第三夜:月光後夜(上)
君は、水を掴むことができるだろうか。手から一滴も、まあるい滴を落とすことなく。
自らが秀才でしかなく、彼女が天才であるのは、透明な水を透明なまま掌で受け止められるからなのだと、彼はいった。
どこか遠い目をして、グラスのなかの水を舐めて。溜め息交じりにこぼしたのは、アルヴィーゼ・デラルテ。アシュレの友人であった。
○
ふと、目が覚めた。
首元まで暖かく分厚い毛布が覆っている。上半身を起こせば、カーテンの隙間から目元に冴え冴えとした月光が差し込む。光は冷たい指先が熱を求めて伸びるように、細く脆い黄金の橋を床に繋いでいた。
寝床から足を出す。冷たい。はだしの足裏から、急速に熱が奪われていく。
カーテンを閉じようとして、手を止めた。気紛れに、逆に大きく開いてみる。
のっぺりと世界を区切るガラスの向こうでは、まだらの煌めきが踊っていた。見上げれば、大きな月の前を千切れた雲が漂う。
冷え切った夜だ。
「……」
じっとり人民を睥睨する白い眼玉を睨み、アシュレは一人の友を思い出す。
アル。彼は冷たくはない。だが、スポットライトのような光柱を見ていると、何故か脳の奥から飛び出してきたのだ。
――最近、彼はちょっと変だ。
どこが変かといわれると、戸惑う。無論、家族を喪って平常でいられるはずがないのだが……そういうことではないのだ。
そっと目を閉じる。
アシュレがアルと出会ったのは、考古学研究会であった。
異様なほどに白い肌は、かつて地下深くで暮らしていたという一族:《土蜘蛛》の特徴。幅広い人種が揃う《アカデミー》でも土蜘蛛は目立つ。独特の雰囲気があるのだ。
《アカデミー》のある地域では、かつて土蜘蛛を仇敵として疎んでいた過去の影響もあるかもしれない。つまり、あまりいい意味で注目される存在ではなかった。
しかも、《アカデミー》内にいる土蜘蛛といったら、誰も彼もが一癖も二癖もあるようなものばかり。
例えば、双子の姉妹であるエレヒメラ・ウィリ・ベッサリオンとエルマメイム。通称エレとエルマは、しょっちゅう非常勤講師のイズマを追いかけまわす姿を目撃されている。
アシュレも、ヒラヒラ逃げるイズマに業を煮やして研究室に忍び込み、保健体育教師のノーマンにつまみ出され、優しく軽い説教を受けているのを見たことがあった。
そのイズマもまた奇怪な人物で、やれ七人の妻がいる(多すぎて数えるのをやめたというバージョンもあった)だの、実は人型に擬態したUMAだの、どこぞの国の貴族だの、年末の打ち上げに女装してきただの……荒唐無稽な噂が飛び交って、そのくせ素性はさっぱりわからない。
そういった濃いメンツばかりであるから、デラルテ家の兄妹といえば色んな意味で『ほんの少し』だけ浮いた存在であった。
その浮具合は、風に吹かれた蜘蛛の糸の如く細やかでふんわりとしたもの。だが気配に敏感な二人は、しっかりと空気の流れを感じ取っていたようだった。
大人しく、問題行動もごくまれに妹が癇癪を起す程度で、少ない。兄に至っては優等生といってもよかった。
露骨に避けるには協調性があり、理由はなくとも近寄りがたい程度には異なっている。彼らが代々続く面打ちの家系で、『演劇』に詳しいというのも原因のひとつであったようだ。
そんな兄妹とアシュレたちが出会ったのは、考古学同好会。なんてことはない。同じ趣味を持つ部活仲間という関係である。
話を聞くに、恐らく演劇部と兼部かと思えば、そうでもないという。なんでも古物、特に祭具に興味があるとのことだった。
話してみれば、アルはおせっかいなほど面倒見がよく、聞き上手。気が付けばそこにいる、いつの間にか会話に加わっている。
そんな調子で、アシュレともそれなりの友情を築いていた。
彼の妹が死んだ今。思えば、彼とはあたりさわりのない会話が多かった。そのなかで、ひとつ浮き出た思い出がある。
――もしや、そこにソシエの死の真相が隠れているのではないか。
事件の後、帰ってきたアルは以前とはどこか違う。
しぐさも口調も彼そのものなのだが、何かが『そのままでない』のだ。
聞けば、彼以外の全員が死んだ火事は放火であったという。もしや、それが彼の心に影を落としているのではなかろうか。
もし、表面に出ていないだけで、彼が酷く苦しんでいるのなら。友達として何かできないだろうか。
下手に藪を突けば蛇がでる。傷を抉れば化膿する。
