15.クピドな妹
ブラント姉妹のその年の夏は、飛ぶように過ぎていった。上流家庭の娘ならば、暑い街を離れて湖水地方にでも避暑に行きたいところである。だがこの姉妹はというと、真夏になってもロンドンを離れることなく過ごしていた。生活するのに必要な最低限の使用人と共に、慎ましく。
しかし嬉しいことに、状況はイヴリンの期待通りの展開となっていった。
一通の手紙を手に勉強部屋へと入る。そこではエセルが、家庭教師からフランス語を教わっていた。
「勉強中に失礼しますわね、グレイ先生。エセル、ライルさんが帰ってこられるそうなの、ロンドンに。それでまた今度、どこかで会えませんかっておっしゃってるんだけど」
「まあ、イヴリン姉様。ライルさんて、この間の美術館の?」
「そう。グレイ先生、本が落ちましたわよ」
持っていた本を取り落とした家庭教師にそれを指摘しながら、イヴリンはライル青年からの手紙を読む。彼女宛てだが、中には姉妹の名が書かれている。
「今度は動物園へ行きたいそうよ、リージェンツパークの。ロンドン中の観光地へ行ったことがないのかしらね」
「すてき、動物園なんて素敵だわ! 姉様、わたしも行きたいです」
「ええ。じゃあそうお返事を書くわね」
嬉しそうにはしゃぐエセルに、重症の妹狂いは気をよくした。ぜひご一緒しましょうと、そう返事しようと決める。そのため戸棚を開けて手紙に使う便箋を探していると、横にエセルが立った。
「グレイ先生も一緒に行っていいですわよね? ね、いいでしょう、お姉様」
「グレイ先生も? ええ、もちろん。付き添ってもらわないとだめよ」
「よかった! グレイ先生、先生も一緒に動物園ですわよ。約束ですからね」
イヴリンは苦笑した。動物園でここまで喜ぶとは、エセルはまだまだ子どもなのだと。
(あ。もしかして違うのかしら)
ここで気づいた。エセルがここまで喜ぶのは、ライル青年に会えるからかもしれない。イヴリンの良縁探しが実を結ぶ日は、あんがい近いと思っていいのだろうか。
計画がうまく行っていることに気を良くしていたら、ちょうどそのとき、封筒が目に入った。探っている戸棚の中に、品の良い藤色の封筒の手紙の束を見つける。
「か、感謝はしてますわよ。……もちろん」
手紙の送り主に人知れず感謝し、イヴリンはやっと未使用の便箋を見つけ出した。
*
大学が休暇に入ったというライル青年は、その後も何度もブラント姉妹を誘った。動物園、公園、ボート遊びへと、四人で連れだって出かける。どれも昼間の健全な付き合いではあるが、頻繁だった。しょっちゅう大事な妹を連れ出されて、またその度にエセルが無邪気に喜ぶので、嫉妬したイヴリンが歯軋りしだすほど。青年が追い払われずに済んだのは奇跡的だった。
そして、ロンドンの真夏が終わろうとする頃だ。朝早くにイヴリンが居間で日課の妹スケッチをしていると、そこへガヴァネスが入ってくる。おずおずと。
「あの、イヴリンお嬢様。お嬢様にお話があります」
「あら、グレイ先生。ちょっと待ってもらえるかしら、今いいところなの」
「だめですわ、イヴリン姉様! 先生は大事なお話があるみたいです、先に聞いて差し上げて」
なぜかきらきらと目を輝かせたエセルが、グレイ先生の話を聞くよう頼んでくる。仕方なくイヴリンは家庭教師に向き直った。
そして――。
「仕事を辞める?」
「はい。すぐではありませんけれど」
冴えない地味な細面を、やや紅潮させてガヴァネスのセシリア・グレイは語る。さきほどまでのおずおずした態度は消え、もじもじと、しかし今にもはち切れそうな何かに満たされている。今日はなんだか妙に綺麗に見えるわねと、イヴリンでさえ思った。
「実は、縁あって嫁ぐことになりました」
「まあ! グレイ先生、ご結婚なさるの? それはおめでとうございます」
退職予告には驚いたが、そういうことかと腑に落ちる。
頼りない人ではあるが、本人なりに一生懸命務めてくれているのも事実だ。そんなガヴァネスに辞められるのは痛いが、グレイ先生にとっては良い話だ。
「それでお相手は? どんな方なのかしら」
「ふふふ。イヴリン姉様ったら」
相手が誰か尋ねると、どうしてか、エセルが笑いだした。おかしそうに。
「いやだわ、お気づきじゃなかったの?」
