第二話 末摘花
拝啓 源光様
葵生先生から子供を授かったと聞き、いてもたってもいられなくなってこの手紙を書くことを決意しました。
私たちが別れて早五年。たった五年で先輩は葵生先生と結婚し、妊娠するまでに至った。このことについて思うことはやはり後悔です。
私が高校一年生で先輩が高校二年生だった時、教育実習生として先輩のクラスに来たのが葵生先生でしたね。当時、そのことについて思うことは何もありませんでした。誰も、知らなかったんです。
先輩と葵生先生が従姉弟であると誰かが漏らした時、学校中が騒ぎになってしまったのを覚えていますか? 先輩はすごく嫌そうな表情をしていましたね。なのに子供まで授かってしまったのだから、もうわけがわかりません。
この間葵生先生と一緒に食事をした時、葵生先生本人も同じことを言っていました。
お腹が大きくなっていた葵生先生は、ちょっと困ったような表情で先輩の話をします。
「光がなかなか家事を手伝ってくれなくて、困っているの。花南ちゃんからも光に何か言ってくれない?」
「そうなんですか? でも、私の言うことなんて先輩聞かないと思いますよ?」
私はこう返しました。五年前、つき合っていた間先輩が私の言うことを聞いた試しなんて一度もなかったんですから。
「えー? そうかなぁ?」
「そうですよ。先輩、葵生先生には弱いと思っていたんですけど違うんですか?」
「違う違う、光が本当に弱いのは年下の子だよ」
「えぇー? 信じられませんよ、そんな話」
葵生先生は負け犬の私を馬鹿にしているのか。本気でそう思いました。
「ほんとほんと。年上好きだけど、お似合いなのは年下の子なんだから」
ほら、私を馬鹿にしているようにしか聞こえません。勝った自分にこれ以上の価値をつけたいのか、それとも単に優越感に浸りたいだけなのか、どっちなのか両方なのか。
そこまで言うのなら、先輩を私に譲ってほしい。
こう言うと先輩に嫌われそうなのですが、私は本気です。だって私は、後悔しているんだから。葵生先生とは違うんだから。
「じゃあ、葵生先生はどう思っていたんですか? 当時の私と、先輩のことを」
思い切って聞いてみました。
「私の知らない光を知っていて、いいなぁって思っていたよ」
そしてちょっと拍子抜けをしてしまいました。
先輩は、葵生先生が年上だから私じゃなくて葵生先生を選んだんですか? 先輩は、葵生先生が年上じゃなかったら私のことを選んでいましたか?
今になって強くそう思います。何もかも遅いってことは重々承知しています。でも、これだけは聞いておきたくて手紙を書きました。
先輩は、本当に葵生先生のことが好きなんですか?
だったらどこを見て好きになったんですか? 私たちの関係は五年も前に終わっているけれど、答えてくださると嬉しいです。
「じゃあ、葵生先生は私の知らない先輩のことを知っているんですか?」
ダメ押しで最後に聞いてみました。葵生先生は驚いたような表情で私を見ていました。
「さぁ? それはわからないよ」
他人の目から見ないと何もわからない。だから自分には答えようがない。
「先輩は年下だって好きですよ」
だから私は私に言います。当時私とつき合っていた先輩を否定したくない。なかったことにはしたくない。その一心でした。
「そうだね。いつか、私と離婚して年下の子と結婚しちゃうかもね」
葵生先生はあっさりとそう言います。その時、初めて意見が一致したように感じました。
ただ、安心してください。それが私じゃないことくらいちゃんとわかっています。
*
拝啓 末次花南様
突然の手紙に驚き、次に思ったのは君の愛らしい笑顔でした。君は笑顔がよく似合う、可愛らしい女性だったと記憶しています。
学校一美人だった君は笑わないことで有名でしたね。でも、君を口説いた俺にだけ見せてくれるその笑顔は今も忘れることなくこの胸に焼きついています。
俺たちが別れて早五年。頻繁に会うわけでも連絡を取り合っているわけでもないので、報告はしませんでした。ですが、葵生はどうしても君に伝えたかったみたいですね。
そのことを何気なく本人に聞いてみたら
「私と光が再会した時、側にいたのが花南ちゃんだったから」
と言っていました。
確かに俺と葵生が再会した時、俺とつき合っていたのが花南でした。もう二度と会わないと思っていた葵生が俺の目の前に現れて、動揺していた俺に唯一気がついていましたね。花南は葵生よりも気配りができる素敵な女性だと思います。
葵生は妊娠してからようやく女性らしくなりましたが、再会する前はとても嫌な女性でした。年に一回会うだけでしたが、それでも嫌な女性だと記憶しているのです。理由は何故か思い出せませんが、俺はずっと葵生のことが嫌いでした。
ですが今、俺の目の前で子供に話しかけている葵生は可愛らしいと思います。子供のことがそんなにも愛おしいのか、笑っています。
この喜びを多くの人たちに話したいみたいで、花南には迷惑をかけました。葵生に代わって謝罪します。ただ、子供が産まれたら祝福してください。葵生もきっと喜ぶと思います。
そういえば、花南は俺と別れて後悔しているそうですね。俺は葵生と結婚すること自体があまり乗り気ではありませんでしたが、今の葵生を見ていると結婚して良かったと思います。
俺と葵生の結婚は、親族が勝手に決めたことでした。だから五年で結婚も妊娠もすることができました。今でこそ葵生は幸せそうですが、俺たちの結婚が決まった時は嫌そうな顔をしていました(そういう意味ではお似合いの夫婦だったかもしれません)。
だからハッキリと言います。俺は花南と別れて良かったと思います。
花南は覚えていませんか? 俺たちが別れてしまった理由は葵生です。花南が葵生のことをどう思ったのかは知りませんが、五年前、俺の葵生への態度が嫌だと言って別れを切り出したのは花南です。
教育実習生として俺のクラスに来た葵生への態度には口出しをしなかったクセに、俺たちが従姉弟だと知った時の花南の態度は癪に障りました。
「先輩、家族には優しく接してあげてください。どうして冷たい態度ばかり取るんですか?」
花南がそう言った時、俺は初めて花南に対して腹が立ちました。
花南は家族を何よりも大切にする人だった。ただ、俺と葵生の家は大切にするようなものが何一つありませんでした。家族を家族と思わない。守るべきものは人ではなく家――そんな腐った家です。
俺も葵生も、そんな腐った家に一度殺されてしまいました。他の親族も何名かは殺されてしまいました。そんな俺と葵生が親族の勧めで結婚し、今度子供が産まれるなんて皮肉ですね。
俺は家族を殺した父親が嫌いです。前に花南が触れて俺が嫌がった母親の話題がありましたが、母親は父親に殺されてしまった家族の一人でした。
そんな俺が、今度父親になります。
これも皮肉だと思います。俺は俺が世界で一番嫌っている父親になって、いつか葵生を殺してしまうかもしれない。そう思ったら今すぐすべてを投げ出してしまいたくなります。多分、家事を手伝えないのはそのせいです。葵生に言われても、花南に言われても、多分俺は手伝えません。
ついさっき葵生がキッチンに行って料理をし始めましたが、俺は呑気に今日の晩御飯のメニューを聞くことしか能がありませんでした。ただ、一つだけ反論させてください。花南の言うことは基本なんでも聞いていましたよね?
