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13.痴話げんかな美術館




 ブラント家にはエセル付きの家庭教師として、若いガヴァネスが同居している。


 ロットン・ロウでの一件以来、ウィリアムはしばらくイヴリンの前に現れなかった。だからイヴリンが偽装婚約者と久しぶりに再会したのは、そのグレイ先生とエセルの三人で出かけた日のことだった。


「やあ、イヴリン。久しぶりだな」

「ウィリアム! あなたもいらしてたの」


 先に気付いたのは子爵のほうで、声をかけたのも彼が先だ。ウィリアムは人差し指を立てると、そっと口に当てた。にこやかに目を細めながら。


「静かにしよう。係員がにらんでいる」

「あら」


 指摘され、イヴリンも声をひそめる。


 ここは美術館だ。大都市ロンドンのど真ん中にあり、収蔵品は超一級ばかり。そうすると訪れる客は多い。ボリュームの大きな声には監視員がにらみをきかせる。


「そういえばすっかりご無沙汰していたな。悪かったね」

「い、いえ。あなたは何も。わたくしも」


 少し気まずい。あれからウィリアムは、リヴァース伯爵について何も言ってこなくなった。無言のうちになかったことになり、さらに伯爵本人が訪ねて来ることもない。


「エセルもこんにちは。風邪は治ったかな」


 イヴリンがためらっている間に、ウィリアムが小声でエセルに話しかけた。だが人見知りするエセルはうまく答えられない。もじもじと顔をうつむけた。


「あ、あの。風邪? 風邪って」

「ウィリアム。ありがとうございます、エセルはすっかり良くなりました」


 すかさず助け舟を出し、さらには割って入るイヴリン。このマダムキラーを、純粋な妹

の前にそのまま置いておくわけにはいかない。気まずさなどすぐに乗り越え、迎え撃つ態勢に入った。


「今日は偶然ですわね。……いえ、お好きなんでしたわね、絵画が」


 婚約者とはいえ偽装なので、ウィリアムの予定などいちいち知らない。だから美術館で会ったのは偶然だが、必然でもあった。絵画収集が趣味だと、リビー叔母とそのような話をしていたのを思い出す。


「そうだよ。ここにも欲しい絵はあるが、相手が大英帝国ではそうそう売ってもらえない。だから自分で観にくるんだ」

「ここの絵を買うですって? まあ、考えたこともありませんわ。ちなみにどの絵を?」

「そうだな……あれとか」


 ウィリアムがそっと指さしたのは、十七世紀の巨匠ルーベンスの傑作。ギリシャ神話を題材とした一枚なのだが、神話絵画のお約束として、描かれた女神がみんなヌードだった。案の定なチョイスとはいえ、イヴリンは思わず目をそらす。


「……値段がつけられる物とは思えませんけど」

「だろうね」


 はは、と軽く笑ってみせた。はじめから冗談だったのだろう。そして女たらしの偽装婚約者は、ちょっとついて来いと、イヴリンに身振りでしめす。


 イヴリンは、斜め後ろで別の絵を眺めているガヴァネスを呼んだ。


「グレイ先生、ちょっと。エセルをお願いしますね」


 相手はぼんやりしていたらしく、声をかけたらそれだけで体ごとビクリと震えている。


「え!? えと、あの、イヴリンお嬢様。どちらへ」

「ランバート卿とお話があるの。エセルと一緒にいて」


 グレイ先生は、イヴリンよりも二つか三つ年上なだけの娘だ。黄色のような薄ピンクのような、何とも言えない色合いの、リボンとフリルでゴテゴテと飾った服を着ている。優しい人柄ではあるのだが、経験不足で頼りない。その上いつもおどおどしている。


