第五夜 正面狂幻
目玉が割れる音がした。
○
アシュレが夜回りを始めたのは、アルが復帰してきてすぐ。一月の二週目に入ったばかりの頃。
突然、部屋にイズマが訪ねてきたのだ。綺麗な服に整った相貌。けれど全体をみると、畏怖とも、胡散臭さともつかぬ奇妙な気配を持つ男。
彼が《アカデミー》の非常勤講師であることは知っていた。けれど、これといって繋がりはない。全く予想外の訪問者。
部屋を間違えていないか?
「いやあ、突然ごめんねー。アルくんのことでちょっとお話があって。今、いいかな?」
「アルのことで?」
「うん。ほら、最近放火が相次いでるだろう。アルくんの一件もそうなんじゃないかってことでね、それだけならいいんだけど。実は、放火現場で土蜘蛛の男の目撃証言もあるんだ」
土蜘蛛の男。まさか、アルが放火を? いや、もしや復讐心に駆られ、放火犯を追っているのだろうか。
一瞬で膨らんだ嫌な想像を抑えるように、ああ、とイズマがぺらぺらと手を振る。
「アルくんの家にも、同一人物と思われる男が何度か尋ねていたらしい。デラルテ家に勤めていた家政婦の証言だ。つまり、アルくんじゃない。
でも、彼が自分を抑えられるか。アルくんの周囲をそれとなく気にして欲しいンだね。あ、絶対に直接、解決しようとかダメ絶対」
この情報もコッソリ伝えてるんだからねッ! イズマは念を押す。
心配している……ようには見えなかった。
アシュレの知るアルヴィーゼは、調子はいいが穏やかだ。が、家族を喪ったものの心境は如何なるものか。
イズマには頷いておきながら、内心では首を振った。
友達として、ほうっておけない。
心のなかに、一抹の罪悪感。溶けかけた分厚い雪に、一滴滴った墨のような思い。ソシエの告白の返事を先送りにしたそれを隠しながら。
その夜から、夜回りが始まった。
最も、初めから少々予定は狂ってしまったのだが。
暖かな上着を着て、マフラーを巻いて。口許を埋めるように首をすぼめ、こっそりと寮を抜け出した。
窓を開け、タオルを結んだ縄を作り、脱出。
かなりオーソドックスな手段だが、冬の闇は音すら殺していく。全くのおとがめなし。まるで気づかれた気配がなくて、恐いくらいだ。
呼吸をすると息が白く色づいた。それすらも危険に思え、肺をゆっくり、ゆっくりと上下させる。心なしか頭がくらくらした。駆け足で家屋を離れる。
門を抜け、壁ギリギリを歩いた。少しでも見えにくい場所にいきたかった。すると今度は監視カメラを警戒しなければいけない。現代社会は、姿を誤魔化しづらい世の中だ。
完全に監視エリアを抜け切って、ようやく大きく深呼吸。酸素が美味しい。健康で健全な状態に戻った心臓が喜ぶ。
「アシュレ!」
心臓が悲鳴をあげた。血という涙もでそうだった。声も。
声は顔をみずともわかるほど、親しみがある。
「アルマ!? なんで来たの! 寒いし、こんな時間に女のコが出歩いてちゃいけないよ!」
慌てたまま、思いついたままに言葉が飛び出す。
寮のすぐそばで、腰に手を当てて待ち構えていたのは、まさか。淑女の中の淑女、アルマ。怒っているらしい。形のよい眉が吊り上っている。
彼女にしては珍しい。こういう時の優しい人は恐ろしいと、相場は決まっている。案の定、日ごろより崩した口調で、厳しく切り返してきた。
「アシュレだって、イズマさんに絶対深入りはダメだって止められたくせに! あのヒトけっこうよくないウワサがあるし」
「なんでそれを」