だが、無難なところで済ませれば、後で取り返しがつかなくなることがある。それもちゃんと知っていた。
確か、半年ほど前だっただろうか。
同時期に研究テーマが「祭り」に決まり、アルが大量の資料を読み漁っていたのでなんとなく覚えている。
○
その時の最初の発言が、こうだった。
「誰を見ているんだ?」
アシュレが『とある光景』を発見し、つい窓から見つめてしまっていた時だった。気まずい思いがして振り返ると、アルが自身の胸に押し付けるようにして大量の本を抱え込んでいた。
「えっと、あの」
「外に珍しいものでもあったか? 気になるねぇ」
見ている方がハラハラする本の山を持ったまま、アルは慌てるアシュレを半ば無視し、窓際に近寄る。本が微塵も動かない姿勢のよさとバランス感覚に驚きつつ、視線を右往左往。
止めれば怪しいことをしていました、と認めるようなもの。
ほんのわずかの逡巡の間に、窓の外を覗き込まれてしまう。
「……ん?」
そこにいたのは、二人の少女。いずれも絶世の美少女である。
かたや、柔和な笑みを浮かべ、ぴんとした背筋に品位と知性が現れる才媛。
もうかたや、緩く開かれた足に豪胆と強い意志、華奢な体躯に可憐さ。強かさと繊細さが奇跡のように溶け合った、現代の姫騎士。
「ほおー、アシュレくん、ヴァントラーさんとベリオーニさんを見てたんだー」
アルマが手入れをしていたのだろう。花壇の前で和やかに談笑をする二人を見つけ、アルは納得したように一人ごちる。
アルマステラ・ヴァントラー。シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ。二人に交友があるとは今までアシュレも存じぬことであった。
それぞれ異なる美の結晶のような少女たちが楽しそうに笑いあっている。さながら、この世の楽園。天上の花畑である。
緩く吊り上った口角に、微かな愉悦が滲む。
「こ、これは」
「ああ、大丈夫大丈夫。別に覗き趣味を疑ってるとかそういうんじゃないし。美少女がいたら見ちゃうんだよなぁ、すごくわかる。しかも二人となったら」
そう、そうだ。自分はたまたま二人を見かけてしまっただけで、他意は――
「それで、どっちが好きなのさ」
時間がとまった。
――バレている。
一瞬でもそう思ってしまった。
「あ、やっぱり好きな子がいるんだな。そうだよなぁ、すっごい見惚れてたもんなぁ。いいね、青春だね!」
「えーっと」
「別に無理して言わなくてもいいぜ。俺の好奇心だから。二人とも美少女っていうのは本当だし。優美って、ヴァントラーさんのためにあるような言葉なんだよなぁ」
「……うん。いつも僕たちを助けてくれるしね」
「それを見せびらかすでもなくて。別にもっと胸を張ってくれてもいいのに。なんだか申し訳ないぐらい。ベリオーニさんは」
「彼女たちは凄いよ。シオン……ザフィルさんは、あんなに若いのに、飛び級でもう《フォーカス》の発掘・研究にも参加している。院生として勉学も立派に努めていて、なのにいつも凛々しく強く振舞う。本当に凄い」
《フォーカス》というのは、謎の多いアーティファクト的な存在……らしい。らしいというのは、そもそもそれがなんであるか自体がわかっていないからだ。
材質は全くもって不明。用途はバラバラで、長きの研究に渡ってようやく判明するものも少なくなかった。
《フォーカス》が存在する場所は様々で、例えば遺跡に安置されていることがある。しかしそこは多量の凶悪な罠や、貴重な《フォーカス》に目をつけた賊と戦わねばならないこともあり、高い能力を求められてしまう。
「へえ、つまりアシュレくんはベリオーニさんに憧れているわけだ。いやあ、いいねえ」
横を向くと、ニヤニヤ意地悪く笑うアルがいた。細められた瞳は、蜘蛛というより狐に似ている。
「いや、ああ、そうだね……うん、尊敬しているよ」
「うん、思わず目で追って見惚れちゃうぐらいご執心なわけだ」
「そういう言い方だとまるで――」
口籠る。放たれかけた言葉の半分は本音で、もう半分は色んな感情のごった煮。急に、未確定な『自覚』が浮き上がってくる。
アシュレ自身、シオンをどう思っているか、はっきりわからないのだ。
逞しく活躍するシオンに憧れを抱いているのは本当だ。しかし、だったら、素直にそうだといえたはずなのである。
彼女の噂を聞くと、一緒になって褒めたい気持ちが湧き上がるのに、その一方で胸の内にそっとしまっておきたい気持ちにもなる。
