第五話 夕顔
拝啓 源光様
葵生ちゃんには直接言いましたが、君には言う機会がないので手紙を書くことにしました。
子供を授かったそうですね。おめでとうございます。予定日を来週に控えたお父さんの気持ちはどんな感じなのかな? 私たち夫婦にはまだ子供がいないので、夫婦としては先輩だけれどアドバイスが何一つできなくて本当にごめんなさい。
春頭にはほしいって言っているけれど、いつも仕事で忙しそうなのでなかなかできないのが残念です。だから、葵生ちゃんには会う度に羨ましいって言っています(そして会う度にお腹が大きくなっていって、びっくりしています)。
私が源夕咲になって早四年。源家のすごさには毎年驚かされてしまう日々です。
勘当されたとはいえ、頭首の伯父様たちや六城伯母様たち以外は仲良し一族で。正直怖いと思うこともあるけれど、私は君や葵生ちゃん、朝顔ちゃん、そして春頭に出会えてとても幸せです。その中に、今度新しい家族が加わること。これってとっても幸福なことだと思います。
けれど、四年前の君と葵生ちゃんは仲が良くなかったですね。春頭は昔からだと言っていましたが、よくよく見ていると二人の関係は仲が良くないという言葉だけで片づくような関係ではないことに私は気がつきました。
これってとっても悲しいことだと思います。葵生ちゃんは君のことが大好きなのに、そんなのってありません。だから三年前、私たち夫婦と、君と、葵生ちゃんとで一緒に食事をしてみようと思いました。
君はどうして呼ばれたのかよくわかっていないような表情でレストランに来ましたね。そして、私の目の前に座っている葵生ちゃんを見てわずかに足を止めた。
「なんでここに葵生が?」
「それはこっちの台詞よ」
葵生ちゃんは、君にこんなことを言って申し訳なかったと後で私に言いました。
「まぁまぁ、二人とも。ご飯だよ、一緒に……みんなで食べよう?」
春頭が選んだレストランは、少し高級な方のレストランでした。こんな場所に慣れていない私たちはどうしていいかわからない表情のままソワソワしていましたね。
だけど、君だけはほんの一瞬でそれを終わらせて慣れたような動作で葵生ちゃんの隣に座りました。
「葵生、光。何にするか決まったら言いなさい」
「兄さん。私も光ももう子供じゃないよ」
「そうか?」
「あ、でも光は子供かも。まだお酒飲めないもんね」
君は確か、あの時十九歳でしたね。なのに未成年だとは思えない落ち着きっぷりで、大学四年生だった葵生ちゃんの方が少しだけ幼く見えました。
「葵生は飲める年だけど飲めないよな」
「ちょっと、何が言いたいのよ」
君はむっとする葵生ちゃんに対して、生まれて初めて勝ち誇ったような表情をしましたね。今までたった一つの表情しか見せたことがなかったのに、年を取るにつれて色んな君が見れる。
これってとっても幸福なことだと思います。
「光、葵生。子供っぽいことなんかいつまでもやっていないで少しは大人になりなさい」
春頭がそう叱ると、葵生ちゃんはすごい顔で春頭のことを睨みました。
「どの口がそれを言っているの? 兄さんなんか大嫌い!」
そして、春頭を怒鳴りました。
「あ、葵生?」
驚く春頭なんか見えていないのか、葵生ちゃんは泣き出してしまいました。そこで春頭は、初めて知ることになるのです。
君と葵生ちゃんの関係が、いつまで経っても改善しない理由を。
葵生ちゃんは小さな頃から真面目な子で、源家の同世代の中では春頭の次に生まれた子でした。だから春頭と同じくらいプレッシャーがあり、いい子でいようと兄の言うことを必ず聞いていました。
次に朱凰さんが生まれ、朝顔ちゃんが生まれ、ある日突然君が生まれました。
頭首の伯父様の、不義の子として。
一族中は大騒ぎ。君は一夜にして、一族中から煙たがられる存在となりました。そんな君を見て兄は言います。
「光にかかわっちゃダメだよ」
と。
「兄さんが私にそう言ったのに、よくそんなことが言えたね! 最低だよ! 兄さんなんかもう知らない!」
今までずっと耐えていたから、爆発するのは簡単でした。
例え兄が覚えていない小さな頃の話でも、兄の言うことをちゃんと聞いていたからこそ生まれてしまった悲劇でした。
「悪かった、葵生。だからもう静かにしてくれ」
「静かにしろって何?! 兄さんってほんと昔っから周りの目だけを気にしてるよね! それでいていっつも自分の周りは見てないんだからほんっとタチ悪い!」
「だから悪かったって」
「夕咲ちゃんだって、兄さんのそういうところは嫌いなんだから!」
兄妹喧嘩はいつまでも続きます。
「二人とも落ち着いて! お願いだから!」
