのだろう。
行き着く先は死か幽閉か、と戦々恐々としていたときに、馬車が横転した。その衝撃で縄がほどけ、混乱している隙を縫って馬車を抜け出し、地面に転がっているお嬢様が助けてくれたのだと思ってそのまま一緒に逃げ出した、というのが事の顛末だったらしい。
なるほど、あのときお嬢様を攫ったのがこの王子だったのか。
あの後お嬢様を探すために四方を走り回り、ようやく見つけだしたお嬢様は社交界嫌いになり、さらには尋常じゃないほどの初心になった。
「そうですか。では陛下とシャルベール家当主に婚約を願い出てください。それが通ってからお嬢様に求婚を。それが順序というものでしょう」
犬猿の仲である王と当主様に挟まれて精神を摩耗してしまえばいい。
「結局なんだったのかしら」
意気揚々と帰っていった王子を見送ると、お嬢様がそんなことを言い出した。動物並な頭の持ち主であるお嬢様には難しい話だったようだ。
「そもそも、あれ、誰?」
自国の王子の顔すら知らないお嬢様は、これでも伯爵家の娘で、将来公爵家の妻になる女性だ。この国の将来は暗い。
「第三王子殿下ですよ。メロディ殿下に似ていらっしゃるでしょう?」
「ああ、そういえばそうね」
王譲りの髪の色と、王譲りの色気のある顔立ちは妾腹の子の第三王子にも受け継がれている。名乗られていないとはいえ気づかないのは、お嬢様はあの手の顔の区別がいまいちつかないせいだろう。
実に面白くない話だが、お嬢様の目にはアレクシス様以外はいんげんやもやしのように見えているそうだ。ひょろひょろしていてなよっちいということだろう。
幸い俺とユリウス様は区別がつくらしいので、矯正する気はない。
結局竜、ではなく蜥蜴の貰い手は見つからなかった。
「竜……いえ、蜥蜴ですよね。ええ、それは蜥蜴です」
遠い目をしていた神父の頭が爆発する前に立ち去ることにしたのは、賢明な判断だった。
虎を受け入れた神父でも、蜥蜴を受け入れるにはまともすぎた。まともじゃないお嬢様を知るまともでない人に押し付けてしまおうと、俺とお嬢様はアレクシス様の元を訪れることにした。
後ついでに、お嬢様に求婚した節穴の目をした王子のことも伝えておくべきだろう。
「……蜥蜴の飼育はしたことがないのだが」
アレクシス様はお嬢様の腕に抱えられた蜥蜴を見て、困ったように眉を下げた。つい先日、蛙を一夜預かったことのあるアレクシス様でも蜥蜴の飼育まではやっていないそうだ。それもそうだろう。
一体どこのお貴族様が好き好んで蜥蜴を飼うというのか。
「大丈夫です、アレクシス様。この子はとてもかしこいし、なんでも食べます。肉だろうと木の実だろうと、野菜も食べますし、お菓子だって食べます」
「お嬢様……いつからその蜥蜴を匿っていたんですか」
聞き捨てならない台詞に思わず咎めるような口調で話しかけると、お嬢様の目が明後日の方向を向いた。
そして遅れて出てきたのは「三日前」という、ありえない発言だった。
三日もの間どこに蜥蜴を隠していたのか。屋敷にはたくさんの使用人がいる。蜥蜴は抱えられるほど大きく、氷まで吐く。そうそう隠せる場所はない――唯一あるとすれば、あまり使用人が立ち寄ることのないお嬢様の寝室だけだ。
「まさかその蜥蜴と一緒に寝たりしていないでしょうね? いいですか、お嬢様。世の中の動物というものは雑菌も多く、触れた後は手洗いうがい、その他諸々、清潔にしないといけないんですよ。それをまさか、自室に招きいれて飼うだなんて、なにを考えているんですか」
「大丈夫よ。ちゃんと水浴びだってさせたし、手だって洗ったわ」
「水浴びの水はどうやって用意したんですか? 拾った初日だけ、とか馬鹿なことは言いませんよね」
「この子の吐いた氷を溶かしたものを使ったわ」
「その氷が清潔である保証がどこにあるんですか。ちゃんと井戸から汲み上げたばかりの水を使ってください」
どうりで最近お嬢様の部屋の絨毯が濡れていると思った。またなにか零したのかと思っていたが、まさか蜥蜴の水浴びをしていたとか、思うはずがない。
「ミレイユの家で飼うわけにはいかないのか?」
「お父様が動物嫌いなのよ」
正確には一度許すと際限なく拾ってきそうなので、最初から全面却下しているだけだ。唯一の例外は俺だ。
俺が拾われた日、お嬢様が馬車に轢かれた現場を見た世話役が辞職した。もうこれ以上ついていけませんと涙ながらに訴えられ、途方に暮れていた執事長と当主様が目をつけたのが、お嬢様に拾われ、常識もおぼつかなさそうな子供の俺だった。
まさしく渡りに船といったところだったのだろう。俺はとんとん拍子で雇われることになり、執事教育を三年間受けてからお嬢様の世話係に任命された。この三年の間にも、何人もの世話役がもう無理だと逃げ出していた。
