会話
「馬鹿なの?いや、カバだよ。バカちん通り越してバカバちんだわ」
いつの間にか意識が無くなってから翌朝、有り得ないくらい寝た後ようやく目が覚めて早々この台詞である。いつもと同じ筈なのに、より感情の抜け落ちた無表情で、更に一切瞬きをしないという、人形みたいに綺麗な顔が際立つ恐ろしい形相の望月から流れる様に出た言葉。その顔のまま詰め寄られるのには内心恐怖を感じて、知らずつつと顬に冷や汗が垂れた。でも、ちょっと珍妙な言葉使いをする望月につい現実逃避も込めて突っ込みたくなってしまい、遠慮がちに口を開いてしまったのは完全に失敗だったと思う。
「…ちょっと、言ってる意味が」
「口答えしない!!そうだよ!オカーサンはバカバちんだ!」
「ばかばちんって、なんだ?」
「希ちゃん語でいう馬鹿の最上級だよー!」
「なんだそら。真野、信じるなよ。ウソだから」
「え…うそ、は、だめだ。輝和、うそは痛いんだ。だから…」
「あーもう!翔ちゃん、わかったよー。嘘はつかないように善処するね。でもこう言うのは『冗談』って言うんだよ!人を楽しめるための芸みたいなものなのー!翔ちゃんは素直過ぎるのがちょっと心配だよねぇ」
「そりゃあ俺も同感ですな」
「素直といえばオカーサンもだけどねー。こっちも冗談通じないから、ちょっとした事で直ぐ落ち込んじゃうし、話す時探り探りになりがちでさぁ」
「それもまあ同意するけど…」
「ん?けど?」
「ホレ、こっち」
「……」
「あ」
坂上達と話す時に気を使わせてしまっていたのだという新事実を思わぬ所で聞くことになり、自爆する結果になった。話を聞く内に自分が情けないやら悲しいやら申し訳ないやら、そんな気持ちになって項垂れていると、望月が親指で指した先を辿った坂上が顔を青くして平謝りしてきた。何故俺にそんなことをする必要があるのか。寧ろ俺の方が謝らなければいけない立場なのに、また坂上に気を使わせてしまった。
間延びした柔らかい話し方である坂上の無自覚な毒は、意外に一直線で突き刺さるのだ、という新たな気付きたくなかった発見に衝撃を受け、どんよりとした空気を纏った辛気臭い俺を見た望月が、そんな事より、と言葉を発っする。空気は読むものでは無い、吸うものだと言わんばかりにバッサリ切り捨てた望月は、腕を組んでベッドの柱に背中を預けた格好で坂上を横目で見た。
「学校のお時間ダゼ」
「……もう!またじゃん!」
「でも、しょうがない」
「いってらー」
きーとハンカチでも噛みそうな恨みの目を壁に掛けられた時計に向けた坂上は、最後に潤んだ目で俺を睨むと、「絶対、無理しちゃダメだからね!あと帰ってから続きするから」と言い捨てて、また慌ただしく真野と一緒に登校して行った。続きとはさっきの平謝りのことだろうか。散々言っていたのにまだ足りないのかと思ったが、そもそも謝る必要も無いのにと思い直して小さく息を漏らした。
昨日と同じ様にヒラヒラ手を振っていた望月は、その手をそのまま口元に当て、欠伸を受け止めさせると、ゆっくりと梯子に手を掛け上り始めた。その際になぜか目が合ったが、小首を傾げるとすぐに逸らして上りきった。上からギシリと重さが掛かった音が聞こえる。
何か言いたいことがあったんだろうか。思い当たる節が無くて傾げた首を元に戻せなかったが、何も言わなかったということは大したことではないのかもしれない。と余計な詮索を瞼を下ろすと共に打ち切った。考えたところで自分に分かるとは思えないし、そもそも望月は不思議な男だから、何を考えているのか分からない時の方が多い。
それより目を瞑ってみたはいいが、やはり十二分に寝たこの体はもう睡眠を欲していないらしいと分かって、少し身体を起こそうと目を開けた。
ら、目が合った。
「熱が、あるよな」
「……ちょっと、眠れないから起き上がろうと…」
「昨日のはオッカサンの根暗さ甘く見てたオレの失態だった。でもさ、同じ轍は踏まない主義なんだよね」
よく夜更かしをするせいか、目元に隈のある望月が上から見下ろしてくるその様は、謎のホラー要素とともに威圧感を感じさせた。じとっとしたその視線に当てられて背中を汗が伝う。まだ目を開けただけなのに、何故気づかれたのだろうか。ていうか根暗って言われたのか、今。聞き逃さなかったからな。それを突っ込む余裕が今はないのが悔しい。
