1 悪夢から覚めても
ややいびつな二人の関係に説得力を持たせられるか、試行錯誤しつつ挑戦してみます。
こんな「灰かぶり」みたいな生活、抜け出さなくちゃ。
ようやくそう決心した日、私を連れ出しにやってきた「彼」は、王子様ではなかった。
寂れた村の長老一家の屋敷で、下働きとして暮らし始めたのは、二年前のこと。
あの日、言葉もわからないまま戸惑う私に、知らない婆さんが雑巾を投げつけたのだ。まるで、私がずっと前からここの下働きをしていて、その日の仕事をすぐに始めなかったことを責めるみたいに。
驚いて逃げ出し、村の人に助けを求めたら、逆に屋敷に連れ戻されて。今度は知らない爺さんに、鞭でぶたれた。
その瞬間から、私は変わった。ぶたれた瞬間、私の中に柔らかく広がっていた心がきゅっと縮んで、氷のキューブみたいになったのだ。日本で勉強したり部活したり遊んだりして毎日を送っていた女子高生が、鞭でぶたれる――そんな異常な出来事から自分を守るための、それは本能。
心を凍らせたおかげで、それから鞭でぶたれても罵詈雑言を投げつけられても、あまり辛くはなかった。だって氷だから、衝撃には鈍くなれる。
他のあらゆることにも鈍くなっちゃったけど、それは仕方ない。
二度目の秋が終わろうとしている。私は十九歳。
白い息を吐きながら、屋敷の裏の井戸で水を汲んでいたら、目の前に雪が舞い降りた。鈍色の空を見上げて、ふと思ったのだ。
こんな「灰かぶり」みたいな生活、抜け出さなくちゃ。本格的な冬になる前に。
夜になったら逃げよう、と、私はまるでゴミでも捨てに行くみたいに軽く決めた。お金もないのに、女一人でどうなるかもわからないのに、鈍いって怖い。でもとにかく、そう決めてしまった。
ひび割れて痛む手に息を吹きかけると、気管が痛む。ごほ、ごほっと咳込んだ。ちょっと嫌な感じの音。
でも大丈夫、私は今夜逃げるんだから。悪夢から醒めるみたいに。
その時、馬の足音がして……
振り向くと、馬上に「彼」がいたのだ。
綺麗な銀髪に、深い緑の瞳。鋭い目つきに引き結んだ口。やや浅黒い肌の身体は筋骨隆々として、紺の軍服がすごく似合っている。騎士、ってやつだろう。年は……外国人の年ってよくわからないけど、三十歳前後だろうか。
彼は、足踏みする馬に乗ったまま、私の顔をじっと見つめている。
「ご用ですか」
私はスカートの裾を摘み、片言で言いながら頭を下げた。お客が来たらそうするように、命じられている。
深みのある、低い美声が降ってきた。
「……『シオン』なのか?」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
男性は馬を下り、こちらに近づいてくる。そして、私の腕を両側からひっつかんだ。呆然とされるがままになっていると、何か確かめるように腕を上から下まで素早く抑え――
そして、私の左の袖をまくり上げた。手首の少し上に、鈍く光る金属の輪っかがはまっている。この屋敷に来たとき、いつの間にかはまっていたものだ。
背の高い彼は、私の顔をのぞき込むためにぐっと屈み込んだ。
「やはり、シオン」
眉間にしわを寄せ、辛そうな表情になった男性は、言った。
「長い間、苦労をかけて済まない」
……どういう意味? 私、別にこの人に苦労をかけられたわけじゃないような。それに、『シオン』って……何で私の名前を知ってるの?
訳が分からず黙っていたところへ、屋敷の玄関から長老の爺さんが出てきた。
「こ、これは、オルセード○○! どうなさったのです、こんな寂れた村に」
一部、知らない単語。でも、こんなにへこへこしてる爺さんは初めて見た。
爺さんは私を見て、いつもみたいに叱責する。
「お前、○○から離れろ。図々しい」
「長老」
男性は私の腕を取ったまま、冷ややかに爺さんを見た。
「この娘は、俺の○○だ。○○な物言いはやめてもらおう」
「は……?」
爺さんはポカンとしている。
ちなみに私は聞き流して、成り行きに任せていた。どうせ言葉がわからないし、どんな態度をとったらいいのかもわからないし。
男性は私のあかぎれだらけの手を見下ろして、また顔をゆがめ、私の目を見た。
「本当に済まない。もう二度と、こんな目には遭わせない。俺と一緒に来てくれ」
今の言葉は、とりあえずわかった。
……なんだかわからないけど、私はここから出られるらしい。それなら、この人と行こう。連れて行ってもらおう。
腕を引かれるまま、私は何も考えずに馬に近寄った。男性は先に馬に乗ると、私を引っ張り上げる。
「軽い……」
彼はなにやら苦しげにつぶやき、そして身につけていたマントを引っ張って前に回すと、私を包み込んだ。
何これ、すごく暖かい。懐かしい。……懐かしい?
凍り付いていた心の奥の方で、何かが動く。
冬にコートを着て、あったかいブーツを履いて、家ではこたつ。当たり前に包まれていた、暖かさ……
まるで氷の中に閉じこめられた花のように、心の奥にきれいな思い出が透けて見えたけれど、それも一瞬。氷の表面はまた曇って、見えなくなった。
ちょっと咳込むと、男性は私の顔をのぞき込んで様子を見てから、爺さんを見下ろして言った。
「この娘はもらっていく」
「灰かぶり」みたいな生活から私を連れ出した一人の騎士は、私を立派なお屋敷に連れて行った。そして、本当にシンデレラのお話みたいに、私はまるでお姫様みたいに暮らすことになった。
でも彼は、「王子様」ではなく――
私がこの世界に堕とされた、元凶になった人物だった。
「俺のことを、覚えていないか?」
そう尋ねられた私は、ぼんやりと二年前のことを思い出す。
そう、灰かぶり生活が始まる直前、おかしな出来事があった。日本にいたはずの私が、長老の屋敷でこき使われ始めるまでの間、ほんの数日だけ別の場所にいたのだ。