 イヴリンはため息つきそうになるのをこらえて、先を進むウィリアムを追った。展示室を二つか三つばかり通り過ぎる。


「さっきまで一緒にいたんだが……ああ、いた。イヴリン、あれ。灰色の服の」

「コンスタブルの前にいる?」

「それ。まだ若いが将来有望な法学生だ。あいつの父親をよく知っているが、実直で信頼できる人なんだ。本人はその父親より優秀で、今は学生でもいずれ称号のひとつももらうだろうともっぱらの評判」

「けっこうなことですこと。それが何か?」


 イヴリンはなかば後ずさりしつつ答える。周囲を気にしながらしゃべるウィリアムが、彼女の耳元へ囁こうとするからだ。それが気になって内容が頭に入らない。


「何かじゃないよ。決まっているだろう、エセルの相手にだ」

「エセルに!?」

「こら」


 驚いて大声を出すと、手で口をふさがれてしまった。軽くで、すぐに外してくれたが。そしてウィリアムはにやりと笑った。またあの悪い笑みだ。


「名前はマーティン・ライル。僕も今日会ったばかりなんだが、真面目そうなやつだよ。ここで会ったのも何かの縁だ、紹介したらどうだろう?」


 いきなりすぎてついて行けない。イヴリンは今日、妹を連れて美術鑑賞に来ただけで、まさかそれが見合いになるとは思ってなかった。準備ができていない。『エセルの夫候補』と言う名の仮想敵と会う、イヴリンの心の準備が。射殺すような目で見てしまいそうだ。


(いやでも)


 そうじゃないでしょう、と何度目かの心のブレーキを引いた。エセルが幸せになる良縁を見つけることが今の至上命題だと、強く己に言い聞かせる。


 いったん心を落ち着けて、あらためてその人を見た。背を向けているため、姿勢がいいぐらいのことしかわからないが。


「遊びで女性と付き合ったりしない、でしょうか?」


 尋ねたあとで「あっ」と思った。イヴリンとしてはきちんと確かめておきたい点なのだが、強烈な皮肉のようだ。なにしろ尋ねた相手が相手なので。


 だがその相手、女たらし子爵の答えもさるものだった。


「しないさ。法廷弁護士志望だ、自分が不倫訴訟の場に引っ張りだされるなんて、耐えられないんじゃないかな。僕は平気だけど」

「……はい。ではお願いしますわ、婚約者さま。紹介して下さる?」


 こうしてイヴリンは、エセルの良縁候補二人目を目通しすることになった。




 そして。


 ダークグレイのスーツを着た二十歳前後の青年。背はあまり高くないが、不思議と落ち着きのある佇まいが印象的。貴族的な優雅さはないが、いかにも実直そうな態度にイヴリンも好感を持った。


 そしてエセルの前に出されたマーティン・ライルは、一瞬目をみはり、それからすっと目を逸らした。その頬がわずかに紅潮していく。


 イヴリンとウィリアムが交互に言う。


「エセル、こちらはマーティン・ライルさんよ。ウィリアムのお知り合いのかたですって」

「ライル君。あちらはイヴリンの妹、エセル・ブラント男爵令嬢だ」


 美術館の中で話し込むわけにもいかないため、紹介は小声で名前を教え合う程度のものとなった。だがウィリアムの巧妙な誘導もおかげもあり、一緒に美術館の中を連れだって歩くことになる。


 『婚約者』という建前があるため、イヴリンとウィリアムは自然と二人組になった。残された三人、エセルとライル青年と家庭教師を、うまい具合に取り残して。まだ二人きりにするには早いので、ちょうどいいとイヴリンは満足する。


「本当に真面目そうなかたですわね」

「そうなんだ。今はケンブリッジにいるが、ロンドン生まれだそうだよ。それなのに子どもの頃から勉強ばかりで、ここに来たこともないなんて言うんだ。だったらこの気のいいウィリアムおじさんが、遊びのひとつも教えてやるのが使命だと思ってね」

「……」


 勉強一筋の真面目青年に、気晴らしをさせてやるつもりらしい。けっこうなことだとイヴリンも思う。実際、親切には違いない。だが。


(どんな『遊び』を教えるつもりなのよ)


