17.妙な夜
オペラハウスのロビーには、休憩中の観客に軽食や酒を提供するためのバーがあった。イヴリンたちがそこへ降りて行くと、すでにそこはシャンパンを求める紳士淑女の群れでごった返している。
イヴリンと腕を組む偽装婚約者が、彼女に耳打ちする。
「ジェフリー・ドレイク。ヨークに広大な地所を持つ家の跡取り息子だ」
「え、ええ。……前にうかがっていた方ですわね」
「そうだ。父親のサー・モーリスは治安判事を務めているし、親類縁者には貴族院議員がわんさかいる。爵位がなくとも掘り出し物だよ。それに何より」
ウィリアムはそこでいったん言葉を切る。説明を中止し、先に目当ての人物へと声をかけた。
「やあ、サー・モーリスじゃありませんか! こんばんは」
「うん? おお、こんばんは、ランバート卿。あなたもおいでだったのか」
「今夏の最終公演ですからね。おや、奥方だけではなくジェフリーもご一緒でしたか。今夜はご家族そろってのお出ましとは、相変わらず仲がいいですね」
ウィリアムのややハイテンションな挨拶に振り返ったのは、壮年の男性だ。白髪交じりの黒髪で、中肉中背の体を夜会服に包んでいる。
そんな紳士の連れとしてそばにいるのが、奥方らしき貴婦人と青年だった。三人ともシャンパングラスを手にしている。
「ははは、ジェフリーは親孝行なやつですからな。わしらの自慢の息子ですよ、なあアナベル?」
「ええ、この子は本当に良い子で。ランバート卿、聞いて下さいな。ジェフリーは今年優等を取って卒業しましたのよ。しかも一級優等賞ですの、素晴らしいでしょう!」
夫と同じく中肉中背な体型のドレイク夫人は、息子がどれだけ立派な成績で大学を卒業したかを嬉しそうに語る。本人がすぐそばで聞くには、やや気の毒になるくらい。
「母さん。喜んでくれて嬉しいけれど、もう充分だよ。座ったら?」
苦笑しながら母親を止めたジェフリーだが、そんな彼女を優しくそばにあったソファへと促した。そしてソファは二つ空いている。ドレイク夫人がそのひとつに座ると、優しい息子はためらいがちにイヴリンを見た。
「ええと……」
「ああ、失礼した! サー・モーリスにも紹介がまだでしたね、彼女はイヴリン・ブラント。ブラント男爵家のお嬢さんです」
紹介なしには口もきかないのが英国流の人付き合いだが、素早く動いたウィリアムが双方を紹介する。レディファーストを遵守したジェフリーがイヴリンにもソファを勧めたため、なりゆきで歓談することになる。男性陣は立ったままだが。
ジェフリーはその両親とは違い大柄で、温厚そうな青年だ。美形というほどではないが、端正な顔立ちをしている。母親に圧倒されて口数が少ないものの、穏やかでゆっくりとした話し方をする。
「--ええ、それはもう大変な工事でしたけれど、完成後の満足がすべて吹き飛ばしてくれましたわ! 自分の家でオレンジがたわわに実ったあの光景、感動しますわよ」
「羨ましいですわ。それでオランジェリーの中というと、キュー・ガーデンのような感じでしょうか?」
「ええ、まさしくその通り。それはもう暖かくって」
ドレイク夫人の話は彼らの自宅のエリザベス朝の邸宅の話から始まり、庭にオランジェリー(オレンジ栽培用の温室)を建てたという話題へと移っていく。
イヴリンがふと出した王立植物園の名称に、反応したのはジェフリーだった。
「イヴリン嬢はキューにはよくいらっしゃるんですか?」
「時々は。花のない時期でも、あそこでは咲いていますでしょう。スケッチしたい時にはたまに行きますわ」
「あら、イヴリン嬢はスケッチをなさるのね。水彩画も?」
ドレイク夫人の質問に、待ってましたとばかりにイヴリンは答える。チャンスだ。
「絵を描くのが趣味ですわ。いつも妹のエセルをモデルにしていますの。エセルはピアノを弾くのが好きですから、そういうところを描きます」
ウィリアムの忠告を思い出したので、エセルの内面について長々と語るのはやめておく。優しいところや素直なところは会ってから知ってもらえればいい。代わりにイヴリンは、自分がどれだけ楽しく妹の絵を描くかを語った。
「妹さんの絵を。人物を描くのが好きなんですね?」
「ええ、エセルの似顔絵は毎日描いてますわ」
「毎日? 毎日同じ相手を描くんですか」
「あら、昨日と今日では代わり映えないように見えても、一年前と今日では顔立ちが違いますもの。それに今では日記代わりになってしまって、やらないと落ち着きません」
「ああ、なるほど。つまり習慣になってしまったんですね、それが」
