12.晴れやかな空
マダムじゃないけどいいのかしら、とイヴリンは思った。
屋根なし馬車に乗り込んで向かうのは、ロンドン中心部にあるハイドパークだ。イヴリンの昼間の外出用ドレスは白、同じ色の帽子をかぶる。手にはパラソル。
いつものように隙なく紳士の身なりを整えているウィリアムは、今日は乗馬をするという言葉を裏付けるように、白い乗馬用のズボンに長靴という姿だった。かすかに和らいだ目元のせいで笑っているようにも見えるが、もしかしたらそれが地顔なのかもしれない。
彼が何歳か正確に知らない。しかしイヴリンより十は上である。いい歳してどういうわけだか、この未婚の貴族は他人の奥方と戯れることを好むらしい。貴族の当主として身を固めることもなく、マダムと危ない火遊びをしているようだ。
(それってどうなのかしら)
本気で婚約するのはもちろん願い下げだ。だがそれとは別に不思議に思う。殿方の戯れは大目に見てもらえるものとはいえ、いつまでも遊び続けるわけにもいかない。もしかしたら、結婚自体が嫌なのではないかとも思えてくる。指輪の相手によほどひどく振られたのだろうか。
となると、こうしてイヴリンと一緒に出掛けることに、どんな意味があるのか謎だ。今日は彼女だけを連れ出す必要はないだろう、肝心のエセルがいないのだから。マダムではないイヴリンは、この偽装婚約者の好みの女性でもない。さらには絶対に好きになるなとまで忠告してきている。
「何か?」
「いえ、別に」
向かいの座席にいるウィリアムを無意識に観察してしまっていた。視線に気づいた彼は軽く肩をすくめたが、別の何かに注意をそらす。
「知り合いだ」
帽子を持ち上げ、にこやかに会釈を返したウィリアム。ちょうどすれ違った別の馬車に、知り合いがいたらしい。イヴリンがその無蓋の馬車を見ると、華やかな色合いのパラソルが揺れている。貴婦人たちが乗っているようだ。
「本当に顔が広くていらっしゃるんですね」
「そうだよ。今のはアッテンベリ侯爵夫人とその取り巻きだな。ロットン・ロウへ行かないってことは、ロンドンを出て遠出でもするんだろう」
ウィリアムは空を眺めながらそう語る。つられてイヴリンも見ると、本当に晴れやかな青空だ。『一日の中に四季がある』と言われるほど天気の変わりやすいロンドンだが、今は爽やかな初夏の空だった。
「いい空だろう? こんな時は外に出ないと、太陽なんていついなくなるか」
「ええ……やっぱりエセルも一緒に連れてくればよかったですわね」
ちょっとくらい具合が悪くとも、連れて来るべきだったと後悔する。イヴリンとエセルは何でも共有してきた姉妹だ。天気のいいロンドンも、悪いロンドンも。
そうこうしている間に、馬車は公園へと到着した。降りて馬場への遊歩道をそぞろ歩く。やがて晴れた初夏に相応しく盛装した、紳士淑女の群れと出会う。乗馬を楽しむために来た人々と、そんな彼らを見物するために来た人々だ。
偽装婚約者は柵のそばでイヴリンを止めた。
「厩番が馬を連れて来ているはずなんだ。すぐ戻るからオコナーと待っていてくれ」
「わたくしはひとりでも大丈夫ですわ。オコナーはお連れになったら?」
「とんでもない。しっかりお守りしろよ、オコナー」
子爵は従僕にそう言い置くと、さっさと行ってしまった。そうして残されたのは男爵令嬢と。
「イヴリン嬢、そちらは少々ぬかるんでおります。どうぞこちらに」
「ありがとう」
「暑くはございませんか? よろしければ扇であおぎましょう。――あちらにハント伯爵令嬢がいらっしゃいます。ご友人では?」
「暑くはないわ、大丈夫。ハント伯爵令嬢は友達ではないわ、でも教えてくれてありがとう」
四角四面だが、とても気の利く従僕だ。イヴリンが苦笑してしまうほど。
実際これまで見た中でも、オコナーはよく働く従僕だった。ウィリアムが何かを命じる前に先回りしてやってしまうため、まるで見えないお助け妖精がいるかのよう。
「あなたのような従僕を雇えて、子爵はお幸せね」
「おそれいります」
「あなたはどう? あの方は良いご主人かしら……いえ、答えないで。せんさくするつもりはないの、偽装だものね」
パラソルの柄を軽く回してもてあそぶ。周囲を見渡すと、イヴリンのような若い令嬢たちもちらほらいる。知っている顔がないかと探したが、すぐにやめた。あまり目立って、またあの悪名をささやかれてはたまらない。
(そもそも誰が言い出したのかしら。社交界の女王なんて)
『社交界の華』とはよく聞く言葉だが、女王はない。どちらにせよみずから名乗るものではなく、華があるか身分があるか、とにかく周囲がその人物を褒めたたえて呼ぶものだ。
ではイヴリンにこの悪名を、最初につけたのは誰なのか。イヴリンがいったい何をしたというのだろう。