その本質が何なのか。アシュレは未だ直視していないが、もし見抜かれたらと思うと、堪らなく気恥ずかしい。悪いとは思わないが、兎に角心臓が跳ねて頬が熱くなっていく。
そういう感情だった。
「知って、どうするつもり?」
アシュレは質問を変えた。
「じゃあ、とりあえず……ゆっくりランチでも? アシュレ君のおごりで」
○
トラットリア・ステッラ。秘密の保持と引き換えに連れて行かれたのは、大衆向けのレストランだった。
店の前に、小さな黒板が置かれて「オススメ」が書かれていたが、値段も良心的らしい。二人用のテーブル席に着くと、早速メニューを広げる。
アルはさっさと決めてしまい、すぐに閉じて、メニューを確認しているアシュレをじっと見ていた。普段よくしゃべる彼が黙ってみているだけだと、妙にむず痒くなる。
数十秒ほど沈黙を守っていたアルだが、店員が水を持ってきたのが彼の中でキッカケになったのか。不意に口を開く。
「俺さ、妹がいるんだよね」
「ん? ああ、らしいね」
「今度、研究会に連れてきたいんだけれど、いいか。ほら、研究テーマも祭りだろ。神楽ってあるじゃないか、あの子はそういうの詳しいから」
「勿論いいよ。手伝ってくれるのなら有難いな」
調子よく返す。しかし、アルの表情に笑顔は浮かんでいない。いつもの彼なら、『お願い』が通ったことに過剰なくらい大仰に喜んで見せそうなものだが。
どうかしたのか、とアシュレはきく。アルは水を一口含み、テーブルに置き直すことなくグラスを手元で弄ぶ。
「アシュレ君ってさ、水を掴もうとしたことある?」
「水を?」
「そう、水を。昔、父さんに人間以外の役を演じる練習をさせられてことがあってね。その課題自体は俺に出されたんだけど、ソシエ……妹が話聞いてて。でも一部だけ。なんだったかな、多分、魔性のものは綺麗なものを綺麗なまま持ってくるんだ、とかそういうのだった気がする」
浮世離れして、幻想のように綺麗なものは人が触れた途端『俗』になる。自然の世界から区切られて、あちらからこちらへやってきてしまう。
抽象的な話だ。当時のアルは散々に悩んだ。それをソシエは、文字通りに実行すればよいと考えたという。
「まだ七歳のちっちゃな手にいっぱいに水を汲んできたんだ」
アシュレは黙って話を聞く。ちびちびと口を湿らせて話す様子は神妙で、彼にとって何か大きな意味を持つ話なのだろうと、どことなく感じた。
「それで、それでさ……びっくりしたんだよなぁ。水が、落ちないんだ」
「水が落ちないって?」
「文字通り。普通、水を掬ったら指の隙間から水滴が落ちていく。どんどん手の中の水がなくなっていってしまう。泥混じりだったり、心理的な忌避を覚えたり。人の手だと頭の隅で『汚れてる』って思う。もう自然のままのものじゃないんだよ。
でも、ソシエの水は落ちなかった。一滴も。何分も持って、できたよって周りの人に走って見せて回って、それでも落ちなかった。
なあアシュレ君、天才と秀才の違いってなんだと思う? 世の中色んな才能がある。
でも俺は、きっと優秀な奴が天才なんじゃなくて、できないことをできるのが天才なんだって思ったね。なんていうか、理屈じゃないんだ。」
ふう。羽のように軽い溜め息をつき、やっとアルはグラスを置く。
そしてようやく笑って、いきなりごめんと謝った。
「前置きが長くなったな。要はさ、ちょっと心配なんだ。妹が。多分あの子は、自分が、あー……女の子だから父さんに疎まれてると思ってる。でも、そうじゃない。あれは半分嫉妬。とにかく、ちょっと自信がないっていうか、心が不安定なんだ」
「それで、研究会で何か自信が持てるといい……ってこと?」
「そう! 話が早くて助かるぜ。別に大したことはしてくれなくていいんだ。ただ、普通にあの子と話してくれればありがたい。家の外でも普通にふるまえれば、それだけでずっと楽になると思う」
「うん、わかった。普通に話せばいいんだね」
「頼む。なんだろうね、君ならなんとかしてくれる気がするんだ」
おごれ、といったのは、この話をするための方便だったのかもしれない。
何故なら、彼はきっちりと自分の分の食事代を払っていったからだ。
呼び止める前に、逃げるように去って行ってしまったから、真意はわからない。
肩肘を張ったソルシエールが部室にやってきたのは、その一週間後のことだ。