執事教育を受けている最中に、その辺りの話を聞かせられたのはいい思い出だ。料理番の青年が辞めていった世話係の女性に恋心を抱いていたというのは、いらない情報だったが。
「たしかに動物の毛が苦手な者がいるのは事実だが、蜥蜴なら毛もないし、大人しい子なら許可を出してくれるのではないか? まずは君の父上に聞いてみるべきだろう」
「……そうですね、そうしてみます」
お嬢様がアレクシス様をじっと見つめて、頷いた。どうせ頭の中では真剣に考えているアレクシス様が素敵だとか、そんな馬鹿みたいなことを考えているのだろう。
アレクシス様の助言に従い当主様に直談判することにしたお嬢様は、屋敷に帰り着いて早々当主様の執務室に突撃した。お嬢様の頭には当主様の予定とかそういうものは入っていない。
「お父様、蜥蜴を飼ってもいい?」
「元の場所に捨ててきなさい」
書類に目を通しながら間髪入れずそう返した当主様だったが、ふと顔を上げ――硬直した。
お嬢様の腕の中にはギャウギャウと鳴く大きな蜥蜴がいる。お嬢様が蜥蜴と言い張っているのであくまでも蜥蜴だが、その見た目は竜と言っても差し支えない。
少々常識から外れた蜥蜴の登場に、あらゆる修羅場を潜り抜けた猛者である当主様も言葉を失っているようだった。
「……少し待て」
当主様はそう言って、執務室を出ていった。今頃は執事長と蜥蜴をどうするか相談しているのだろう。蜥蜴を飼うためには世話役を決めないといけない。
常識外れの蜥蜴を世話できる人物は誰か、そもそも飼うべきなのかを話し合っているはずだ。
待つこと数十分。ようやく戻られた当主様は眉間に皺を寄せながら、そっと蜥蜴の頭を撫でた。
「いいだろう。名は決めてあるのか」
「シリル二号なんてどうかしら」
「お嬢様、それはやめてください」
俺の名前はお嬢様にもらったものだ。だから俺の名前をどうするかはお嬢様次第だが、さすがに蜥蜴に二号はやめてもらいたい。
お嬢様の頭は動物並なので、そのうち二号が取り払われて俺も蜥蜴もシリルと呼ぶようになるのが目に見えている。
「じゃあラース。昨日読んだ本に出てた猫の名前よ」
蜥蜴に猫とは実にお嬢様らしい決め方だ。俺の名前も本に出ていた犬の名前だと聞かされたときは、さすが奇想天外なお嬢様だと敬服したものだ。
「そうか。ではラースの世話はシリルに任せることにしよう」
最終的に蜥蜴を押し付けられることになったのは俺だった。
ラースがお嬢様のペットになってから数日後、王子の騒動が舞い込んできた。詳しく話すと、王子は本当に王に婚約を申し出て却下され、ならばと当主様に婚約を申し込みに来た。
突然の王子の来訪にこれまで以上に当主様の眉間の皺が深くなっている。
お嬢様が生まれる前の当主様の眉間がどのようなものだったのか、少し興味が湧いた。
「……それで、私の娘と婚約したい、と?」
「はい。彼女には命を救われました。俺の一生をかけて彼女を幸せにします」
俺は当主様の座る長椅子の後ろに立ち、事の成り行きを見守っている。お嬢様はラースと遊んでいることだろう。
「私の娘は類まれな常識外れです。それにすでに婚約者のいる身。いかに殿下の申し出であろうと、受け入れるわけにはいきません」
「ご安心ください。王はあなたからの承諾を得られれば認めると言ってくださいました。さすればアレクシスとの婚約も即日解消となるはずです」
ぴくり、と当主様の頬が引きつった。
ああ、これはきっと、面倒なことを押し付けやがってと王に対する怨嗟の言葉を胸に秘めているのだろう。
「いやしかし、娘とアレクシス殿は心を通わせております。そこに殿下の入る余地などございません」
「恋などというものは麻疹のようなもの。アレクシスは実直な男です。恋に浮かれている間はともかくとして、結婚した後は退屈な男となることでしょう。後悔することになってからでは遅いと、そう思いませんか」
「娘を持つ親としては実直な男にこそ娘を預けたいものです」
「面白味のない男に嫁ぎ、退屈な人生を送る羽目になってもいいと、本気でそうおっしゃるおつもりですか」
アレクシス様が面白味のない男とは――いや、王子の知るアレクシス様は面白味のない男なのだろう。真面目で実直で誠実なことは間違いないのだから。
だが、アレクシス様はまともじゃない。
「彼は娘が蛙になろうと愛すると、そう誓ってくれました。そのような男だからこそ、娘を娶っていただきたいのですよ」
「……ならば俺も誓いますよ」
当主様の視線が俺に向けられ、てはいないが気配が俺に向いている。当主様は王子の真意を見極めるかのように、ただじっと前を見据えていた。
さて、第三者にもほどがある俺がこの場に残されたのはこのときのためだ。