そのときだ。聞こえてしまった。
「――本当だったぞ、ランバートの婚約は」
「まさか。信じられん」
「実際に会ったんだから確かだ。しかも噂どおり、相手はあの“社交界の女王”」
イヴリンの背筋が凍る。話の内容、そしてかすかに聞き覚えのある声に。
「へええ。で、美人だったか?」
「それはもう。美しい上になかなか気立ても良さそうだ、あれはたぶん、見せびらかしに来ていたんだろう」
一瞬凍ったイヴリンの背筋だが、そのリヴァース伯爵らしき人の言葉に、少しだけ解ける。良い印象を持ってくれているかしら、と。だが。
「しかし私はどうかしていると思うね、ランバートは」
「どういう意味だ」
「どう見ても全身母親のお古で固めていて、痛々しいぐらいだった。それほど困っているなら無理して社交界に出ることもないだろうに」
「ああ。よくいるな、そういうのは」
わずかに間が空いた。まるで忍び笑いでももらしたように。
うつむいた視界の端で、オコナーが無言で動く気配がした。イヴリンは顔を上げて片手を上げ、従僕に首を振る。止めなくていいと。妖精従僕は細い目をもっと細めて立ち止まった。
「ランバートはふらふら遊び過ぎているからな。何かの拍子に結婚しようと思い立ったんだろうが、他に承諾してくれるようなまともな娘がいなかったんじゃないか」
「私もそう思う。あの『女王様』も、連れて歩くぶんにはいいが妻にするには論外だ。何の利益もない。妹がいると可哀想なほど売り込んできて、私も困ったよ」
「へえ? 社交界の女王の妹か、僕も見てみたいな。似ているんだろうか」
そこで声が低くなる。何かの冗談でも言ったのか、続いて笑いが起こった。
「なんでもいい。鑑賞に耐えるほどの美人なら、一度拝んでみたいものだ」
「私はぜひ遊びに来てくれと誘われている。行くか?」
「いいね。だがリヴァース、君は平気なのか。あの侯爵家の令嬢の耳にでも入ったら」
「ブランシュは理解しているよ。我々の結婚なんて、どうせ家同士のためのものだ。彼女は安定した妻の座、私は政界での地位を固める。噂の美人なんてただの鑑賞物、そんなものだろう」
ハッと我に返ったときには、イヴリンの足は勝手に動き出していた。ぐんぐんと。
「お嬢様」
「すぐに戻りますわ」
イヴリンが歩き出したのは、伯爵たちがいる方向ではなかった。彼女はまるで明後日の方向へ、あてどなく進む。遠くには行けないが、あの場にいることもできなかった。堂々と立ち向かう勇気も。
ぎゅっとパラソルの柄を握る。
(……悔しい)
自分だけならまだ耐えられる。だがエセルのことをあんな風に口にするのが許せない。『鑑賞に耐える』。エセルは見世物でもなければ、戯れの相手でもない。結婚する気もないのにイヴリンの大事な宝物をもてあそぶなど、言語道断だ。絶対に許せない。
パラソルを少し傾けて、空を見上げた。ロンドンで晴れ渡る青い空は貴重だが、今は楽しめなかった。
「イヴリン?」
立ち止まって空を見ていたら、戻ってきた偽装婚約者がのんきに声をかけてきた。馬の手綱を引いている。
「……今日もそうなんですか?」
「は?」
「わたくしを連れて歩くのは気分がいいと。今日も見せびらかすため連れて来たの?」
はっきり口に出してしまうと、余計に嫌な気分になった。
ウィリアムはきょとんとしている。友人たちの話題など知らないようだ。だが困ったような顔になる。
「……泣いてるのか?」
「いいえ、そんなこと。――ただ、思うんです」
帽子とパラソルに隠れたイヴリンは、泣いてはいなかった。
ただ、思い出していただけだ。
絶頂のモテ期にいると思っていた、昨年までの自分。事実ブラント男爵令嬢は、舞踏会では選びきれないほどダンスの相手がいたし、自宅にもさばききれないほど訪問者がきた。しかしその誰もが、戯れにイヴリンの美貌を愛でただけだった。褒めはしても愛はささやかない。真剣な言葉をくれる者などひとりもいなかった。みんな遊びでイヴリンを取り巻き、そして飽きたら去っていった。『妻にするには論外』とばかりに。
だからこそイヴリンの決意は固くなった。決してエセルに同じ思いをさせない。エセルに母のお古で社交界を渡り歩かせるぐらいなら、先にイヴリンが良縁をつかみ獲ってくる。
こんなことを彼に言っても無駄かもしれない。名うての女たらしに訴えても、笑い飛ばされるだけだろう。
「エセルには、妹の夫には、地位や名誉があることより、大事な条件が」
「……」
「ただ誠実であってほしい。妹を誠実に想ってくれるなら、あの子はきっと、それだけで幸せです」
誠実の対極にあるような遊び人子爵に、返せる言葉はひとつもなかったようだ。笑い飛ばしもしなかったが。