第十二夜 百戒猟乱
仮面をかぶったとたん、《ク・ルグル》の気配が変わる。
彼女は風に凪ぐ柳の如くゆったりと両手を広げていく。
それとともに広がる水を打ったような静けさ。見えない意識の糸をつかまれ、ピンと張り詰められた気がした。
着物で体のラインがわかりにくくなり、柔らくなっていた印象。布の中に納まっていた気配が急速に膨らむ。触れれば切られる刃の玉状の『気配』が彼女を中心に水紋を描く。
波紋は舞台上のアシュレたちにも触れた。《ク・ルグル》は動いていない。ただ、背筋を伸ばし、両手を広げて十の字を描いている。
限定的な《閉鎖回廊》。ソシエがやったように小さく舞台を区切ったのだ。
今度は敵を分断するためではなく、より拘束力を強くするために。
体が動かない。魅入られたように、立っているだけの《ク・ルグル》から目をそらせない。呼吸ひとつさえ、肺を心地よい冷風で清められている気がする。
ひとすじの滝のような流麗な線。しかしあたかもそうであることが当然とばかり。自然に世界といったいになっている。
見ていると自分まで世界とひとつになっていくような心もちになり――取り込まれそうになったところでスピンドルを紡ぐ。
スピンドル。ごく一部の家に伝わる特殊な技術と父には聞いている。はたからきけばオカルト一歩手前のちからのため、口外は禁止。《意志》を紡いで《ちから》にする。
練り上げたそれが体内を巡った箇所から体の動きが通常の調子を取り戻した。筋肉の一筋一筋に熱い血と《ちから》がみなぎる。家で訓練は積んできたが、訓練と実戦では全く違う。心臓が緊張と興奮に痛む。
「これは、さっきと同じ……」
後方からアルマのつぶやきが聞こえた。シオンが彼女を抱え、後方に避難させたらしい。先ほどというのはバラバラにされた間のことだろう。
アシュレはこれといって拘束を受けなかったが、他は違うらしい。
舞台において与えられた役割は絶対。行動は自由でもその性質は変わってはいけない。
先ほど《ラ・ルッフィアーナ》と対峙したときと同じ。ルッフィアーナが嫉妬する相手、魔女に傷つけられる役割としてアルマは動くことを『許されなかった』。
《ク・ルグル》はアシュレたちの意志を否定しない。確固たる意志をもって己を討とうとするものを討ち返すことで、『障害を突破して高みへ向かう』というシナリオを描こうとしている。
そのために神たる《ク・ルグル》もまた人間に試練を課す。
すでに言葉では確認した。次は気迫で。それでとらわれるようなら幽世の劇場にひきあげる価値はない。
彼女と繋がった『空気』が歓喜にどよめく。しかし間髪いれず《ク・ルグル》はパン、とひとつ手を打つ。《閉鎖回廊》が震える。
音の振動、世界の脈動に呼応して骨の木の一本が溶け出す。溶けた幹は二メートルほどの球体に変じた。種を結ぶようにころんと地に落ち、そして白い球を内側から割って動くものがまろびでる。
「おおかみか」
時に悪、時に守り神。主神すらかみ殺す脅威ともされたふるきもの。今では文化に淘汰され、囲まれ、追いやられた人外のもの。
大きな体躯と鋭い爪を備えた四つの健脚。純白の体毛。獣の瞳が生まれ落ちると同時に開かれ、敵を視認する。視線がかち合った刹那、雌狼は大鐘のような咆哮をあげてアシュレにとびかかった。
狼は群れで狩りをする生き物。だというのにわざわざ一匹狼に襲わせることに嫌な作為を感じる。穂先を向け、《ブレイズ・ウィール》を展開した。不可視の力場。本来は己が放つ超熱の一撃から身を守るための技。それほど長い時間展開できないが、狼を跳んだ狼を弾き飛ばすには――そして白銀の体躯が千々に爆ぜるにも十分だ。
だが狼は瞬間、ステップを踏んで下がる。確実なタイミングで放たれたはずの一撃。フェイントをかけていたのだ。それでも《ブレイズ・ウィール》から逃げきれず、その下あごと左足は吹き飛び、赤い血をふきこぼす。白い肉片が辺りにボタボタと降っていった。
残った三本の足で潜り込むように間合いに滑り込む。迷いない突進と獣の直感が、若き騎士の浅い経験をかいくぐる。薄い布で守られた腕に向かって大口を開く。