その一言が救いでした。
「葵生、あの時は本当に俺が悪かった。だから機嫌を直してくれ」
溜めていたものを吐き出して、ようやく落ち着いた葵生ちゃんは今度は黙り始めました。
春頭は困ったような表情で言葉を続けます。
「あの時は、周囲から葵生を守ろうとしたんだ。ほら、子供の頃ってそういうしがらみとか関係ないから……」
「なら、それが裏目に出たってことね」
兄の気持ちに感謝はすれど、そのせいで何もかもが捻れてしまった。その罪はとても重いことです。
「今はお互い勘当された者同士、仲良くしよう。な?」
「今さら何言ってんの? 光が生まれてもう十九年。ずっとこうだったのに、今さらどうこうなるわけないじゃん」
「光くんも、葵生ちゃんと仲良くしたいよね?」
「別に葵生と仲良くする必要はないと思いますけど」
話は一方通行でした。源家の人たちはみんながバラバラで、あの朱凰さんと頭首の伯父様も仲が良くないとよく聞きます。
仕方のないことかもしれない。それでも春頭は、常日頃から葵生ちゃんにこう言っていました。
「金はあるのに、家族全員が一つになれない家は本当に幸せなのかな」
と。
春頭は勘当され、社会で働いているうちにそう思うようになったそうです。
人が変わったようにそんな疑問を持つようになって。気持ち悪いって葵生ちゃんは言っていましたが、本心では違うことを考えていると思います。
「寂しいこと言わないでよ、光くん」
「別に寂しくないですよ」
嘘です。少なくとも、二人は孤独を愛する人ではありません。
君は色んな女の子とおつき合いをしているし、葵生ちゃんはしょっちゅう朝顔ちゃんを連れてお出かけをしているのです。寂しくないわけがありません。
それは春頭もわかっていました。
友達なんていないに等しい、だからと言ってほとんどの親族たちとの間に距離がある寂しがり屋な君たちに。
「葵生、光。葵生が大学を卒業したら結婚しなさい」
春頭は、クリスマスプレゼントをあげたのです。
その日は、君と葵生ちゃんの子供の予定日のクリスマスでしたね。クリスマスに予定がなかった二人へのプレゼントはあまりにも勝手なものでしたが――そうでもしないと、二人の溝は一向に埋まらない深いものでした。
「馬が合わなければ、離婚してもいい。ただし、それは五年後だ」
それで君の女の子とのつき合い方も変わる。
そして葵生ちゃんには君との関係を改善できるチャンスが生まれる。
そして、葵生ちゃんが卒業した春の頭に君たちは本当に結婚しましたね。
あの日から三年。
またこの季節がやってきて、今日雪が降りました。三年前のクリスマスの日は雪が降っていましたが今年のクリスマスは雪が降らないといいですね。
寒くて、だけど、また春が来ます。
雪景色は綺麗だけど、桜の方が私は好きです。君も確か雪景色が嫌いでしたね。「冬になると葵生に会わなくちゃいけなくなるから」なんて言っていましたが、今はどうですか?
新年になったら、また春頭と一緒に会いに行きます。源家の新年会ほど豪華じゃなくても、美味しいおせちを持って行くので待っていてください。
*
拝啓 源夕咲様
手紙ありがとうございました。
少しばたついていて返すのが遅くなってしまい、申し訳ありません。多分、この手紙が届いている頃、俺たちの家には新しい家族が増えていると思います。
クリスマスまであと少し。葵生はいつも辛そうです。お腹の中に人一人いるから当然と言えば当然ですが。ちなみに今日も雪が降っています。
この時期の世間はクリスマス一色ですが、昔の俺は少し違いました。指を折って日にちを数えて、あと何回眠ったらこの家は騒がしくなるんだろうと思って。また自分の部屋に篭って、そこから見える縁側の雪景色を眺めてやめました。
春頭と葵生がいて、朝顔がいて、秋好がいて。全員の親がいる。俺はそんな冬のあの日が一番嫌いでした。でも、今は違います。
夕咲さん一人がいるだけで、まったく違う冬のあの日がやって来ます。四年前、三年前、二年前、一年前。そして今年は生まれて初めて冬のあの日を楽しみにしています。
俺は春頭よりも一足先に父親になりますが、だからと言って何かが変わるとは思えません。実感がない、と言った方が正しいのかもしれません。
夕咲さんが謝る必要はまったくなくて、むしろ春頭に先輩面ができる日を楽しみにしています。春頭はいつも偉そうで、何もかも俺の先を行っているので(でも、一番面白いのは一番偉そうな朱凰が未婚だということです)。
源家は平安時代から続く旧家で、本家だけではなく全国各地に分家がいる大きな一族です。
