第四夜 仮面挟劇
誰もが眠って起きない夜を、覚えているか。
いいえ、いいえ。誰も、そんな夜は知らない。知っているのは、冷たく騒がしい、形のない咢のような、闇だろう。死んだように眠る夜は、心の中にしかありはしない。
持つべき顔のない仮面は、深い深い、更けていく夜に似ている。
明るい日の下を、影を探すように歩く日は。誰もいない部屋で一人、全てのものが消えてしまったような気持ちで踊る日は。
死んだ夜が、現実にこぼれでたようだと、ソシエは思う。
死んだからには、生きたものの手からそれらは離れる。そうして向こう側に向かう行為は、かつての自分の心を少しずつ捧げていく気持ちになる。
捧げた分の様々は、神のもの。代価にできあがったものが良いか悪いか、神様だけが知っている。
努力が報われるとは限らない。せいぜい神に気に入られるよう、腕を磨くしかない。
○
そう教えられ、ひたすら舞ってきた日々と比べると、目の前の練習がちゃちに思える。
一月初期。一か月後に控えた仮面舞踏会に控え、生徒がペアを組んで練習している。
面打ちの家系として鍛錬を積んできた自分と比べるのも、酷な話だが。
(……残念だなあ)
普通の服と、舞踏会で用いるドレスでは全く勝手が違う。
だから練習も、本番で使用するものより安価で簡素なものとはいえ、ドレスを着用する。レースがついていて、回るとぶわりと広がって。
華美なものは苦手だが、綺麗なものは好きだ。ましてやドレスなど日常で着れるものではない。一応、着物ならばよく着るけれど。
(いいなあ)
素直に口に出したら不信がられてしまう。なにせ、今ぼうっと練習を眺めているのはソシエ――ではなく、アルなのだから。
男ではドレスなんて着られない。
「アル? 踊らないのか」
「うわっ?!」
突然話しかけられて、肩が跳ねる。驚いた。少々、物思いに沈み過ぎようだ。自分で自分の声にびっくりしてしまったぐらい。
横をみれば、ペットボトルをもったアシュレが隣に腰をかけるところだった。
先程までの自分と同じく、舞台制作に駆り出されていたのだろう。冬だというのに、動き回って白い頬がうっすら赤く色づいている。
ソシエも伝う汗をタオルで拭いていた。汗が乾いたら、温度差に風邪をひいてしまいそうだ。
「悪い悪い、ちょっとぼうっとしてて。そっちもお疲れ様」
「この短期間で一から作れって、なかなかハードだよね。先生が手伝ってくれるからまだなんとかなるけれど」
「ああ、見た見た。さっき、ノーマン先生がすっごい大きい資材運んでたの。ゴドラなんか、風紀委員のアスカちゃんに思いっきり尻蹴られて手伝ってたぜ」
二人の生徒の名をあげる。風の噂によれば、どうにもラーメンを食べに行った際、アスカと鉢合わせしたらしい。その後、あれこれ雑用に走りまわされているようである。
この学校は、教師も生徒も強かだ。
「えっと、それで、踊りだっけ? いやあ、さすがにこの格好じゃねえ。血が騒がないっていったら嘘になるけれど、相手もいなしなー。その点、アシュレくんは迷いどころだよなぁ」
兄らしく肩をすくめてみせる。演技とはいえ、自分の発言にちょっと傷つく。しかし、実際モテるだろう。どうしてようもない事実だ。
アシュレは困ったような笑みを浮かべ、頬をかく。
今更ながら、視線が近い。身体の位置ももちろんだが、兄の身長だと視線の高さがほぼ同位置なので、秀麗な美貌がよく見えるのだ。
――ドレスが着れないのは残念だけれど、こういうところは得だわね。
少し、ほんの少しだけ、頬が緩む。
ソシエだったらこんなに親しく話せない。悔しいけれど、兄の方が仲がいいのだ。性格だって……。
「そう? 思えばアルの踊りは見たことがないから、興味があったのに」
「『は』?」
反射的に問い返してから思い出す。
そういえば、火事に遭った日の放課後、そんなことがあったような?