「エセルお嬢様、イヴリンお嬢様にはお話していなかったんです。だってイヴリン様はお忙しいでしょう、私なんかのことでわずらわせたら申し訳ないですから」
「内緒だったの? イヴリン姉様だって聞いたら嬉しいでしょうに、グレイ先生の恋のお話。素敵なのよ」
「エセルは知っているの? あら、だったら相手は、わたくしたちも知っている人なのかしら」
自分だけが知らなかったのかと、意外に思う。
そこでようやくガヴァネスは相手を明かした。両手の指をもじもじとからめながら、恥ずかしそうにその名を明かす。
「マーティン、いえ、ライルさんです」
「は?」
「イヴリン様もご存知でしょう? ライルさん、法学生の。私、彼と結婚することなりました!」
「……」
イヴリンは目を一回閉じ、ニ秒後にまた開いた。
どうして、と言いたかった。頭に入らない。マーティン・ライル。ふた月ほど前にウィリアムの紹介で出会った、将来有望な青年で、エセルの良縁候補だ。それがグレイ先生の結婚相手だという。
「とっても素敵なんですよ、先生たちのお話。プロポーズをね、初めて会ったあそこでしてくれたんですって! 姉様も覚えているでしょう、あの美術館の前で」
「はい。イヴリン様と子爵様のお陰ですから、マーティンと出会えたのは。お二人には多大な感謝を」
「来年にはライルさんがロンドンでお仕事を始めるから、落ち着いたら式を挙げる予定なんですって」
「ですのであと一年ほどはお仕えできるかと。エセルお嬢様のデビューはお手伝いできますので、ご安心ください」
「……」
婚約したばかりのグレイ先生と一緒になって、心から楽しそうに嬉しそうに語っているエセル。その笑顔に、なんて愛くるしいのかしらと、重症の妹狂いは軽く現実逃避した。だがそんなイヴリンをエセルの一言が引き戻す。
「結婚式はどちらが先になるのかしら。ねえ、イヴリン姉様?」
「結婚式?」
どちらというのはいったい何のことかと、一瞬まごついた。忘れかけていたのだ、自分が婚約したことになっているのを。思い出して息が止まったが、直ちに態勢を立て直す。
「――! ほ、ほほほほほ。それはもちろん、わたくしたちが、先に」
「そうなんですか? もしかして……そろそろお日取りが?」
「う、うん。そうね、そうかも」
「エセル様。まずは婚約披露のパーティーがお先じゃありませんか。イヴリン様、ねえ?」
「そうですわ! 披露のパーティーもまだでしたわね。イヴリン姉様、そういえばお父様たちはなんて? お知らせしてるんでしょう、子爵様のこと」
答えられない方向へずんずん進む話題に、イヴリンは苦しくなる。披露パーティーにしろ結婚式にしろ、行われることはないのだから。
「……グレイ先生! お辞めになるまで、エセルの教育をしっかりお願いしますわね。来年はこの子がデビュタントなんですから」
「え、ええ。もちろんです、その時までみっちりお教えします」
「特にフランス語をね。そうだわ、その代わりわたくしたちもお仕度を手伝いましょうか、先生の結婚の。お父様にはわたくしからお許しをもらいますわ」
「まあ……! ありがとうございます、ご親切に」
どうにか男爵家の長女としての威厳を取り戻しつつ、全力で話題を変える。
「エセルも。グレイ先生が辞めるまで、しっかり勉強するのよ」
「はあい。……ふふ」
そこでエセルは含み笑いをもらす。
「なに、エセル?」
「だって、ずっと応援していたんですもの。お二人がうまくいけばいいなあって」
「……そ、そうだったの」
「だから嬉しいんです。お二人の邪魔をしないようにとか、わたしもけっこう気を遣いましたのよ」
「まあ、エセル様ったら。お恥ずかしいです、その話」
イヴリンの知らないところで、エセルはグレイ先生とライル青年が結び付くよう応援していたようだ。彼から誘いがかかるたびに喜んでいたのもすべて、仲の良いガヴァネスのため。
今日イヴリンは、妹の新たな面をひとつ知った。失敗続きの姉よりも、どうやらエセルのほうがよほど縁結びの才能があるらしい。自分自身のことよりも、他の誰かの幸せを願える少女だ。この、愛の神のような妹は。
エセルの才能を知ったイヴリンは、決意を新たにした。もう何度目かわからないが。
(……絶対、絶対、わたくしが幸せにしてあげるからね! エセル)