親族が多いと様々な業界でも顔が利き、一族の権力と影響力は昔から根強く。一族の中でも本家の人間は別格扱いで、一番偉そうにしているとは言いましたが朱凰が背負っているものの重さは正直知りたくもありません。
だから、本家の人間の中で真っ先に生まれた春頭とその次に生まれた葵生のプレッシャーも、今になってようやくわかるのです。
「光にかかわっちゃダメだよ」
葵生を守る為に言ったその台詞も、今になってようやく理解することができました。
確かに、一族中から煙たがられている俺なんかと関わったら葵生の両親はいい顔をしなかったでしょう。でも俺は、それでもずっと待っていました。いい顔をされなくても、それでも春頭や葵生から話しかけてきてほしかった。
俺はみんながいる広間には行けないから、向こうから話しかけてくれるだけで生まれてきて良かったと思えたのに。
何年経っても誰も話しかけてくれなかった。それだけは強く覚えています。だから理解する為には長い時間が必要でした。
長年一族が嫌いだったのはこれが原因です。仲が良くなくて一番悲しかったのは俺です。
夕咲さんにこんなことを言っても仕方ないですね。でも、そんなしがらみがあったから仲良くないという言葉だけで片づかない関係だったのだと思います。
今でも葵生が俺のことを好きだなんて信じられないけれど、プライドが高かった葵生のことは大嫌いでした。
葵生と再会した時、縁を切られたのにまだ彼女との縁は切れていないのかとそう思って足を止めたのを覚えています。
むっとする葵生。泣き出す葵生。春頭の前だったからだと思いますが、俺にとってはそれが色んな葵生でした。知らなければ、俺の中の葵生は一生嫌な女のままでした。そして初めて、嫌な女だった理由を知りました。
葵生が嫌な女だったんじゃない。
春頭が嫌な男だったんじゃない。
受け止めるのは難しかったけれど、俺が嫌な子供だったのです。びっくりするくらい誰も悪くなかったのです。
その事実があまりにも衝撃的で俺は固まっていたけれど、葵生の声は泣くように怒鳴り怒鳴るように泣いていました。葵生も悲しかったのは痛いくらいに伝わってきて、葵生のあの言葉だけが人生で一番深く胸に刺さりました。
「金はあるのに、家族全員が一つになれない家は本当に幸せなのかな」
この言葉を本人の口から聞いたことはないけれど、この言葉は刺さったというよりもドキッとしました。なんのドキッかは自分でもわからないけれど、震えました。
守るべきものは人ではなく家。
俺はこの家のことをそう思っています。父親に殺された家族が、一族の中にどれくらいいたのだろうと思うと吐き気がします。そんな父親の血が直接自分の中に流れているのだと思うと死にそうです。
父親になる実感がないからというよりも、死にそうだと思うから考えたくないのだと思います。そして、父親になっても変わりたくないと思っているのです。
やっぱり俺は、結婚に向いている人間じゃなかったのかもしれません。自分の子供かもしれない子とその母親を見捨てた時点で、あの父親と同類だったのです。
約束の五年後は、いつの間にか二年後に迫ってきています。いつの間にかと表現した時点で、この三年間はジェットコースターに乗っている(実際に乗ったことは一度もありませんが)かのように季節の移り変わりが早かったのです。
結婚して良かった、今は本気で思っています。けれど、俺が父親のようにはならないとはいつまで経っても断言できません。
外はまだ雪が降っています。こんな思いをするくらいなら、自分だけが孤独だったあの頃に戻った方がマシかもしれない。
寒くて、だけど、また春が来る。春が来たら――いや、この手紙が届いている頃には、新しい生命がこの世界に誕生する。
変わりたくはないけれど、少なくともあの頃の自分は思い出せないくらいボロボロになって色褪せていくのだと思います。
あの頃に戻った方がと思っても、戻れるわけもなくあの子は生まれ、同じ思いをしてほしくないからこそ俺はあの子を手放しません。手放さないから、あの頃の俺はそうやって死ぬのだと思います。
あの頃の雪景色も、そんな俺と共に思い出せなくなって死ぬのだ思います。今は嫌いではありませんが、俺も桜の方が好きです。今年の冬は例年よりも寒いから、きっとキレイな桜が咲くと思います。
それと、夕咲さんの手作りおせちは美味しいので来るのを楽しみにして待っています。けれど、葵生がいつ退院できるかわからないので当日はもしかしたら厳しいかもしれません。
その辺りのことは今度葵生と相談してみます。生まれてきた子供の名前は、その日に話したいと思います。