身体の毛穴という毛穴から汗が噴き出しているのを感じるのは、何もその視線だけが理由ではない。望月が言ったように、今の俺はまだ熱が下がっていないからだ。とは言っても、昨日と比べそう高い訳ではなく、寝た事で近頃の疲労も快復し、万全に近いくらいのただの微熱であって、やはり横になったきりでは暇だし身体が疼く。
どうしてもだめか、と怖々刺さる視線を見返していると、数秒後にそれはもう大きくため息をついた望月がのそりと動いて梯子を伝い下りて来た。
「じゃあ、オシャベリするだけだよ」
望月がよっこいしょと歳がいった男のような言葉を零しながらベットの足元の方に座り込むのに合わせて、自分の身体も上半身だけ起こす。トレードマークのヘッドフォンを首にかけ、猫背になっている姿勢はだらしないが、それが望月なのだともう分かっているから逆に安心する。余計な緊張感なんて覚えさせる間も無く、そんな姿勢なのに頼れる雰囲気を感じさせるから、望月は不思議なのだ。
「お喋りか」
「そういや、あんまりオッカサンの話聞いたこと無かったっけ。オッカサンの趣味は?」
「いきなりだな。えっと、趣味は…あえて言うなら料理、かな」
「ああ、オレ達も餌付けされてるもんな」
「餌付けって、そんなつもりは無いが」
「分かってるって。じゃあさ、兄弟いる?」
「兄と弟が、一人ずつだ」
「あ、そか。特別クラスの女神様が兄ちゃんなんでしょ。似てなさすぎてチョービックリしたわ」
「ビックリしたって顔じゃなさそうけどな…望月はどうなんだ?」
「オレ?んーとね、兄ちゃんが三人と姉ちゃんが二人と、双子の妹と弟がいる」
「え、そんなに!?」
「つっても、歳離れてるしあんま話さんけどね」
「そうなのか」
「ところで、オッカサンはその兄弟も餌付けしてんの?」
「だから餌付けって…」
そんな他愛も無い話は案外長く続いた。いつもは坂上や真野と話している時に横から口を挟む程度で、望月と面と向かってこんな風に話すことは無かったから、こう思うのも図々しいかもしれないが、すごく嬉しい。
望月は無表情で反応も薄いが、言葉の言い回しが聞き慣れなくて面白いし、存外聞き上手なようで、口下手の自覚がある俺でもスラスラと言葉が出てきて楽しい。ちょこちょこと望月自身の話も挟んでくれて、それを知る度にまた心が暖かい気分になった。
暫くそうして『お喋り』をしていたら、ふと時計を見た望月が話す口を止めた。
「どうした?」
そう聞きながら俺も時計に目をやると、坂上達の登校を見送ってから随分時間が経っていたようで、あと数分もすれば短針と長針が上下に背を向け合うだろう時間になっていた。
「やっべ、忘れてた」
急いでいる人間が言う台詞の割にやっぱり無表情の望月は、後頭部を軽く手で掻きながら俺の方に顔を戻す。んーと唸り声のようなものを上げて目を瞑っているのは、忘れていた事の詳細を思い出そうとしているのだろうか。
「あんさ、オッカサンを連れて来てくれたでっけー恩人サンに、伝言頼まれてたんだわ。えっとー『約束の日の時間は変更だ。昼に首洗って待ってろ』だって。忘れてた身で聞きづらいけども、なんの話なん?果たし状?」
関原に寄せているのか若干低い声で伝言の部分を話す、忘れていた事を全く申し訳ないと思っているようには見えない望月。だが、そこを突っ込む余裕が俺には無かった。冗談めかした望月の言い方ではなく、今の言葉の内容の方に酷く動揺したからだ。
首を洗って待ってろっていう言い回しも気になるが、それを指摘するだけの余裕も今持ち合わせていない。ちょっと待って欲しい。誰に言ってるのかって話だが、いやそう言わず、ちょっと待ってくれ頼む。心の中が荒れ狂って治まらない。
約束の日って、今日なんだけど。
いや、起きた時自分のベットの上だし、外に出たことは怒られたけど関原のこととか何にも言ってなかったし、意識が朦朧としてたのもあって関原と会ったのは夢だったんだとばかり思っていたんだ。望月が呑気な声音でおーいと呼びかけているのが聞こえるが、悪い。返事をする余裕がない。