「実はつい先ほどお嬢様が蛙になりまして」
「――は?」
王子の目が泳いだ。そしてぽかんと開けられた口に笑いがこみ上げそうになるのを必死で抑える。
差し出した手には、蛙が一匹。王子の顔が見事に引きつっている。
「戻す方法を探そうかと思っているので、一夜ほど預かっていただけますか?」
「いや、しかし、人が蛙になるなどと、そんな話は聞いたことがない」
王子がお嬢様に求婚してからの数日間、俺は手をこまねいて待っていたわけではない。ユリウス様と一緒に夜会に参加し、王子に関する情報を集めていた。
その中でも一番役に立ったのは、王子の妹であるメロディ殿下だった。
アレクシス様に惚れ、ちょっかいをかけていたメロディ殿下だが、お嬢様に打ち負かされてからというもの夜会の参加率が上がっていた。
「ミレイユが羨むような相手を見つけて、アレクシスが惜しがるような女になってやるわ!」
息巻く姿は、後二十ほど年を取って、なおかつ未亡人になればユリウス様好みになりそうなぐらいには魅力的だった。
そのメロディ殿下から仕入れたのは、王子の苦手なものだ。
王子は爬虫類などの体毛のない生き物が嫌いで、触るのも見るのも駄目なのだとメロディ殿下は語っていた。兄の恋路を応援しないのかと聞いたら「ミレイユが義姉になるだなんて冗談じゃないわ」と全力で俺の手助けをしてくれた。
「それで、殿下? どうしますか?」
鋭い当主様の視線に晒され、見る見る青褪めた王子に非はない。婚約者のいる相手に求婚するとか、そういった不作法はあるが、苦手なものはどうしようもない。
アレクシス様が蛙が苦手じゃなかったというだけで、もしもお嬢様が羽虫や芋虫、毛虫に変わっていたら話は違ったかもしれない――と思えないのがアレクシス様の恐ろしいところだ。
両生類に負けた王子は泣く泣く帰っていった。王子が来ることはもうないだろう。
俺もお嬢様の元に戻ることにしよう。
「まったく、お前は蛇のような奴だな」
当主様が疲れた顔で長椅子に深く腰かけ、溜息を零した。
「蛙は食べませんよ」
「そういう意味ではない。お前が夜会でなにをしたのか聞いたぞ」
俺が夜会でしたのは情報収集と、噂好きの女性に王子が婚約者を求めているらしいと話しただけだ。
お嬢様とアレクシス様が婚約してからすでに一年が過ぎているのにどうして今更王子が現れたのかというと、お嬢様と婚約したいと言い出した王子の頭を冷やさせるために、王が二年ほどの留学を命じたからだった。
そして戻ってきたのがつい先日のことで、王子にはこれと決まった相手がいない。
お嬢様のような常識外れではないご令嬢と結ばれてほしいと、王子の未来を思ってその女性に話したのだが、さすがは噂好きの女性。王子の噂は瞬く間に広がった。
きっと今晩ぐらいから令嬢に囲まれるようになるだろう。お嬢様に近づく隙がなくなるぐらいには。
「そもそも、その蛙はどこから持ってきた」
「丁度よく見つけたものを持ってきただけですよ」
「ミレイユの寝室に蛙がいたことがあったな」
「そうらしいですね」
お嬢様が蛙になったと大騒ぎしていたらしいが、そのとき俺は丁度お嬢様と出かけていたので、詳しいことは知らない。
ただアレクシス様が蛙を大切にしていたらしいことは聞いた。
「……もう行け」
「かしこまりました」
深く頭を下げ、退室する。この時間だとお嬢様は庭で遊んでいるはずだ。
先に俺のために用意された部屋に寄って、押し入れの中に入っている水槽に蛙を戻した。水槽の中には蛙が三匹。残る一匹を使う日が来ないことを祈るばかりだ。
「さすがに当主様にはばれるか」
だがそれでも見逃されたのは、当主様も同じことを考えているからだろう。
たかが蛙になる程度のことでうろたえていては、お嬢様の相手は務まらない。蜥蜴と言い張るお嬢様に合わせるだけの度量も必要になる。
お嬢様の相手をするのがどれほど大変か、俺も当主様もよく知っている。
将来的に駄目になるのなら、最初から駄目になってしまえばいいと思うのは当然のことだろう。
馬鹿なお嬢様でも、俺にとっては敬愛しすぎてもはやよくわからなくなるようなお嬢様なのだから。
「しかし、俺が蛇ねぇ」
お嬢様の拾ってきた動物は、これで残すところ蛇だけになった。
もしかしたら俺が蛇の座を奪ってしまったのかもしれない。
だから王子は本能的に俺を見ることを避けたのかもしれない。
なんて、そんな馬鹿馬鹿しいことを考えながら庭に着くと、お嬢様が嬉々とした表情でラースを抱いていた。
「シリル! ラースが火を吹いたわ」
やっぱり竜じゃねぇか。
それでも蜥蜴と言い張るお嬢様は本当に馬鹿で阿呆で、可愛い方だ。
もしも俺が人から蛇に変わってしまっても、お嬢様の側から離れることはないだろう。