「家族には優しく接してあげてください」
聞いていないのはこれだけだと思います。
俺は葵生の言う通り、年下には甘いのです。むしろ葵生には強く当たってしまいますが、それが治るのは一生かかっても無理だと思います。
花南がどういう思考回路で葵生のことをそう見たのかは、手紙を書いている最中も考えてみましたがわかりません。逆に違和感が残るのは、その後です。
花南は本気で俺のことを譲ってほしいと思っているんですか?
別にそれで花南のことを嫌いにはなりませんが、花南が後悔しているとは俺も本気で思えません。正直、当時の俺と花南のことを葵生がどう思っていたのかなんて、どうでもいいという感想しか出て来ません。
葵生の言う年上好きというのも、あまり信用しないでください。確かに花南とつき合う前は年上とつき合っていましたが、別に年上だからという理由ではありません。
葵生を選んだのも、年上だからというわけではありません。さっきも言ったように、親族が決めたというだけです。葵生が年下で花南が年上だったとしても、それは変わりません。どこを見て好きになったかという質問にも、答えられません。
ですが、葵生と結婚して良かったと思っているのは事実です。多分、これから好きになるのだと思います。
今、思い切って葵生に俺のどこが好き? と聞いてみました。料理を作っている最中の葵生は、「はぁ?」と言って手を止めました。
「そんなくだらないこと言ってる暇があったら、こっち手伝ってよ」
一番に葵生の口から出てきたのがこれでした。次にじろりと俺を睨みます。
「ていうか、なんで今時手紙なんか書いてるの? 全然似合ってないんだけど」
ここには多分、花南の知らない葵生がいました。葵生は昔からこんな性格だったのをどうやら俺は忘れていたみたいです。
俺は葵生に生返事をして、花南への手紙をもう少し書こうと思います。言われてみれば、確かに今時手紙なんてと俺も思います。でも、花南らしくていいとも思います。
花南は葵生に、俺が年下も好きだと言ったそうですね。それはらしくないと思いつつも、そう言った理由を見ると嬉しく思います。
ただ、今だから言いますが俺が花南とつき合った理由は年下だから。それだけです。
さっきも言った通り、花南とつき合う前俺は年上とつき合っていました。これも今だから言えますが未亡人です。そして俺の叔母でした(もちろん血が繋がっていない叔母です)。
葵生には薄々気づかれていると思いますが、誰にも言っていない秘密の恋でした。一つだけ勘違いしないでほしいのは叔母の年齢です。叔母と言っても、たったの七つしか離れていません。花南とつき合う前の俺は、七歳年上の叔母のことが好きでした。
叔母は俺とよく似ている人でした。似たもの同士で話も合い、葵生と一緒にいるよりも叔母と一緒にいた方が楽しかった。
叔母がいれば他はなんにもいらない。本気で思っていた時期がありました。ただ、見てわかる通りすべて過去形です。叔母との恋はとても一時的でとても儚いものでした。
叔母と別れた直後に出会ったのが花南です。
年上に嫌気が差していた俺にとって、花南は魅力的な女性でした。家族というものの価値観が違わなければ今もつき合っていたと思います。
だって俺は、花南を想っていたせいで父親に殺されてしまったのだから。
家族を大切にする花南が、実の息子を殺すことができる一族の人間になってはいけない。そういう点でも俺と葵生は似ています。
俺と葵生は、花南が思っているような人間ではありません。とても嫌な夫婦なのです。葵生は今、お腹の中の子供が愛おしくてたまらないみたいですが――子供が産まれたら、どうなるのでしょう。
もっと子供の為になる素敵な女性がいるのではないだろうか。そう思ったら、葵生が言っていたと言う離婚も夢のような話ではありません。
それでも俺は、葵生とお腹の子供、三人でこれからを生きていきたいと思います。色々言いましたが、未来のことなんて誰にもわからないものなのです。
だから俺は、これで良かったのだと思います。
花南がどれほど俺のことを想っていようが、関係ありません。花南ならすぐに、俺よりもいい人を見つけると思います。