大体にして、昨日の時点で準備が整っていない状態だったことに焦っていたはずなのに、何を寝ぼけていたんだ俺は。良く寝たからすっきり目覚められたとか思っている場合じゃないふざけてるのか俺の馬鹿。新品の土鍋とお高めの米と塩を買って『最高の塩むすび』を作る予定だったのに!あと数十分したら、関原の言う約束を変更した時間になってしまうじゃないか。
ていうか何で変更したんだ。約束の日のことはもちろん覚えていたさ。だが、夕方の予定だったから諦め悪く隙を見て買い物に行けばギリギリ間に合うと思っての算段があった。どうしようと考えても時間は戻ってくれなければ待ってもくれない。
ぐるぐる働かせる頭の中で、不意にある記憶が過った。なぜ関原が時間を変更して昼にしたのか。俺はその答えをどこかで知っている気がした。深呼吸し、集中して引っかかった記憶を頭の奥底から捻り出す。そこ記憶は昨日のものだった、筈だ。
『だからっ……ぼっちは寂しいんだろ』
ああ、俺みたいな強面で大柄な男が思うのも気持ち悪いだろうけど、そうだ。
『俺がいりゃあぼっちじゃねえだろっつったんだよ』
ああ、これは俺の妄想だな。実際の言葉じゃなくてこんな、俺にとって都合がいい幻想の言葉を先に思い出すなんて、どこまで憐れで情けないんだろうかこの頭は。そういうのでは無く、しっかり事実に基づいた記憶を思い出して欲しいものだ。よし、もう一回。
『すごい、うれしい。ありがとう関原。おれと出会ってくれて、ほんとうにありがとう。…ほんとにぜんぶ、す……』
ちょちょちょちょっと待て?動揺しすぎて言葉がおかしくなってしまったが、今の台詞の方が確実におかしい。これ、俺の口から出て俺が発音した言葉なのか。というかさっきから誰に言っているのかもわからない誰かを呼び止める言葉が多いな。いやそんなことはどうでも良くて、なんだ、これ。こんなの俺の妄想でも出てこない。
出てくるはずが無い。相手に自分の事を受け入れてもらうという、関原の台詞の妄想なら辛うじて理解できるが、自分が誰かに本音を吐露するなんて考えたことも無いのだから。俺の記憶を保存する脳の部位は、いよいよ故障してしまったのだろうか。どれが妄想でどれが実際あったことなのか判別がつかなくて混乱する。
「オッカサンはさ。その恩人サンの事好きなんでしょ」
一瞬、世界が終わったのかと思った。それくらい突然告げられたその言葉は衝撃的で驚愕して、疑問符もつけないで確信したように言う望月と目を合わせられないほど、恐ろしかった。動揺して目の焦点が合わないまま、隠し通さなくては、誤魔化さなくてはという焦りで、友達としてだと在り来りな事を言おうと口を開いたら、それを予知していたかのように「もちろん恋愛的な意味で」と望月が言葉を付け加えた。
閉じようとしてもヒクつくだけで、間抜けに開いた口が塞がらない。なぜ、どうして、いつから。そんな言葉がグルグル脳内を飛び回って収拾がつかない。何かを言おうとしている様な、でも何をいえばいいのか分からない口がはくはくと開閉する。
否定の無い無言は肯定に等しかったが、混乱を窮めた自分の頭では処理しきれていなかった。俺の狼狽え様を後目に悠然と足を前後に揺らしている望月はやっぱり無表情で、何を考えているのか窺えない。
「オッカサンが男を恋愛対象としてるってのも、だいぶ前から知ってたんだよネ」
「………あの、信じて貰えないかも、知れないが……おれ、は…お前達にそんな…そういう気持ちを向ける事は、これまで無かったし、これから先も絶対に無いと約束出来る。だから、他の二人には」
「黙ってて欲しい、って?」
「…頼む」
見苦しくも、体の上にかかった毛布を退かして正座し、頭を垂れた。望月は俺が誰にも言えなかった、知られたくなかった秘密を、一体どこまで知っているんだろう。心臓が耳元で鳴っているみたいに煩い。しかし、まだ頭もごちゃごちゃと片付かないままなのに、何故か心は妙に冴えていた。諦念、絶望、虚無、悲嘆、色々な仄暗い感情が胸の底に沈殿していく。無遠慮にかき混ぜられていたそれ等が静かに沈み、静止していくように。