「はい! その通りですわ、呆れるでしょう」
ジェフリーは微笑みながら首を振った後、次は理解を示すようにうなずいた。
「呆れたりはしません、誰でも習慣くらい持つでしょう。トカゲだのカエルだのキノコだの、とんでもない物を描いているという娘さんの話を聞いたことがありますよ。それから考えれば、あなたのはとても微笑ましい」
「――それに毎日の記録を目に見える形で残しておくというのは、意義があるかもしれないよ。僕らがサミュエル・ピープスの日記で王政復古期を知るように、いつか我々の時代もまた、後の時代の憧憬の的となるのかも」
話を引き継ぎ、割り込んだのはウィリアムだ。
「そのとき君の描いたエセルの絵は、エセル・ブラントという存在を後世に知らしめるわけだ。麗しのブラント男爵令嬢、のちの何とか夫人の成長の記録としてね」
そう締めくくると、カウンターでもらって来たばかりのシャンパングラスをイヴリンにも渡した。彼はそれを取りに行ってくれていたのだ。
「ありがとうございます。……知らしめるだなんて、随分おおげさですわね」
「そんなことないさ。しかし僕は君が絵を描くとは知らなかったな、イヴリン。見せてくれればいいのに」
「できませんわよ、恥ずかしい」
「恥ずかしい?」
「ウィリアムは目が肥えているんでしょう。素人の絵を見せるのは恥ずかしいわ」
なんだそんなこと、と子爵は軽く肩をすくめる。
「完成された技法で細密に描かれた絵もそれはそれで素晴らしいが、今は写真があるからな。その時その時の感覚を、感じたまま描くことは人間しかできないと思っているが。印象派も最初は――いや」
そこで止めて、グラスに口をつける。そして言った。
「今度見せてくれ、君の絵を」
「でも……」
「婚約者の特権」
イヴリンの左手を指さし、にっこり笑って言う。そこに指輪を嵌めていることには気づいていたようだ。
だがそこで、ジェフリーが顔色を変える。イヴリンとウィリアムを何度も見比べた。
「え……婚約者? イヴリン嬢は婚約されているんですか? ランバート卿と?」
「そうだよ。ああ、言わなかったか、そういえば」
「そうでしたか……」
あっさり肯定されたジェフリーは、なぜか悲しそうなため息をつく。そして「先に戻ります」と言い、両親を残してその場を去ってしまった。
イヴリンたちがシャンパンを飲み干す頃、休憩時間が終わった。偽装婚約者に腕を任せたイヴリンは、階段を上りながらウィリアムにふと尋ねる。
「さっきはどうしたのかしら、ジェフリーさん。わたくし、何か気に障る話をしました?」
「……さあね」
だが意外なことに、尋ねたウィリアムまでどこか上の空になってしまっている。イヴリンはひとりで首をかしげた。
(しゃべり過ぎたのかしら。でも質問してきたのは向こうだし)
偽装婚約も共同計画もやめようという考えもあったのだが、いざジェフリーと会うと、ふたたび迷いが生まれる。人柄がいかにも良さそうで、エセルにも興味を持ってくれた。両親も優しそうで、彼らならエセルを大事にしてくれると期待できる。
ジェフリー・ドレイクこそ最高の良縁候補。イヴリンはそういう予感がする。
あの良縁候補を捕まえられるなら、少しぐらい利用されてもいい気がした。ウィリアムの偽装婚約者として、もうしばらく彼のカモフラージュに付き合おうか。イヴリンはそう考え直した。そして思い出す。
「ウィリアム? そういえばさっき、ドレイクさんたちにお会いする前に何か――」
「……!」
だがイヴリンは口をつぐんだ。腕を組んだ相手がとつぜん足を止めたからだ。ウィリアムが何か前方にあるものを見て、動きを止めている。
二つの階段が出会う踊り場。前方向からは別の階段で上がって来た人々がいて、この踊り場で合流する。
先に呼んだのは向こうだ。甘い響きを持った声が彼を呼ぶ。
「ウィリアム」
立ち止まったウィリアムに、その黒髪の貴婦人は嫣然と微笑んだ。
ドレスはごく薄い色目の上品なピンク。大きく膨らんだ袖は流行最先端だ。胸元には白いファーがつき、腰や裾などの要所要所を黒のベルベッドリボンが飾る。頭にはレースのごとく緻密な細工の銀の台に、数えきれないほどのダイヤモンドをつけたティアラを載せている。豪奢なアクセサリー類から羽根飾りをつけた扇子にいたるまで、絵に描いたような上流の貴婦人だった。
そして何より美しい。イヴリンよりも十ほど年かさと見られるが、玲瓏たる美貌の持ち主だ。淡い色の着こなしが見事で、人形めいた美貌に花のような微笑みを浮かべ、こちらに歩み寄って来た。
