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エピローグ

 からだの輪郭がわからない。全身がしびれているということだけではない。体の中に入っているべき意思。望みも何もかも強烈に縛っていた感情が、たよりなく浮遊しているような心持。

 あれほどまで拘泥していた『何か』がすっぽり抜け落ちている。


 ソシエがソシエとして目覚めて数時間。薄い患者服ごしに柔いふくらみを持った胸が上下している。しばらく茫洋(ぼうよう)と木の葉の囁きが響く部屋で周囲をとらえていて、急に意識が覚醒した。


 自分が確かに人として、きわめて健康に生命活動を維持していると気づく。自分がいつのまにか入院していることも理解した。

 現実の、この世の病院。つるりとしたリノリウムの床。消毒のにおいが漂う紛れもないリアル。

 生きていることへの忌避、懺悔。語り掛ける亡霊、一歩道を外せば移り変わる幻想の世。成長して根を張っていた憑き物が落ちてしまっている。

 宙を漂っていた意識が脳みそに収まっていく。自己認識がくっきりとして、この体の持ち主として苦痛を知らせた。


「連れ戻されたんだ」

 戻ってきた、という気持ちはなかった。あそこにいたほうが自分は幸せだったのではないか、と今でも思う。

 身体は自分の思うとおりに動く。空気そのものと一体になり、自分という牢屋から解放された感覚は失われた。かぎづめのように曲げた指先は冷え、ソシエだけの感覚に季節を教える。冬も過ぎ春が近い。若葉の青い香りが鼻孔をつく。

 まったくもって穏やかそのもの。荒れ果てた内心とかけ離れた世界。


 消失。何もかもが燃え尽きた喪失と脱力。窓から差し込む日光が赤みを失った肌をじりじりと焼く。それでも何もする気が起きなかった。異様に心が凪いでいる。いっそ不安になるほどだ。


 いったいなにを燃やせばいいのだろう。

 恨みを薪に、憤怒を炉にしてこの数か月を生きてきた。

 失敗した、やりきった。やりきらされてしまった。かつてのように激情をともそうとも燃料が使い切られている。

 手の届くあたりはすべて探したが、仮面はない。新たな糧の決定的な欠落。狂うような虚無が、たった一人という凝縮された感性のなかで暴れていた。

 変わってしまう。いいや、逆だ。ソシエは何も変われなかった。ふがいなさを嘆く。どうしようもなさけなくて毛布を頭からかぶってくるまる。


「また一人になっちゃった」

 また、私になってしまった。

 寂しい、怖い。世界はあまりに広すぎる。あまりに未知と個にあふれている。

 ソシエなんてあっという間に押しつぶされてしまうだろう。


 コンコン、と扉をたたく音。今の状況はわからないが、死んだことになっていたソシエを訪ねるような人物は?

 肩を跳ね上げて扉を見やる。返事はしなかったがそれが『当たり前』であるようにノックの主は扉を開けた。無意識に縮こまる。それで消えられるはずもないのに。

 花束と果物をもった二人は上半身を起こす少女を見て、大きく目を見開く。

「ソシエ?」

「……先輩」

 ソシエとしたことが喉がかすれていた。お父さんに怒られる、そう思って、もういないのだとなぜか強く認識しなおす。


 個室に入ってきたのは見間違えようがない。アシュレとアルマ。大好きで大嫌いな人たち。

 一体何を言われるかとおびえる。上目遣いの視線はにらみとほとんど同じ。しかしいやな顔ひとつせず、どころか心から嬉しそうに駆け寄ってきた。行儀のいい二人にしては珍しい。

 ソシエは彼らが相好を崩すさまに怒鳴られるよりもずっと戸惑う。

 すべてこの病院で眠っている間にみた悪夢だったのだろうか。そんなわけはないと形のない痛みが激しく訴えるけれど。


「起きたんだね。調子はどう? 結構思いっきり当たっていたけれど」

「当たった?」

 いわれてみれば胸のあたりがやけに痛い気がする。こっそり覗いてみたが特に傷跡は見受けられない。不可思議に首をひねるとアシュレは頬をかいて乾いた笑い声をあげた。

「あの舞台のことは覚えてる? あのあと、ぼくが君のからだを乗っ取った《ク・ルグル》の心臓を貫いたんだ」


 《ク・ルグル》が倒れゆくと同時に仮面もまた崩れおち、倒れ伏すころには霧散した。骨舞台は蜃気楼の如く(うつ)ろいで消滅。

 残ったのは満身創痍のソシエの身体。《ク・ルグル》のちからの性質なのか不思議と外傷はなく、しかし心臓にショックを受けて昏睡状態に陥っていたのだという。

 仮面舞踏会(マスカレード)も過ぎて三月も末。その間にシオンとイズマが一連の事件の後始末をしているという。

 この場にいない二人は、失われたと思われる仮面の始末書と証拠のない真相にてんてこまいなのだそうだ。

 あれほどのつわものであっても多忙さには勝てないらしい。特にシオンは時折噴火しかけているときき、思わずクスリと笑う。


 だが自らの引き起こしたことなのだと改めて実感が戻り、表情を引き締めた。アシュレたちには急にひきつったように見えたことだろう。

「覚えていませんが、何かあったのかはわかります。自分が何をしたかも……ちゃんと覚えています」

 ソシエは胸元をさすって言う。じわりとまなじりに熱いものがこみあげてきた。二人の顔を見られない。視線をそらしてうつむく。清潔だった毛布にしとしとと透明なしずくが落ちる。