同時に、勢いでやってしまった様々も。
しかしアルには、相談はしてもぼかした気がする。リアリティのある演技を保つためには、知らないていでいったほうがやりやすい。
内心激しく転げまわりながら、素知らぬ顔を向ける。
「うん、ソシエの踊りは、たまたま見せてもらったことがあって」
――やっぱりか!
「すごく綺麗だったよ。人間の身体であそこまで表現できるんだって。台詞は全然ないのに、見ているうちに何をやっているのか、どういう意味が込められているのか、伝わってくる……君の言う通りだった」
「ふふ、そう? じゃ、俺の目は確かだってことだな」
――なにいいやがった、あの人!?
言う通り、ということは褒めたのだろうか。自分の知らないところで、何をハードルあげちゃってくれているのか。
しかも、憧れの人からのべた褒め。まだまだ未熟な踊ではあれ、そこまでいわれて嬉しくないはずがない。
今、平然とした顔を保っていられる己を讃える。随分演技の腕があがったようだ。
「そこまでいってくれるのは本当に嬉しい。でも、そろそろ日も落ちるし、やっぱり無理かなあ。いずれ機会でもあればね。練習して披露するよ」
壁にかけられた時計は、午後の五時をさしている。これが夏ならまだまだ動けるのだが。
兄のふりをして踊るなど、荷が重い。
もしも生きて復讐を終えたとしても、また試練が待っていそうである。
「悪いんだけれど、今日は疲れたから帰らせてもらおうか。いや、悪いねホント」
動き回って、身体が重い。《ク・ルグル》の力か、身体能力も兄、ひいては男性なみ。本当はまだまだ余裕がある。
「わかった、また明日」
「おう、また明日ね。みんなの晴れ姿が、今から楽しみだよ」
最も、仮面舞踏会だろうが、成人式だろうが、卒業式だろうが。これからもずっとずっと、どの晴れ舞台であろうと、ソシエは着たい服は着られない。
それだけは本当に残念だ。
まだ会ったばかりなのにもう離れなければいけないことに嘆息しつつ、アシュレに背を向ける。
夜が更けるのは、これからなのだ。
○
仮眠から目覚め、薄闇がソシエを迎えた。
身体の輪郭もあやふやになるような、甘い闇のなかで身を起こす。
枕元の目覚まし時計を確かめる。時刻は午後の十時。体内時計はきっちり働いてくれたようである。もし、アラームの音が隣室の住民にでもきかれたら、困る。
疑われる可能性は少しでも減らしたい。
足音を消すのは、昔からの特技だ。ベッドから滑るように抜け出て、落ち着く服に着替える。早着替えだって舞台ではいつものこと。
服は買えようと思えば、どうにでも変わる。動きやすいか否かより、気持ちが強く持てるものがいい。
そう思うと、多少手間がかかっても和服が一番落ち着いた。
高校卒業の際、父が仕立ててくれた一着。光沢のある白い生地は、離れてみれば死に装束のように見えてしまうかもしれない。
だが着心地は抜群。袖に描かれた花散る薄紅が美しい。一枚一枚の花弁は大きく、卒業に定番の桜ではない。恐らく木蓮の花であろう。
「よし」
暗示を兼ねて、小さく呟く。窓を開けば、風の音にかき消されてしまいそうなほどの小声。
祈るように胸に手をあててから、顔を覆う。
次に手をどかせば、そこには警備員の服をきた、至って平凡な男の顔。
懐中電灯をもって、部屋を出るときだけ用心する。誰にも見られていないことを確認すれば、あとは堂々とでていけばよい。
警備員の顔など誰も覚えていない。あとから、本物の警備員でないと発覚しても、誰でもないのだから不審者の警告が行われて、おしまいだ。
寮を出ようとしても玄関に鍵が掛けられているが、問題ない。以前、管理人の姿を装って管理人室に侵入、合鍵の型を制作済みである。
