第一夜:炎上開幕
死者が道を歩いている。だが誰も、それが死者とは気づかない。
広い街道を独り歩む彼は、放火によって家を失った『アルヴィーゼ・デラルテ』。人も少ない夕方にどうしてここにいるかといえば、引っ越しだ。ある事情から、自身が通う学校の寮に移るしかなかったのだ。荷物は一月に既に整えてある。代々面打を家業とする名家デラルテ家、その唯一の生き残りとして遺産は十分に残っていた。
所属校はエクストラム付属大学・通称 《アカデミー》。幼児から小中高大までの一貫教育を行うシステムがある巨大な教育機関だ。
奇跡的に軽傷で済んだとはいえ、短期の入院。何より精神的な問題と主張し、しばらく引きこもっていた。この悠然とそびえる校門をくぐるのは、実にまるまる一ヶ月ぶりである。
特に大事なものを詰めたトランクを手から提げ、堂々と中へ入っていく。優雅なもので、どこからか花の香りが漂ってきた。
顔の横を流れる髪をそっとすくい、周囲を見やる。刻は放課後。日も落ちるのが早い時期だが、何人もの生徒がせわしなく動き回っていた。
何十人かが目の端に映った人影に反応し、振り向く。さらにうち何人かが驚いたように目を見開くが、それだけだ。声をかけてくるものはいない。忙しいのか、気まずいのか。
どちらにせよ、新年が始まってすぐに起きた事件など既にどうでもいい記憶になりかけているのだ。
二月も二週目が近づいているのも大きいだろう。アカデミーでは二月中旬に仮面舞踏会が催される。
大きなホールをまるまる使った盛大なもので、基本的に内装や手配は生徒が行う。これはなかなか挑戦だとは思うが、良家のご子息もそれなりに属しているため彼らの能力を実践で伸ばす意図もあるのかもしれない。
どちらにせよ、生徒たちが大きな期待と労働に踊る時に、彼は帰ってきたのだ。
――人間なんて所詮こんなもの……
「アル!」
「えっ」
憂鬱の海に沈みかけたところで、若者の声が暗い心の波を割った。
よく知った声。優しげで、よく通る、でもしっかりとした芯が通った、あの人らしい声。
「アシュレ?」
対し、己の喉から発せられたはずの音は聞き覚えがない。
自分で聞く自身の声は、頭にある細胞組織や骨を貫通した後に耳へと届く。そのせいだ。
違和感に苦笑を浮かべ、振り向く。そこにいたのはやはりアシュレ――『アル』の友人がいた。作業中であったのか、動きやすいジャージに身を包んでいる。
「久しぶり。その、体の方は大丈夫?」
「ああ。平気だ、ありがとな。あー……そろそろ仮面舞踏会なんだよなぁ。忘れてたわ」
「みんな楽しみにしてる」
当たり障りのない会話には、彼の遠慮が感じられた。
残酷な形で全てを喪った友人に、なんと声をかければよいか迷っているのだと手に取るようにわかる。
学内でも、天才とたたえられるほどの好成績を弾き出す明晰な頭脳と肉体。教師に舌を巻かせることも珍しくない鮮やかな弁論を披露する口が、言葉を選びかねていた。彼はその名誉を驕らない、とても優しい人なのだ。
「俺は、大丈夫」
――『俺』はね。
微笑みかければアシュレも笑みを返す。これで納得するほど自己中心的な男ではないが、なお追及しても無駄だともわかってくれる。
人が死ぬ、とは本当に繊細なことだ。世の愚鈍さとは裏腹に。
「ソルシエールのことは……寂しいよ」
「……ありがとう。君のような友人がもてて、あの子も幸せだったろう」
『妹』の死に悲しみを示され、首筋が泡立つ。猫に舐められたようなこそばゆさと背徳感、昏い悦び。官能に近い快感に緩みかける唇を、懸命な思いで、前向きに生きようとする青年のものに偽装する。
――ああアシュレさん、そのソルシエールはここにいるのよ!