「でも私、全然後悔できていないんです。悪いことだってわかってた、わかってるのに」

 正しい行為ではなく、ましてや誰のためでもないと心の底で理解していた。それでもあれはソシエにとっては正義だったのだ。

 ふるわれる悪意に報復を望むのは自分がやりたいことそのもので、当然の意志。一時の激情に後押しされたとはいえ、まぎれもないソシエの《ねがい》だった。

 失敗し、傷ついた今でも変わっていない。


「いいと思うよ」

 自らの身勝手さを嫌悪しながら、否定できない。もっとこうしておけばうまくいったかもしれないとすら考え始めている。口惜しさに歯噛みするソシエに、アシュレは微笑む。あの日と変わらない暖かさで、けれどはっきりとした言葉でソシエの独白にこたえる。

「君はきっとそういうひとなんだ。他の誰でもない君の意志だ。間違っていると糾弾されても君にとって真実だというのなら、無理に捻じ曲げてしまう必要はない」

 僕も僕の意志で君を殺した。正しいとか間違っているとか、そういうことじゃないと思う。


「私、私は」

 両腕で自らを抱く。かけてしまった胸のなか。そこにいた無数の人、つくりあげた兄の影は語りかけてはくれない。動きたいけれど動けない。そんなソシエの代わりに動く《ちから》をくれる誰かはもういない。

「私は私をやめられないの」

 あらゆる役を演じ、心を覆い隠そうとしても成し遂げようとする意志はソシエのもの。敷かれた道は奪われてしまった。

 これがソシエだ。

 だからもうあきらめるしかない。

 自分の人生は自分で歩む。他の誰でもないソシエがソルシエール・デラルテという物語を紡ぐ。


 壊れてしまいそうだ。ひとりぼっち。まっしろ、からっぽ。伽藍の心にぽつりぽつりと思い出が浮き上がって反響する。

 零れ落ちていく。悲しみを焼いていた炎が冷めて消えていく。

 自分を作るものとしてつなぎとめていた記憶が過去になる。

「お兄ちゃんもお父さんも死んじゃった。私のなかでも死んじゃった……」

 自然と嗚咽が漏れる。黙っていたアルマがそっと背に手を回してソシエを抱きしめた。

 びくりと体が震える。アルマに離れる気配がないのを感じ取ると、恐る恐る手を回し返す。

「……かたい」

 女性らしい丸い曲線を描く体。溶けるように柔らかな肢体。けれど体のなかった思い出たちに比べるとずっとずっとかたくて、触れて、つかんで、しがみついても消えなかった。

 十本の細い指が生きた肉の感触を脳に伝える。これが生きているということなのだ。

 あの人たちがもういないということなのだ。

 ソシエの手が届かない場所に行ってしまった、という証。


「どうして、どうして。なんで会えないの、なんで」

 子どものようなダダをこね、アルマの胸に頭を埋める。

 彼女は何も言わず、泣きわめくソシエの濡れ羽色の髪を撫ぜた。

 どうしてその手が兄の手ではないのか。どうして父はこうしてくれなかったのか。

 今更な訴えがわきあがる。ぶつけようのない思いが無理矢理ふるい落とす。小さな滴はやがて大粒の涙になって、互いの胸元をしとどに濡らしていった。

 焦土がようやく温い雨を浴びるように、寂しいソシエは泣きはらす。もう一度、自分を信じて立ち上がるために。



 アシュレはようやく他者に感情を託し始めたソシエを遠目に見つめていた。

 口元にたたえた微笑は安堵。そして威嚇であった。

 《ク・ルグル》を討った後から彼にだけ見え続けているものへの攻撃。

 それは窓に影のように映りこみ、ソシエに寄り添っている。

 彼女と同じ顔をして、けれどまるで違う何か。穏やかな笑みと凶悪な向上心にまみれた《ねがい》の影。


 そっと唇に指を寄せ、目を細めて。生も死もないイキモノはこの世の美をうたう。

 一度芽生えたものは、失われても消えることはない。暖かく、残酷に。時間を超えて人に寄り添う。良し悪しなどない。紡がれた愛は未来の種となって可能性の大地に埋まっている。

「わたしたちは踊るのです。夢のなかで、ずっと」

 可能性は眠る。夢見る人に呼び起こされることを望んでまどろむ。

「踊るだけじゃだめだ」

 アシュレは小さく呟く。アシュレとソシエが手折れる日を、自らが立ち上がる日を待つ甘い夢を拒む。

 誰かに踊らされる快楽はいらない。みんなで足並みをそろえる愚鈍さも必要ない。

 たとえ演じることがあっても自分を誰かに明け渡すことは、決してないのだ。

 忍び寄る影を監視する。自らを戒める。薄暗い背後から、優しい影に抱きしめれられることのないように。


 日が暮れる。地球の裏では朝がくる。無数が歩む星のうえに時間が折り重なり、いつか芽を出す『何か』が作られる。

 人々を大地に。顔も知られぬ誰かの意志を水に。少しずつ、少しずつ。命を焼く知、魂を編む識。《ねがい》と《意志》が集って文化は生まれゆく。

 ともしびがある限り、炎は絶えない。

 二次創作、これにて完結です。お付き合いくださりありがとうございました!

 あとがきについては後程活動報告で行う予定。

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