生臭い血の匂いで満ちた口腔。肉を食むはずだったそこに濃厚な薔薇の香りが入り込む。
視界に散った花弁――アシュレが見てきたあらゆる花の中と比較にならないほど美しい。肉厚の赤い薔薇が絢爛と咲き誇っている。頭上に細く優美な影が舞う。
「ひるむな、喰われるぞ」
妖精かと見まごう可憐な跳躍。シオンであった。
失われた下あごから薔薇がこぼれ落ち、血が大地にしみこむ前に轟と大気が唸る。シオンが携えた剣の力を開放したのだ。《プラズマティック・アルジェント》。柄から燐光を纏う白銀の刃が放たれる。電磁的網で連結コンバインドされた刃の花弁は嵐を起こす。上空から艶めく白銀と赤が吹雪のように吹きつける。
強力な低気圧のごとく敵を引きずり込み、すり潰す。
大地に落ちた血から芽吹こうとしていた命も容赦なく巻き取っていく。
薔薇の花弁に狼は跡形もなく千切られた。木蓮の花弁に満ちていた大地が瞬く間に血と薔薇に塗り替えられていった。
一歩間違えばアシュレも巻き込む。アシュレはシオンを信じ、強く踏みとどまる。荒れ狂う死の舞はすぐそばを通り過ぎ、けれど傷つけることはなく敵だけを屠った。
血を種とした獣の実が、中途半端なところでくびられてあちこちに転がりゆく。そうして花吹雪に摘み取られる。ひどく不気味な決闘場のダンブルウィード。命の本能に従い繁殖しようとした『キャラクター』の成れの果て。
「凄い」
戦闘中にもかかわらず一人ごちる。今まで見てきた勇敢さと実力。そして言外に築かれた信頼を疑いはしなかったが、改めて彼女の超絶技巧に唸らされる。
現世ではあたわぬ神秘と必殺のぶつかり合い。ひとたびの油断、技の乱れが死を招く。スピンドルが狂わんばかりに渦巻いた。血肉わき、心躍るとはこのことか。
彼女たちは常にこのような戦いに挑んできたのだろうか。しかし今はそれどころではない。意識を引き締める。
第一の化身が朽ちようというさなか《ク・ルグル》は二度、手を打ち合わせた。
乾いて澄んだ音は吹きすさぶ風の音も狼の咆哮もすり抜けて鼓膜に届く。
アシュレは槍の穂先を《ク・ルグル》のいた方向へと向ける。《プラズマティック・アルジェント》に覆われてお互い姿を視認することはできない。
記憶を確認する。この壁の向こう、数十メートル地点に彼女は立っていた。
コンサートマスターとして応じるならば、《ストック・キャラクター》のいずれかを召喚すればよい。この生き物を生み出す行為は彼女が『神』を演じていることに由来しているはず。
柏手――おそらくは願いを叶えるための邪気払いか、神たる己に対して祈っているのか。巫女的な性格も強い女神であるなら、神聖な行為を片手間にしようとは思わないだろう。
「お前が神であろうとするなら、僕はそこからお前を引きずり降ろす」
深く息を吸う。人の形をしたものに穂先をあわせようとして、指が震える。ガチガチと音を鳴らす歯を砕けるほど強く噛む。
アシュレは絢爛たる幕越しに第一射を放った。
閃光が世界を焼き、天を降ろしたような光条が道を拓く。舞台ごと種を掘り起こし、遅れてきた衝撃波が白を粉砕する。死と幽鬼に彩られる骨舞台で爆発的なエネルギーが迸った。
超音速の空気の壁が、アシュレ渾身の突進が、刹那とはいえ世界に対する《ク・ルグル》の睥睨、空気の支配を上回る。
空気がアシュレのものとなった一瞬で、陽光を纏った兵が駆け抜けた。彼女が新たに産み落とした二体の獣が立ちふさがったが、確認もせず凶悪な守護者をイズマのほうへ打ち飛ばす。彼ならばどうにか策をうつだろう、そう信じて。
通常であればかすめただけでも致命傷。とんだ首がひとつ《ク・ルグル》の足元に転がる。
《クロスベイン・ファイアドレイクズ》。突進系の大技だ。
目の前に移動してきたアシュレに対し、《ク・ルグル》は体勢を崩さない。殺気すらもなく、超然とした虚無的な博愛が全てを包み込もうとする。
彼女の足元がふわりと浮く。長い着物の裾が重力に従って垂れる。反対に髪は自然の吐息に舞い上げられて扇のように広がった。宙にはりつけにされた姿は光輪を背負い、神々しくさえあった。
一方、突然として投げ込まれた二体の獣にもイズマは動じない。どころかわざとギョッとしたフリをしておどけてすらみせる。