望月や坂上、真野を不快にさせるような感情を持つことは確実にないと断言出来る。ただ、我儘で自分勝手な心は、嫌われたくない、今までと同じ様に過ごしたいと叫んで黙らなかった。望月に知られてしまって、結果離れられてしまったとしても、せめて全てを持っていかれたくなかった。なんて、情けないのか。分かっていても、一人になるのが怖かった。
震えそうになる手を強く握りしめることで誤魔化す。暫く経ち、目の前から重く長いため息が聞こえた。気持ち悪い、男のくせに、ここから出ていけ、何と言われるだろうか。どんな事を言われようと仕方が無い。甘んじて受け入れるつもりで黙っていると、頭にぽすりと何かが乗る感触がした。
「あ~っとさ、ビビらせるつもりはなかったんだけど。…分かった。あの二人には言わないでおく。てか、なんか脅しみたいになってるけど、オレは知ってるから一人で勝手に悩まんでねって言いたかっただけだから。…だぁあ!慣れてないんだよこういうの」
あああとうめき声のようなものを上げながら乱暴に俺の頭をかき乱され、頭が揺れる。少し痛いが、予想外のことに呆然としている俺にはその痛みさえ遠く感じた。
これが、人生で初めて自分に相談相手ができた瞬間だった。
じわじわとその言葉の意味を理解していくのに連れ、口元が緩んでいくのが分かって焦る。急いで口に手をやり隠すと、目の前の美少年然りとした青年は手の動きを止めて俺の顔を覗き込んでくるから、慌てて反対側に逸らした。
しかし何故か心の内は読まれてしまったらしく、珍しく笑みを口唇に象った望月が至極楽しそうな声音で「どしたオッカサン。具合悪いの?」なんて言うものだから、絶対に本心ではない、からかわれていると理解していながらも口の緩みは治りそうになかった。
「で、さっきの話だけど、約束って?」
「あ…!そうだった。関原…俺を運んでくれた奴に塩おにぎりを作る約束をしていたんだ。今日はその約束の日だったんだが、変更って事は…もう時間が無い」
「塩おにぎりて…突っ込みたいところだけど、まあいいや。あれだったら、オレが手伝ったげようか?」
「え…外に出て良いのか?」
「協力するって言ったばっかだし。感謝し給えヨ、オレがこんなに親切なの一生に一度あるかないかだかんね」
「そんなに稀なのか。じゃあ、俺は運が良かったんだな。もちろん感謝する。ありがとう、望月」
「そんな正直に言われるとちょっと…」
「え…引いた、か?」
「いんやー、べーつにー?」
微妙というか、なんだか変な顔をしていた望月が、それを隠すようにベッドから立ち上がって伸びをする。会話の流れで不安に感じる言い方があったが、それについて尋ねた言葉の返しに嫌がっている様子は感じられなかったので、取り敢えず安心していいんだろう。昨日のことがあって厳重に監視を言い渡されていた望月が折角見逃すと言ってくれたんだし、何より今は時間が迫っているのだ。
そこで、ふと嫌な予感がしながらも、先に行った望月に続いて、共同の寝室を出て居間に入る。なんだろうか。一度塩おにぎりの作り方を調べている時に気付いた重大な失態があった気がするんだが…あ。
「んで?どうすんの?」
「…その、実は」
「え?何その言い淀む感じ、嫌な予感しかしないんですけど」
「俺…塩おにぎり作ったことないんだ」
「……えーっとぉー…へー、そうなんだ」
そうだった。とんでもなく重大な事をたった今思い出してしまった。俺は一度も食べたことがない初めて作る料理を関原に提供しようとしていたのか、この馬鹿たれ。俺はどうしてこう間抜けなのか、自分の事なのに呆れを通り越してため息すら出ない。というより今はそんなことをしている時間もないのだから、もたもたしていないで早く作らなければいけないのに。
後から後から出てくる自責の念に、鬱々としたいつもの癖がのし上がってくる。こうなったらどうしようも無くどうでもいい消極的思考の循環が始まるのだが、それはいつも自分のしたいように自由に動く布団の住人が無表情で米袋の中身を全部炊飯器にぶち込もうとしている姿を視線の先に発見したことで、中止せざるを得なくなった。
ここまでお読み下さりありがとうございます!
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心優しい方、私を教育して下さいませ。m(_ _)m