「久しぶりね。お元気だった?」
「あ、ああ。君は」
「そうね、ちょっと疲れているわ。ロンドンに到着したのは昼の列車なの、それから着替えたりなんだりで、忙しかったから」
「そう、そうなのか」
イヴリンが非常に驚いたことに、ウィリアムが動揺している。横で見ていてわかるほど、動揺を隠せないほど狼狽えている。その証拠に、ウィリアムは笑わない。いつでも反射で出て来るらしいあの笑みが、今は消えている。
「ランバート、元気そうだな」
「……ああ。セジウィック」
甘い声を持つ貴婦人を前に、意味のある言葉を発せなくなったウィリアム。だがそんな彼を現実に引き戻したのは、貴婦人の隣にいた男性だ。彼女の夫らしく、いかにも親密そうに腕を組んでいる。
男性が言った。
「どこかへ行っていたのか? この夏一度も会ってなかったが」
「そうだったか? 確かにこの間までずっと大陸にいたけれど」
「まあ、それで会えなかったのね、ウィリアム。わたしたち、ゴードンのインド赴任が終わって、この春先にやっと帰国したところじゃない? それなのにあなたに会えないんですもの、わたしのこと忘れちゃったのかと思ったわ」
貴婦人は少しだけ責めるような目つきでウィリアムを見た。拗ねたように。
「いや、まさか僕が」
「そうよね。ねえウィリアム、こんど狐が解禁になったら、うちも久しぶりに狐狩りを開くつもりなの。あなたも来るなら許してあげてもいいわ。いいでしょう、ゴードン」
「君がそうしたいなら構わないよ、アリス」
「ではこれで決まりだわ。約束ね、ウィリアム。必ず来て」
華奢で小柄な彼女は、背の高いウィリアムを見上げ、にこっと無邪気な微笑みを浮かべた。『アリス』と呼ばれた彼女の頼みは断れないのか、ウィリアムも照れくさそうにうなずく。
「盛大なものにする予定よ。パーティーの主催って本当に大変だわ、お客様ひとりひとりが飽きないように気を配らないといけないし。あなたが前みたいに、色々と教えてくれたら助かるの。手伝ってね」
「もちろん。……君のためならいつでも」
「まあ! さすがウィリアムよね、いつでも頼りになる人だわ」
「ロンドンにはいつまで?」
「四、五日はいるわ。帰るまでにまた会えるといいわね、じゃあ――」
美しい貴婦人は可愛らしく小首をかしげ、愛嬌を振り撒く。そしてきびすを返した。
が、すぐに振り返る。
「いやだわ、ごめんなさい。そちらのお嬢さんの紹介をうかがっていないわね?」
閉じた扇子で口元を隠しているが、目はしっかりイヴリンへと向けられていた。印象的な瞳だった。
指摘され、ウィリアムはハッとしたようにイヴリンを見た。まるで、イヴリンがいたことを忘れてしまっていたかのように。
イヴリンの存在はここまで完全に無視されている。紹介されていないため、彼女も黙っているしかなかった。
「いや、ああ、すまない。……彼女はイヴリン・ブラント。ブラント男爵令嬢だ。イヴリン、二人はセジウィック伯爵夫妻のゴードンとアリス」
「え、ええ。初めまして、イヴリンと申します」
「あら……あなたがあのブラント男爵家のお嬢さんですの。ふうん」
セジウィック伯爵夫人は扇で表情を隠したまま、お辞儀をしたイヴリンの全身を眺めまわした。じっと、その目を細めながら。
そんな伯爵夫人に対し、ウィリアムがどこかためらいがちに告げた。
「アリス。またこんど話すが、イヴリンは僕の婚約者だ」
「……え? 嘘でしょう」
信じられない、とばかりに伯爵夫人はその目を見開いた。よほど驚いたのか、その体が軽く揺れる。彼女が倒れてしまうのではないかと、イヴリンはちょっと思った。いかにもショックを受けました、という態度だったので。
「ウィリアム、あなた結婚するの?」
「いや、別に、その。……するよ」
「そう……おめでとう。もういいわね、行きましょうか、ゴードン」
そこまで聞くと伯爵夫人は、急に興味を失くしたのか、なぜか無表情になる。冷たい一瞥をウィリアムに投げ、それを最後に夫を促す。
夫妻が去った後も立ち止まったまま動かないウィリアムを、イヴリンは見上げる。
「ウィリアム?」
「うん。僕らも行こうか、始まってしまう」
呼ぶと戻ってくるが、やはりどこかおかしい。
以降、その夜のウィリアムは明らかに様子がおかしかった。話しかければ答えるが、すぐに上の空になってしまう。ただごとではない。
イヴリンを自宅に送り届けるまで、とうとうジェフリーの件を話し合うことすらしなかった。
妙なことばかりの夜だった。一晩で二度も婚約を驚かれてしまう。偽装だが。