ここ毎日は、これで無事脱出できている。繰り返せば、それだけ気づかれる機会も増えてしまう。そろそろ別の方法も考えた方がいいかもしれない。
考え事をしつつ、スマートフォンを取り出した。
地図にあれこれ書き込みができるアプリケーションを開く。
ここ最近の、放火魔の出没位置は概ね書き込んであるはずだ。
これを見れば、捜索範囲がぐっと狭まる。
予測地を月明かりと懐中電灯を頼りに巡っていく。姿はまた、警備員から暖かそうなジャンパーを羽織った茶髪の女に変わっている。
上着ポケットに手を突っ込んで、猫背でサンダル。小道具にコンビニ袋をさげれば、夜中に歩き回るのも不自然ではない。
一見気怠けな仕事終わりのOLを装う一方で、意識を研ぎ澄ませる。自分を中心にぴんと張られた、緊張の糸。憎悪と使命感に粘ついた、復讐の巣。
数十分も経った頃、『巣』の網に獲物がかかった。
放火を行うのは彼ら自身の意思とはいえ、その裏には『奴』がいる。ソシエの憎しみがそうさせるのであろうか、近づけば放火犯どもの位置はわかるのだ。
影に潜り込み、影も呑み込む闇から闇へ駆け抜ける。舞台のそでを渡るように。横凪に払うスポットライトのように。残像は瞼の裏にかすかに残るだけ、たとえ目撃されても幻だと思ってしまう身軽さで。
――見つけた。
すっかり慣れたソシエの嗅覚は、鋭く特徴的な石油の臭いをかぎつける。
全身をアドレナリンが駆け巡った。もう少しでたどり着くぞ、百メートル、五十メートル、ほら十メートル!
途中で壁を駆け昇り、屋根から屋根をウサギのように移動する。
冷たい風が首筋を撫でる、そのまま生首をもっていかれそうだ。
人の気配がない民家を飛び越えようとしたところで、家と家、壁と壁の間、狭い狭い路地に立つ一人の男がいた。
臭う、臭う、ぷんぷんと。胸の悪くなる石油の臭いが。
「何をしている?」
Uターンを決めて身を翻し、回転のエネルギーで一際大きく跳ぶ。
男が声に頭上をみあげ、そして息をのむ。
どこにでもいそうなだらしない女が、満面の笑みで降ってきたのだ。仰天に目を見開き、口から泡を吹かんばかりである。
「そうだ、お前だ、なあお前、火をつけようとしていたな? 放火魔だろう」
「ち、ちが……いや! お前こそなんだ、不審者め! 俺はこの家のものだ、警察を呼ぶぞ!」
どうやら開き直ることにしたようだ。勢いで押せるような相手に見えたのだろうか。
「こんな路地に? 石油をもって? 臭うのよ、鼻が溶けちゃいそうなくらいにさ」
間合いを詰め、相手の鼻を掴む。相手が反応するよりも先に、強くねじ上げて、平手打ちのように横に払う。
力が入りすぎたのか、細く赤い筋が通った。大したことはない、微量の出血だ。
だというのに、男は大仰にかぶりを振った。目を充血させ、ソシエを睨む。
「なんなんだ、いきなり!? おかしいんじゃ」
「イカれてるのはアンタよォ!」
全力で男の脛を蹴りあげる。男はそのまま姿勢を崩し、地面に四肢を投げ出す。手から容器は投げ出され、地面に水たまりが広がった。
「そりゃあねえ、あんたみたいな三流役者がこんなふざけた大舞台を作るはずがない。街ひとつ騒がして、そのうえせっかくのステージを焼いちまおうだなんて業も肝っ玉もないでしょうね」
追撃。男の腹を、靴底で踏みにじる。
「監督がいる、そいつがあんたの不平不満に形を与えた。とびきりふざけていて、悪趣味な演出家よ。シナリオなんててんでなっちゃいないわ。でも、悔しいことに三流を使ったエンタメはお得意のようねぇ?」
この火事は、何者かによって企画されたもの。
《ク・ルグル》を被った時に、それを知った。兄の炎を放った凶手への恐れと怒りが、ソシエの脳髄に流れ込んできたのだ。