異形の獣――蛇と猪。いずれも英雄殺しの逸話を持つ動物である。狼同じくわかたれた血と肉からは新たなわけみが生まれ始めていた。蛇を見て顔をしかめたが、どうということはない。すでに準備は終わっている。
「相手の下僕や妻を分捕るのはボクらが本家だって忘れてたのかい?」
自分の種族のことだろうに。
異能:《グラン・ギニョール》。相手の使役する使い魔や資料を奪い取り操作する邪術。通常は一体に対して行使される技。しかしイズマは違う。彼はあまりにも手練れだった。
《ク・ルグル》が自身の一部たる役に対して、その自我を尊重しているのはわかった。だが役までそうとは限らない。
本体の枝分かれたち。頭だけ、胴のみ、肉の塊。全体を構成しきれていない未熟な胚のようなそれが、本体に向かってゴロゴロと集まってくる。
血をふいて痙攣する子どもたちに、蛇は鎌首をもたげた。
「名のない神、自然の象徴。人でないもの。その成り損ないども。蠱毒のような感情のるつぼで育んだ《ねがい》――お前たちにふさわしい最期をくれてやろう」
「残酷なことをしますね」
アシュレの背後で共食いを始めた『一部』に、《ク・ルグル》は嘆息する。仮面のなかで渦巻いていた先祖の遺志。そのなかでも古く、感情と願いだけで構造された原始的な存在になっていたものの表れ。
屠られる命に彼女は何を思っているのだろう。大きく息を吸う。練り上げられた《ちから》で、一度アシュレに揺らがされた世界を再び強固に紡ぎ直す。
一言目が音になる前に、大地が悲鳴をあげた。《クローリング・インフェルノ》。アシュレとシオンが戦う間にイズマが仕込んだ地脈への干渉。地下から直に呼ばれた灼熱というのも生ぬるい烈火の炎。
アシュレは再び《ブレイズ・ウィール》を使用し身を守る。
「熱い、熱い、熱い熱い熱い……!」
《ク・ルグル》――いや、彼女のなかで眠っているはずのソシエが絶叫した。炎が少女を呼び覚まそうとしている。けれど《ク・ルグル》は新たな祝詞、改めた呪詛で寝かしつける。
炎を歓喜し、憎み、恐れる言葉を吐く舌を噛み、肉体の主導権を取り戻す。
「『ずっと私は【ふさわしくない】と思っていた』」
《ク・ルグル》は語る。いまだうちで変異を受け入れきれない少女の思いを。
――愛する家族にふさわしくない。あの人に恋するのもおこがましい。
――土蜘蛛の血が濃過ぎるし、性格も激し過ぎた。
物語はいつだって理不尽に始まる。
「『わたしにとって一番の理不尽は、自分が自分として生まれてきたことだった』」
人間というのは誰もが自分の人生という物語の主人公。しかし、ソシエにとって自分が主人公の物語などというものは、ひどく苦痛なストーリーだ。物語を主観的に語る主人公が好きになれない。けれどそれは逃げようもなく自分で、嫌な思いや失敗をするたびズキズキと心臓が破れそうになる。
読み飛ばす自由さえない。かといって自分を打ち切るなんて怖くてできない。
「だから、今の彼女は安らぎに包まれている」
世界はとても広がった。強固な我に囚われることなく、人と人の間にあるどうしようもない距離がなくなる。
《ク・ルグル》の願いは人では成せない領域まで芸術を高めていくことだけれど。技を高める阻害にならなければ、救える限り救いたいと思っている。
誰かの心を豊かにするというのもまた、芸術の性質のひとつだからだ。
主人公は特別だ。ソシエはきっと主人公になりたかった。
けれどふさわしくなくて。主人公にふさわしいのは、アシュレのような人たちで。
だからこれはソシエが完全に生まれ変わってしまうのにちょうどいい。
ソシエにとっての主人公たち。何より愛するキャラクター。彼らを取り込むことで、ようやくソシエは自身を主人公と認めることができる。愛することができる。
未練なく人をやめられる。
《ク・ルグル》は「豊かな愛と情熱」を語る。それが彼女が《神》であるために求められたキャラクターだから。
芽生えよ栄よと謳い、育むために争いを喜ぶ。それが女神というものだから。
語りが進むごとに、語りを聞いた全員の視界が暗くなっていく。