「イズマさんが私のところにも来たのよ、ソシエさんの件で。すぐピンときたわ、貴方のことだもの。こっそり何かやる気だわ、って!」
はあ、と溜め息までつかれてしまう。怒った、から呆れた、にシフトしたらしい。
誰にも迷惑をかけまい思ってのことだったのに、ばっちりばれていた。申し訳ない気持ちはあるが、アシュレだって引き下がれない思いがある。
「……そんなこと言ったって……友達があんなことになって……ソシエだって……見ないふりはできない」
「わ、私だって一緒です! だから、それに、二人でいれば一人より安全だと思うし、……あったかいし……」
「?」
「な、なんでもないッ。とにかく、危ないことは控えてね。貴方を心配する人は、沢山いるのだから」
暖かな怒りをぶつけるアルマに、アシュレの頬が緩む。自分は本当に恵まれている、そう思ってしまう。
これは生きているものの特権なのだ。胸が塞がる。
これ以上、あの兄妹を一人にしてなるものか。改めて、決意を固める。雨が降ったからこそ、より固くなる大地もある。
あちこちで芽吹かされる火花の種。咲き誇る赤い花が、被害者の心を染める前に。思い出された優しい雨が、火をかき消してくれることを願う。
生き残った兄は、今は一人。孤独の日々を送っている。自分たちが雨になってやらねば。
こうして、二人ぽっちの夜回りが、一か月続いた。
○
そして、あの夜。見回りをはじめ、ひと月。二月。マスカレードが近づいた季節。
「違う、お、オレじゃないんだ、オレじゃない、お、オレ、オレじゃオレじゃオレじゃ」
人間が壊れるさま。人の心が燃えるさまを、アシュレは初めて直視した。
頭に手を置かれ、激しく痙攣する男。獣のように涎を垂らし、今にも爆発しそうだった。とても正気とは思えない。
加え、男に馬乗りになった女。着物に身を包み、黒髪を振り乱す後ろ姿。月光の元、扇のように散る黒。仰け反った瞬間に、舞い上がった髪が落ちる合間に覗くうなじ。
妖異。幽世がこの世に滲むような、麗しい怪異があった。
異様な光景に、固まる。恐怖したのではない。恐れはあった、それ以上に、何よりも畏れがあった。人間性を捨てた演舞に踏み込めば、「何か」の怒りを買う。そんな本能的な畏れがあった。
見惚れていたのかもしれない。
突如、絹を裂いた叫びが響く。あの世がこの世を吐き出す。生きた人間の世界が、俗の世界が戻ってくる。
女は何事かを叫んでいた。声音と姿をよく見れば、女というより少女であると気づく。自分たちとそう変わりのない、そう、例えば、あのこのような――
「……ソシエ?」
目玉が割れる音がした。
顔のない仮面に空いた、二つの穴。本物の貌が偽物に変わった、瞬間。
復讐に燃えた瞳に、瞼という幕が下り。
再び開かれた目を、アシュレは直視した。
それこそが、本幕開始のベル。永年待たれた主役が、少女の瞳を奪って舞い降りたのだ。
その容貌は、確かに少女――ソルシエール。けれど。およそ、深く、広く、浅く、沈み、浮かび、霧散し、呑み込む。自動的に覗き込んでくる深淵の如き瞳は、絶対に。
人間のしていい目ではない。
あれは、ソシエの顔をした、別物だ。
――彼女を返せ!
感じたまま要求する。けれど、ソシエの顔をした誰かは、霧のように消えてしまった。
魔女のように。
○
死んだはずのソシエが現れた次の日。夜明けまでアシュレは街を駆けずり回っていた。どこかにソシエがいないかと求めて。
しかし、影も形も見つからない。諦め、朝帰りした寮は、妙に騒がしかった。
――ああ、脱出がばれたか。それより、ソシエのことをアルにどういえば?