 この女たらしが普段どんな『遊び』をしているのか、イヴリンだって知る由もないが。知りたくもないが。


「変なことに引きずりこまないで下さいね。あのかたを」


 いずれかわいい妹の夫となるかもしれない相手だ。ウィリアムのような遊び人になったら目も当てられない。思わずそう頼んだら、その困った女たらしはなぜか嬉しそうに笑った。とても楽しいことを思いついた、そう言わんばかりに。


「ふむ。“変なこと”というのは、どんなことだろう?」


 ちょうど、狭い展示室から次の部屋へと移ろうとしていたところだ。しかしウィリアムは戸口に片手をつき、通せんぼしてくる。イヴリンの行く手を遮るように。


 悪いことに、その部屋は行き止まりだった。中には他に人がいない。二人きりの空間となる。相手の顔にはいつものあの悪い笑み。

 

「……通して下さい」

「教えてくれたら通すとも、“変なこと”を。恥ずかしがらずに言ってごらん」

「ウィリアム」


 意味不明な行動に、何なの、と思ったのは一瞬だ。


 困らせて楽しんでいるんだ、とイヴリンは気づいた。そしてこういう意地悪には覚えがある。リビー叔母のところの従弟たちは、年下のくせに時折こういう意地悪を従姉妹たちに仕掛けて来る。いい歳した大人のくせに、ウィリアムのやることはそれと大差ない。ということは。


「子どもでいらっしゃるのね」

「……」


 これで怒ったら負けだと経験的にわかっているので、イヴリンはあえて微笑んだ。相手が虚をつかれた隙に、ひょいとその腕の下をくぐって部屋を出る。頼めば出してくれたのだろうが、それも癪だった。


 自力で脱出してさっさと先を行くイヴリンを、ウィリアムが黙って追いかけて来る。その彼をちらりと振り返った。


「お忘れですか? 偽装ですわよ」

「……いや。忘れてないよ、婚約者殿」


 暗に「わたくしはあなたの『遊び相手』のひとりではありません」と伝えると、ウィリアムも肩をすくめてうなずいた。悪かった、と片手を上げた仕草で伝えて来る。


「だがイヴリン。僕の気持ちも考えてみてくれ」

「はい?」

「久しぶりに愛しい婚約者と会えたというのに、彼女は僕と腕も組んでくれない。つれない恋人を振り向かせたかっただけなんだ」


 性懲りもない。本当に悪いと思っているのか、はなはだ疑問だ。しかしさきほどとは違い、ここは人目があった。ウィリアムの声もなかなか大きい。どうかしたのかと、妹たちもイヴリンを見ている。


「……い、いやですわ、ウィリアム。別に冷たくしたわけでは」

「偶然ここで会えたのはどうしてだと思う? 僕があまりにイヴリンを想っているから、哀れに思った愛の神(クピドー)が、君を今日ここに導いてくれたに違いないよ」

「まさか、たまたまですわ」

「いいや、そうだ。これは僕らが結ばれるという運命を暗示しているんだ。イヴリン、だから――」


 ひくっ、とイヴリンの頬がひきつった。エセルたちには見えないところで。

 だが仕方がなかった。


 ウィリアムが恥ずかしげもなく差し出してくる腕に、イヴリンは己の手を差し入れる。しぶしぶ腕を組んだ。しかし頭にきたので言わずにいられなかった。イヴリンの腕を、離すまいとばかりにがっちり挟んだ偽装婚約者へ。


「~~まるで痴話げんかしているみたいじゃありませんか!」

「みたい、じゃなくて本当に痴話げんかだよ。少なくとも周りはそう思ってる。君は可愛い人だな、イヴリン」


 今度こそ本当に嬉しそうに笑うウィリアムの横顔。この女たらしのほうが一枚上手だったとイヴリンも認めるが、それでも負けたとは思いたくなかった。




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