「舞踏会の準備がどうなっているか気になるが、今日は色々やることがあるから部屋に戻らせてもらう。悪いね」
あの子の分も生きなくては、とはたとえ芝居でもいえなかった。
しかし『アル』はいつまでも哀しみと怒りに浸るような性格ではない。半ば強引に話題を変え、生活への意欲があると明るくふるまう。
「そうか、呼び止めてごめん。暇になったら連絡をくれ、案内するから」
「すまない。ああ、そうだ、電話番号教えて貰ってもいいか?」
「え?」
「火事でスマホも燃えちゃって。連絡先、全部入れるだけにしておいたからさ」
「ああ……うん、勿論いいよ」
我ながら口にだすと、本当に燃えてしまったのだと実感する。いつも通りに生活をしようとすると、嫌でもめにつく。
連絡をとろうと電話を取って、番号がわからない時に。
帰り道の光景がいつもと違う時に。
朝起きて家族を探したときに。
赤外線で番号とLINEを交換する。確認すると確かに彼の名前があり、心の中に暖かいものが灯った。
「よし、はいった。ありがとう」
「いえいえ。じゃあ、アル、またね。よい夜を」
「君も、アシュレ」
荷物を抱え直し、再び寮へ歩き出す。
そのアルの背に、言い忘れていたとアシュレが忠告を投げかける。
「最近、変な事件が起きてるから、夜は気をつけて!」
軽く手をあげて応じるも、今度は振り向かなった。
もうアシュレに見られる心配はない。安心して、遠慮なくニィと口角を吊り上げる。
ここ数週間、放火未遂現場で廃人状態になった犯人が発見される、という怪事件が相次いで発生している。老若男女、繋がりも何もない放火犯が次々現れる不安、彼らの無気味な結末への恐怖。異様な状況に市民は動揺し、恐怖している――らしい。
この学園の生徒は、慄くどころか祭りにソワソワしているが。
その事件の犯人である『アルヴィーゼ』こと、ソルシエールは知っている。
彼が犯人を追って、夜な夜な危険な街を歩きまわっていることを。
不可視の炎が誰かの魂を燃やす夜は、彼は己だけを見つめていると。
『アル』は与えられた部屋に入るなり、堪らずベッドに飛び込んだ。
休学中も誰かが掃除をしていてくれたようで埃はたたない、フカフカな毛布。流石巨大教育機関、部屋も一人部屋である(アルへの気遣いだったのかもしれないが、それは知らない)。
こみ上げる思いをぶつけるように、ぎゅっと毛布を抱きしめる。
もう人目を気にせずともよい。肩の力を抜き、顔を手で覆う。すっぽりと隠してしまい、上へ持ち上げるように動かす。
大きな手のひらをどかした後、スマートフォンを握りしめて転がっていたのは、一人の少女だった。
手入れのされた艶やかな長髪、お嬢様風のロングスカートに白いカーディガンという服装。先程までの男性の姿に、どことなく顔立ちが似ている。だが体つきはまるで違う。
黒い瞳で、うっとりとあらぬところを見つめる彼女こそ、ソルシエール・デラルテ。アルの妹であり、本当の生き残り。罪人を焼く仮面の魔女。
「ああ、疲れた!」
教師や役人といった面々への挨拶、説明。今日はあまりに演劇の時間が長過ぎた。
緊張に凝り固まった肩をほぐす。ごりっと嫌な音が鳴り、痛みと解放感に顔をしかめる。着替えるのも億劫だった。
学校生活を送ろうとすれば、もっと長く演技をしなくてはならない。それを思うと胸が塞がる。
「……でも」
ぽっ。頬を染め、スマートフォンの画面をタップした。電気も点けない部屋の中、暗闇をブルーライトが照らす。浮かび上がった白い顔は、LINEに加わった『アシュレ』の名を見つけてゆるゆる緩む。
「いいこともあった、かな」
もうソルシエールとしては会えないとわかっていても、嬉しかった。
彼の整った相貌と柔らかな言の葉を想起し、休みたいと叫ぶ体を起こそうとする。動かない。
思う通りにならないからだに舌打ちをする。
今日も街に繰り出さねば。休むいとまが勿体ない。
それに、『少し宜しくないことだ、不真面目だ』と自覚していても、アシュレが探しに来てくれることに愉悦を覚えてしまっている。会ったばかりなのに、すぐ「また」という願いがつもってしまう。
仄暗い歓喜。これぐらい、よいでしょう? と誰にでもなく言い訳をして、彼を思って甘い溜め息を吐く。
自分にはやらなくちゃいけないことがあるのに。
勿論、それは恋の成就ではない。
特に何の意図もなく、取り外した仮面を見やる。のっぺりとした表面に三日月の眼孔が彫られた能面。手触りはひんやりとして、肌を押し付けると吸い付くような感覚がする。
デラルテ家の家宝:《ク・ルグル》。本来は当主と跡取りの男子しか付けることを許されないもの。
この不可思議な能力といい、材質不明の感触といい、ただの仮面でないことぐらいわかる。何より、これを付けるたび心の中をかきまぜられる嫌な感じがするのだ。
こんなよくわからないもの、本当は捨ててしまいたい。
だが、ソシエはこれを使う。復讐のために。あの土蜘蛛の男を、家族と同じように殺すため。
あの外敵を滅ぼすものは自分以外に存在しない。
「……仕方ない、今日は休もう」
お風呂に入って、着替えて。布団に潜って。
まだやることは多い。効率的な作業をしよう。夜は放火犯を捕まえなくてはならないから、昼に頑張ろう。
そうすれば、
「アシュレさんに、電話ができるかも」
そのために疲れをとるのだ。
睡魔に閉じかける瞼の向こう、夢がちらほら顔を覗かせる。
淡い過去が、儚い希望の輝きが。そして、あの憎悪の炎が。
次回、過去編(当作品は中編です)