疲れと睡眠不足でぼうっとする頭のまま、ふらふらと玄関に近づいたアシュレの耳に飛び込んだのは、とんでもない事実だった。
アルが、消えた。荷物をまるまる残して、忽然と。
兄妹揃って、最初から存在が幻であったかのように消えてしまった。
あの日から、アシュレは毎晩街を回っている。以前より早くから、遅くまで。
もしかしてひょっこり帰ってくるのではという期待もあった。彼らが楽しみにしていたマスカレードの準備も手を抜いたつもりはなかった。しかし、日に日にどこかで綻びが出てしまう。
そうして、マスカレード前日の昼になってしまった。
やはり兄妹は返ってこない。
舞台完成祝いの挨拶もそこそこに、アシュレは部屋に戻ってしまった。疲れていた。身体が泥のように眠りたいと訴えていた。一方で心は、誰かを見つけねばと急いていた。
心配したらしいアルマが後ろからついてくる。時折、ふらついた背中を柔い手が支えてくれた。
部屋までついてきたアルマは、眉をハの時に下げて懇願する。
――せめて一休みして。ね、ちょっとだけでいいから。
そんな顔をされては断れない。言葉に甘え、ソファに腰をかけると、みるみる力が抜けてしまう。今日も夜回りに行かねば。そう思うのに、指一本動かない。
「アシュレ、あのね」
数分も経たず、ふねをこぎはじめるアシュレにアルマが囁く。誰が見てもアシュレが無理をしているのは明らか。ソシエの件を共有しているのは、実質アルマだけ。
見ていられなくなったのだろう。彼女なりに手をうとうとしたらしい。
必死に睡魔に誘惑される脳味噌を、叩き起こそうと試みる。
考えてくれたのだ、きちんと聞かなければ。ああ、でも、瞼が下りる。
「……さんに、メールで…………したら、………」
ああ、ちゃんと聞かなくては。なのに、眠くて、眠く、て――
○
「あの娘はもう、向こう側に足を踏み込んだんだ」
洗練された気高さ、研がれた刃の如き威風。されど声の主は少女。アルマとも異なり、戦場に咲く薔薇のような――
「ああ、起きてしまったか」
「大丈夫? まだ一時間も経ってないわ」
「……シオン、さん?」
目を開くと、アルマの隣。いつぞやのように、シオンザフィルが凛とそこに立っていた。
一体何故彼女がここに?
「やっぱり聞いてなかったのね。私が呼んだの、ソシエさんのことで……」
「ソシエの? それに、もう踏み込んだって」
「そこは聞いていたのか」
ソシエはやれやれと首を振る。開かれた瞳には呆れと、謎めいた憐れみがうかがえた。
「ソシエには連絡がつかない。当然だ、今、ソルシエール・デラルテは『こちら側』にいない」
こちら側。倫理の法に縛られ、物理の力に抑えられる。幻想か弱き知性の世。受け継がれた理性によって鎧をまとう鋼の大地。
全てが曖昧模糊な混沌の渦、だからこその絶対の理が存在する。己の魂のみがたよりとなる、死と生が隣り合わせになった創造と破砕の空間。
孤独。解放。自縛。芸術。学問。神秘。
ただ歩いているだけでは、たどり着けない場所。奥の奥、生半可なものでは決して踏み入ってはいけない、人としての彼岸。
今のソシエは、そこに足を踏み入れてしまっている。
それはアシュレにも理解できていた。感じ取っていた。あの仮面の目を見てしまったら、わからざるを得ない。
「止めたいんだ」
「お人好しも馬鹿のうちというぞ」
「どういうこと?」
「イズマの策略にまんまと乗せられおって」
「状況はもう、オマエたちの手の届かないところにいてしまった、ということだ。任務ご苦労」
手を振っていずこかに去ろうとするシオンの肩を掴む。
紳士にあるまじき態度、と思わないでもなかったが、そんな場合ではない。
「僕は、僕はあの兄妹をこれ以上放っておくわけにはいかないんだ」
「何をしようというのだ。見たのだろう、オマエに何ができる?」
あの男に一体何をしていたのか。魔法のように消えてしまった理屈は。何故ソシエが存在しているのか。この一連の事件の概要は、真実は。
その一片でも知っているのか。
問われれば、アシュレは首を振る。だが、
「それでも友達だ」
デラルテの二人が怪物などではないことは、考古学研究会の日々が証明している。
友達で、仲間だったのだということを。
アシュレに全く退く気がないことを悟ったシオンは、美しい相貌を陰らせる。
「わかったわかった――動きを掴んだら知らせる。イズマの動きは監視中だからな」
「見張りを?」
「人間よりもよほど頼りになる、優秀な、な」
「そうやって煙に巻くつもりだな」
「じゃあ、ここにいてやろう。手を握っておいてやろうか?」
「えっ」
からかって笑うシオンの発言に、虚をつかれたようにアルマが声をあげる。そんな彼女の様子に微笑ましそうに顔を向けた後、ソファの背もたれをポンポンと叩く。
「とにかく眠れ。そんな状態では、いざことが起きても何もできんぞ。クマができている」
半信半疑に様子をみる。されど、シオンもそれ以上譲る気がないらしい。じっと見つめられると、なんだか居心地悪くなってしまう。自分の方が悪いことをしているような。
実際、彼女がいうことにも一理あった。
渋々、再びソファに横になる。なんだかんだまだまだ身体は疲れていた。あっという間に睡魔がアシュレの疑いを殺し、眠りに誘う。
「やれやれだ」
最後に、シオンの愛らしい苦笑を子守唄にして。
○
瞼を光が焼く。
清らかな白い朝光ではない。静かに人を微睡みに沈める月光でもない。
抗えない不思議を伴って、切なく心臓を焦がす、夕焼けだ。
「騙された!」
窓から刺す光の正体に気づき、アシュレは飛び起きる。アルマもアシュレの叫びに、目を擦りながら起き上った。アルマもほとんど毎晩夜回りに付き合っていたのだ、眠かったのは彼女も同じ。
同じソファで、いつのまにか抱き合うように眠りこんでいた。
「ご、ごめん!」
「あ、う、ううん! 私はいいわ。でも、いつの間にか何時間も寝てたみたいね」
眠りについたのは昼だというのに、時計をみれば既に夕暮れ。夜が差し迫っている。
きちんと眠ったおかげで、起きてすぐでも頭は動いている。
とりあえず、シオンとイズマは自分の知らない何かを知っているのだろう。まずはあの二人に事情を聴くのが一番早いか?
