19.茶番な人生
今まではイヴリンがウィリアムと会うのに何の支障もなかった。無関心な両親が留守がちだったためだ。しかしブラント男爵夫妻は予告なしにロンドンへ来てしまった。使用人も増えた。ここへウィリアムが来ればすぐにばれてしまう。
手紙を持ってきた給仕を呼び止めた。
「ルイス、手紙を持ってきたのは誰? まだいるかしら」
「は、はい? ランバート子爵の従僕だという者ですが。すでに出て行きました」
「大変」
執事が目をみはるのをよそに、イヴリンは慌てて階段を下りていく。玄関から飛び出して見回す。すると通りには、ちょうど乗合馬車に乗ろうとするオコナー。
「――ま、待って」
危ないところで間に合った。イヴリンはオコナーを呼び止めると、訪問はまた別の機会にしてもらえるよう頼む。
そしてオコナーが完全に立ち去った後に気づいた。
「どうしよう。理由を伝えるのを忘れたわ」
何か勘違いさせないか少し心配になる。しかしこんなことで怒るような人でもないと、なぜだか信じられた。
*
「――今日は来ないでほしいって? どうしてまた」
「理由はうかがっておりません。しかしずいぶん慌てているご様子でした」
「そうか。慌てていた、ねえ……」
セントジェームズスクエアに面した、ランバート子爵が構える自宅でのこと。建物そのものはシンプルなジョージアン様式で、子爵はその二階のフロアすべてを占有している。だが貸家であり、代々受け継いできた屋敷ではない。
婚約者から会いたくないと拒否されてしまったウィリアムは、読んでいた美術オークションのカタログを閉じ、肩をすくめた。イヴリンが思っている通り、彼はこの程度で怒ったりはしない。伝言を告げたオコナーがさらに付け加えた。
「お屋敷は以前とは少し変わったご様子でした」
「変わった? どういう意味だ、はっきり言ってくれ」
「はい。今日はブラント男爵がご在宅のようでした。今までと違い使用人も大勢いたようです」
なるほど、とウィリアムはうなずいた。それが理由だな、と。
驚くべきことに、彼は正確に理由を察した。父親と自分を会わせたくないのだろうと、イヴリンの内心を読んでみせる。
コーヒーでも淹れてまいりますと、従僕は部屋から下がって行った。
ウィリアムの側としては別段、男爵を避ける理由はない。イヴリンの叔母たちの前でやってみせたように、いっときの茶番を演じてみせるだけ。田舎男爵ひとり、手玉に取るのはたやすいだろうと彼は思う。
ウィリアムにとってすべては茶番だ。それがこの独身貴族の人生でもある。
彼の生まれ持った“立場”ならば、縁談や誘惑はいくらでもある。ふだんから口先だけのプレイボーイを演じていて、それで終わらなかった場合も多々。互いに遊びと承知した上で、マダムと戯れることは二度三度と経験済みだ。しかしやはり遊びに過ぎないし、相手が少しでも本気になる素振りを見せれば、ウィリアムから引くようにしている。時には道化を演じてでも。
内面の弱さを隠すため、人がとる対外的な態度には二種類ある。虚勢を張るか、道化になるか。ウィリアムの場合、人生の早い段階で後者を選んだ。それを大人になった今も続けているのが問題だと、本人もわかっている。
結果として、ランバート子爵には“マダム専門の遊び人”という道楽者の名がついたのだが。
「だからまあ、会わせたくはないだろうな」
挨拶しなくていいのか尋ねても、はぐらかしてばかりの彼女。人の気配のない屋敷や少ない持参金。両親がほぼ不在で影の薄いこともそうだ。親と何かあるのではと、彼も察していた。会いたい理由もウィリアムにはないので無理強いせず、そっとしておいた。偽装なのだから。
たしかにウィリアムにとって、この偽装婚約も茶番だった。遊びの延長。
しかし初めは遊び半分だったとしても、今のウィリアムは良縁候補を真剣に探している。
昨日紹介したジェフリーは、彼が考える中では最適候補だった。うなるほどある財産に、あまり高くないほどほどの地位。何よりジェフリーは、ウィリアムですら持ってないものを、生まれながらに手にしている。あの青年の妻になる娘は幸福な結婚生活を送るだろうと、彼は思っている。
「問題はどうやってくっつけるか、だな。慎重に策を考えないと」
ここからが問題だと、策を練る。なにしろ二度も失敗した。
そしてはたと我に返る。自分にしては真剣すぎやしないか、と。
遊びでしかなかった良縁探しに、自分がどうしてここまで肩入れするようになったのか。珍しく真剣になっているのは何故なのか、ウィリアムは冷静に考えてみた。
ふと周囲を見渡す。この部屋は書斎だが、独身生活を謳歌するランバート子爵は自分が居心地よいようにここをしつらえた。ふかふかの絨毯に、体を包み込むほど大きな肘掛け椅子。書斎というわりには本棚は小さく、そこに並ぶのは美術オークションのカタログばかり。
そして本棚の代わりに壁を覆いつくすのは、絵画の群だ。
「……なるほど。僕は気に入ってるのかもしれないな、イヴリンが」
レナールが好きだと聞いた時からだろう。かの画家のことはウィリアムもひいきにしている。
思い返せば、初めて会った場所にもレナールの『マーチ姉妹の肖像』があった。あのとき修羅場を切り抜けるためについた嘘から、たまたま知り合った美しい令嬢。機転もきく。話してみればあんがい素直で可愛らしい。良縁を掴むと意気込んでいるのは貴族の令嬢としては普通だが、その理由が妹のためというのはなかなか珍しい。
美貌に心魅かれたのも事実だが、ひとりの人間としても気に入った。それだけに、孤軍奮闘している様子が憐れに思えた。貴族の結婚など、親が力を入れなければ容易にまとまらないに決まっている。だがイヴリンにはそれがない。同情に値する状況だろう。
そう、同情だ。ウィリアムがイヴリンに感じる気持ちは、ただの同情。それに尽きる。
偽装婚約を持ち掛けたのも、あの指輪を貸す気になったのも、同情からのはず。たまたまよく似た色合いだったから。似合うだろうと思ったから。
「……」
ウィリアムには決して忘れられない存在がある。この遊び人の道楽者が、心の奥深く、大切にしまっている過去の恋。それはまだ幼く、道化を演じる前から始まった。真剣な誓いだった。
いずれ受け継ぐ地位を考えれば、このまま結婚しないでいるのは本来許されない。しかしそれでもする気はない。結婚はしない。これだけは茶番にできない。だからこそウィリアムはマダムと戯れに付き合う。相手のほうで結婚を望まない関係だから。
“わたしだけはウィリアムの味方よ”。
そう言ってくれた“彼女”以上に、大事な人は存在しない。これからもずっと。
しかしだからといって、イヴリンへの協力を惜しむつもりもなかった。彼女が自分を必要としなくなるまでは、力を貸してやればいい。本気でそう思っている。
「ああでも」
礼儀作法でも社交界での立ち回り方でも、なんでもござれのランバート子爵。彼の身分があればどれだけ格式の高いパーティーでももぐりこめるため、顔も広い。しかしそんなウィリアムにも、わからないことはあった。
「父親との付き合い方は、自分で考えてくれよ。イヴリン、愛しの婚約者殿?」
それだけは助言できないな、と自嘲気味に笑った。