ならばきっと、それはあいつに違いない。あの夜の来訪者――シャハトヘイヴ。
どうにも奴には、人の心の暗い部分に這入り込む術があるらしい。
仮面だって不可思議な力を持っているのだから、有り得ないことではない。
こいつは、そこにつけこまれた。そういう意味では、被害者だ。しかし。
「悪意に、欲求に従うことを選んだのは! お前だ、人の知性を、理性を捨てた、けだものめ!」
そんなけだものどもに。シャハトに、放火魔どもに、復讐するために。
あの日、何もかもが崩れ落ちた館の跡で、絶叫したソシエの気持ちを。蛇の舌のように蠢く炎に骨の髄まで舐めつくされ、火だるまになって叫ぶこともできず、絶えた兄の苦しみを。
脳みその奥の奥、海馬が焼き切れるまでねじり込んでやるために。
ソシエもまた、人をやめた。
激情のまま人間の魂を犯す、魔女となった。
「見せてみろ、その腐った脳髄を。まだ爛れていないところがあるか? 今からそこを焼き潰してやる、くだらないお飾りの自尊心なんかゴミになるくらいに! お前の悪を、私の悪で……殺してやる……殺してやるッ!」
腰が抜けたらしい。這いずって逃げようとする男の背に、馬乗りになって押さえつける。
そうして男の顔面を掌で覆う。いつもならここで、感情を引き出し、『焼死体』の役を与え、心を殺すだけ。
けれど。
――駄目だ、たりない。おいつけない。
ずっとこうやって、放火魔どもの感情から訴えを引き出すだけでは、曖昧に過ぎる。いくつも重なれば、主犯たるシャハトにたどり着けるかもしれないが、きっと手遅れになるだろう。
もっと、早く、確実に、明確な、情報を。――記憶を。
求めるまま、ソシエは意識を集中させた。身体が浮遊し、現実から切り離されたような錯覚に陥る。
ソシエの視野は猫のように冴えわたり、指先一本に至るまで感覚は機敏になり、衣擦れひとつすら心の臓に突き刺さった。
無自覚のうち、白く柔いソシエの身体が弓なりに痙攣する。三次元からソシエの感覚が切り離され、相手の意識の表面に触れる。
むき出しの『脳』に触れ、津波のような情報が互いを襲う。
今までにない状態だ。
ソシエはわずかにあえぎながらも、探索の手を止めなかった。
そのまま、脳裏の奥底にまで己のそれを射込む。男のくぐもった声は、沈みゆくソシエには届かない。
必要な記憶を求め、一般市民に過ぎない男の意識を乱暴にかき乱していく。
そうして隅々まで荒らしまわり、ようやくたどり着いた。
――あった!
記憶の底も底。本人すら覚えていないだろう深層。そこに濃厚な、土蜘蛛の男の気配がある。
忌々しく懐かしい気配に、ソシエは手を伸ばす。
「お前は、もう戻れない」
宣告。そして、招待。
男の記憶に残されていたのは、シャハトからの伝言。無残なソシエへの一言とともに、叩きつけられた図星。彼と彼女の、最終幕への誘い。
目が覚める。ソシエの下には、脱力して動かなくなった男――既に廃人になっている――が横たわっていたが、もはやどうでもよかった。
「ふざけるな」
声が漏れ出る。
「ふざけるな、」
苦しみが零れ出る。
「ふざけるな――ここまで、こんなことまで、全部」
怒りが、噴き出す。
「全部、アイツの仕組んだシナリオだっていうのか! 私が、私が――」
言葉にならない絶叫を嘔吐する。
心臓が熱い。喉が熱い。顔が、熱い。
内側から焼かれるようだ。たまらず顔を掻き毟り、激しく身もだえした。
姿は元のソシエのものに戻り、黒い髪が波打つ。
「……ソシエ?」
そんな声が背にかけられるのと、すっかりソシエの顔と同じ造りになった仮面がアシュレを捉えるのと同時に。
魔女ソシエの意識は、神へと捧げられた。
狂える女の叫びが、いたく気に入ったとでもいうように。