「嫌な予感がする、早く追いつかないと」
じっとしている間に、とんでもない結果になってしまう。そんな根拠のない焦燥がある。二度と言葉を伝えられなくなる、そんな危機感。
慌てて身支度をしていると、ピンポンと軽快なチャイム音が邪魔をする。
「お届け物です」
高らかな男性配達員の声が、扉越しにくぐもって耳朶をうつ。
「ああもう、こんなときに!」
舌打ちしたい気持ちを堪え、玄関に荷物を迎え入れた。サインを書く時間すらじれったい。だが、それは差出人の名を確認した瞬間に変わる。まるで時間が止まったような違和感と確信に。
ソルシエール・デラルテ。
意外と強い筆圧で、しっかりと書かれた少女の名。
慎重に机のうえに置き、発泡スチロールの箱の蓋を持ち上げる。
なかには更に小ぶりな箱が仕舞われていた。保冷剤が詰めてあるあたり、食品らしい。
鮮やかなレッドの包装紙に、鈍い金色のリボン。
「これ……ソシエさんが作ろうとしてた……」
アルマが箱を見て呟いた。心当たりがあるらしい。やはり、彼女からのもので間違いない。アシュレは緊張とともに、そっと優しい手つきでリボンを解いていく。
中にあったのは、チョコレートだった。プロ顔負けの腕前で作られた、繊細な意匠の菓子。表面にはメッセージが刻まれている。普通のものではない。なにせ、メッセージが時折浮き上がって宙を泳いでいるのだから。
脈動のように強弱の発光を繰り返す文字列。そのなかで、末尾の一文だけは微動だにせず、己を主張していた。
『Yes or No』
消えゆく意思のように頼りないアルファベットのなかでの、招待状のような一文。
――ああ、きっとこれは彼女からの招待状。
そして最後の声。パーミッションであり、「助けて」という願い。
「いかなくちゃ」
これを受け入れれば、きっと彼女の元へ行ける。
意を決して、チョコレートを食べようとした手に、白い手が重なった。
「言ったでしょう、一人より二人よ」
「……わかった」
あの日と同じだ。どうせダメだ、危ないといっても来る。危ないくらいに優しい。
真ん中で真っ二つは少々しのびない。チョコレートの端をパキンと割り、同時に口に含む。
チョコレートは羽のように軽く、ほんのりと甘い。ミルクチョコレートだろうか。舌のうえで蕩けていくのは、チョコレートだけでない。視界も人や家具の線がほどけ、混ざり合う。
次第に部屋以外の光景が混じり、浮かぶ。
やがて、夕暮れは暗闇に浸食される。変異が終った時、外は窓の向こうではなくうちにあった。世界と自身を隔てる窓枠そのものがない。
浮かぶのは、青白い月。美しい死体の頬のように。いっそう強く燃え上がる炎のように。空は煌々と、青々と、月光で満たされていた。
視界を塞いで乱立するのは、柱。天に伸ばされた手に似て、骨のような色は月光のせいか、奇妙な生気を放つ。中央には丸い石舞台。そこでぽつんと立つ誰か。
「ソシエ!」
声をかけても、今度の彼女はそこにあるまま。
振り返ったソシエの貌に、表情はなかった。これから作るのだ、といわんばかりの『空白』がそこにあった。