《タミュリス・ボエルジ》。腕比べをしかけてきた相手が敗北した場合、身体機能を奪う異能。
舞台はイズマによって完膚なきまでに破壊されようとしている。
獣はやがて掃討されるだろう。イズマは因果を用いて獣を滅ぼさんとし、シオンは高潔な遺志と超絶技巧の剣技で敵を討つ。
前者は理由づけとしては申し分ない。後者も英雄譚として美しい。
《ク・ルグル》は彼らの美技を否定できない。彼女の牙城となるべき舞台は、確実に彼らにおびやかされていた。
それでもなお揺るぎない《ねがい》がある。
「あなたに、その覚悟はあるか」
わたしを殺す覚悟が。神を殺す覚悟が。
神を殺した物語は多くない。名のない神は自然の象徴、名のある神は文化の象徴。神が神を殺すことはあれど、神殺しを成した英雄は必ず報復を受ける。
魂すらも病む呪い。狂気と不幸。名誉と迫害。
彼女は脅しているのではない。自身を追い詰めたヒトの英雄に対して問うている。
本当にお前は呪いを背負えるのかと。他者の《ねがい》を殺し、なお生きるほどの強い意志。それがなくては《ク・ルグル》を斃すことなどできない。
「世界は誰かに導かれなくたって、いつだって進もうとしているよ」
それが暗くつらい想いでも何かの糧になっている。無駄になることだってあるが、それはのその人でなければ感じられなかった想いであるのに違いない。
「『自分』じゃないとできないことが沢山ある。その誰かと誰かが出会うことで、とんでもない化学反応が起きる」
シオンが麗しき斬撃によって狼を無力化し、イズマが邪術を以ってその心に忍び込んだように。
それはアシュレにはできなかったことだ。疑えば互いを巻き込んでいた。行動をためらえば追いつめられていたのは自分たちだっただろう。
生じた先から潰しているとはいえ、まかれた命は次々と生えてくる。そうやって行き詰っていた。
「ブレイン・ストーミングみたいなものさ。これは僕がお前になったらできないことだ。お前にはこれはできない」
「……確かにそうですね。ですがわたしはあきらめません。愛も憎しみもみな尊い。すべからく芸術は人の意思が精髄、表れ。切磋琢磨こそ人間の最大の才。わたしは受け継がれた遺志をなさねばならない、世界をより高次へ導かねばならない」
あなたたちにわたしと同じことができますか。これはわたしの使命なのです。わたしのなによりもの夢であり《ねがい》。
堂々と立つ。逃げるなどとんでもないと立ちふさがる。代わりに周囲に朦朧とした人影がわきたつ。そうして彼らが神を崇めて、新世界の到来を願い叫ぶ。
どうか自分たちの《ねがい》をかなえさせてくれ。自分たちでは超えられなかった壁を打ち砕かせてくれ。
《テレプシコラ・シュプレヒコール》。土蜘蛛の老若男女の一団がひとつの台詞を合唱する。ひとつひとつは囁きのようでも、独特の響きを備えたハーモニーはしみこませるように一帯を振動させた。
アシュレは微笑む。真摯に立ち向かう彼女が、あまりにソシエにそっくりだったから。
「否定しない。気に食わないだけだ」
アシュレは竜槍シヴニールにスピンドルを通す。しっかりと彼女の心臓部を捉え、迷いはない。
「お前たちの願いを知ったうえで、僕は自分の道を進む。人任せの世界はいらない」
世界が光で満たされた。強力な光条を一直線に放出する異能:《ラス・オブ・サンダードレイクズ》。シヴニールの真骨頂。竜の憤怒たる破滅の雷光。
粘着質にまとわりつこうとする彼方からの声も眩しさでかき消して、光は少女の胸を打ちぬいた。
「やりましたね」
本当にわたしを。
《ク・ルグル》は笑う。嗤う。哄笑する。絶唱する。絶倒する。
嗚呼、所詮死者などこの程度。打ち据えるべき我らが願いを背負おうとは、なんと愚かな男だろう。
虚無ゆえの無限であるはずの《ク・ルグル》に幽かに強い気持ちが宿る。灼熱のマグマに似て、妄執も何もかも溶かしてしまいそうな。荒削りながら素晴らしい一幕に立ち会った瞬間のような、腹の底から泣いて笑いたくなる熱くて寂しい気持ち。
「あなたを呪いますよ、アシュレダウ・バラージェ」
神と魔女の呪いは、愛のように深いのだ。




