10.人気者な子爵
晩餐後は葉巻を楽しむ紳士がたを食堂に残し、女性陣は先に応接間へと戻る。
想像していた以上の成果を上げたイヴリンは、機嫌よく、今度は貴婦人たちとだけ過ごす。招待主のエプソン卿夫人にはそのご夫君の病気快復への祝福を伝え、さらに礼をのべる。
「ご招待ありがとうございました。とつぜん押しかけた身ですもの、端の席で縮こまっているべきだと思っていました。でもこんなに温かく迎えていただけて、楽しい席でしたわ」
「楽しんでもらえたならあたくしも嬉しくてよ。開いた甲斐があるわ」
五十がらみのエプソン卿夫人はゆったり笑いながら答えてくれた。コーヒーを片手に。その場には招待主の妻のほかに、客として来ている二組の夫妻のうちの妻のほうと、どこぞの貴族らしき母娘が一組いた。
その母娘の、母親のほうがイヴリンの隣にやってきた。
「わたくしもお会いできて嬉しいわ、イヴリン嬢。それにしても本当に驚きましたわ。てっきりデマだとばかり思っていたから」
「はい? デマ、とは」
晩餐の場ではあまり話す機会がなかったため、いきなりそう言われても面食らう。
「決まっているでしょう、ランバート卿のことよ。婚約したばかりのあなたに言うのもなんだけど、あのかたが独身主義を破るなんて、とても驚いたもの。ねえ、ジョンソン夫人?」
「ええそうね。ランバート卿と言えば……ねえ。色々と耳に入ってきますからね。どこかの将軍の奥様のこととか」
母娘の母親と、彼女に呼ばれた別の貴婦人がイヴリンを囲む。
そして彼女たちは口々に言った。はっきりとではなく、ほのめかすように。
「あまり言いたくはないのだけど、でもあなたがお若いから心配で。いいお嬢さんのようだし」
「そうそう。相手はあのランバート卿ですものね。今は有頂天かもしれないけれど、少し冷静になったほうがよくてよ。一度よく考えて」
「悪く取らないでちょうだいね。あのかたがちゃんと一人の女性のところに留まれるものなのか、心配なのよ。殿方は多少の無軌道も許されますけど、あなたのようなお嬢さんに醜聞は命取りだから」
「そうよ、充分お気をつけなさいね」
「はあ……」
どうやら忠告したいのは、ウィリアムのことらしい。あの偽装婚約者が女たらしなのは、出会った日からイヴリンも知っている。そして本当に結婚する予定はない。
「そんなに……その。遊んでいらっしゃるんですか?」
偽装だから関係ない。しかしこれほどまでに忠告されたら不安になる。だから訊いた。
「遊んでいるだなんて。ただちょっと、戯れが過ぎるというか。ねえ」
「ご本人も親しみのある人柄だから。誰とでもすぐに親しくなるのよ」
「それに何と言っても、あれだけの身分をお持ちでしょう。どれほど格式の高い集まりでも自由に出入りできるし、そのどこでも人気がおありよね」
「あらでも、あのかたのいつもの好みとも違いませんか、イヴリン嬢は」
「いつもの好みって?」
「だって、あたくしてっきり、あの方はマダムばかりを」
「ジョンソン夫人!」
ジョンソン夫人は口を滑らせたのだろう。慌ててもう一人が止めた。そして話題は急速に変えられる。『ランバート子爵の道楽』の話題は、よほどまずいところへ行きかけたらしい。
(既婚者……)
そういえば、最初に会った時点でそうだった。銃で狙われたのは、他人の妻とのよからぬ関係を疑われたから。さらには、こんな風に貴婦人たちのゴシップのネタになっている。
しばらくすると、酒と葉巻の儀式を済ませた紳士たちが応接間へと戻ってくる。男女交えてお茶の時間があり、それで今夜はお開きとなった。
帰りも自宅まで偽装婚約者の馬車で送ってもらう。馬車に乗り込むイヴリンに手を貸しながら、噂の遊び人がそっと尋ねた。
「今夜は楽しかったかな」
「ええ。それにとても有意義でした、連れて来て下さってありがとうございます」
「それはよかった。――僕もなかなかいい気分だった。たまには若い美人を連れて歩くのも悪くないね、リヴァースからさんざん羨ましがられた」
そのウィリアムの物言いに、イヴリンは心底あきれた。確かに感謝はしているが、この紳士はやはり油断ならない。
馬車はやがて、イヴリンの最愛の妹が帰りを待つ男爵邸へと着く。マダムキラーはわざわざ先に降り、イヴリンが降りるのに手を貸した。どこまでも丁重なことである。
送ってもらった礼を言い、イヴリンが家に入りかけた時だ。
「そうだ、うっかりしていた! 僕としたことが」
「え? 何かお忘れ物?」
「その通り。イヴリン、手を出してくれ。――晩餐会の前に渡そうと思っていたんだが」
急に声を上げたウィリアムが彼女を引き留める。彼は自分の上着の内ポケットから何かを出した。イヴリンが思わず出した手のひらの上に、その何かを握り込んだウィリアムの手が重なる。手袋越しに。
「嵌めてあげるべきところだが、やめておく。だが君には似合うだろう」
「これは……指輪ですわね」
開いたこぶしがそっと載せたのは、ひとつの指輪だった。夜目にはわかりづらいが、金の台に色石が嵌っている。
「人前に出る時だけでも嵌めておいてくれ。これはそうだな、嘘に真実味を混ぜるための小道具だよ」
一瞬ことばにつまる。イヴリンは、男性から指輪を贈られることなど初めてだ。そして、この場合はつまり。
「まさか婚約指輪ですか!?」
ここまでするの、とイヴリンは本気で驚いた。彼には遊び半分の茶番だろうに、だんだん手が込んできた。いっそ感心してしまう。
すると偽装婚約者は、なんでもなさそうに付け加えた。
「言っておくが、貸すだけだからね。すべてが終わったら返してもらう」
「ええ……当然ですわね、偽装ですもの。よければ借用証を書きましょうか?」
「いらないよ。そうだな、代わりにキスでもしてくれればいい、気が向いたときに。ではまた」
そんな軽口でイヴリンをまた呆れさせ、女たらしは馬車へと戻る。去り際にトップハットの鍔を少し持ち上げたので、目じりに笑い皺を浮かべた表情が少しだけ見えた。