第十一夜 反属遡抗
無垢は狂気のきょうだいだ。歪みを知らぬが故に純粋で、理知を凌駕する混沌を当たり前に備えている。矛盾を誤りとは思わない。むしろ愉快とすらしてみせる。楽しむためだけに、蝶の羽をむしるこどもを恐れるというのはよくある話。
あるいは、彼らはまだ人として生きた時が浅いから、純粋なのだろうか。
目の前にいるのは、限りなく無垢な存在だった。
絵具が全ての色を混ぜると黒になるように、無数の狂気を煮詰めた結果まばゆい白になったモノ。
素晴らしく美しい存在。同時にひどく不自然だった。見たものに与えようという印象と与えられた印象が完全に合致している。それが嫌味でなく自然なものだと思う、不自然。
人の目をひきつけるも、当たり前のように懐にはいるも自由自在。
紛れもない、ここの支配者。《ちから》にまで昇華された芸術性。
彼女は、けんのある面々を見て不安そうに少女の眉を下げる。
「そんな怖い顔をしなくても。まだブリーフィングですよ」
「ブリーフィング……?」
「はい。だって、アルマさん以外この状況に慣れていらっしゃいませんよね? でしたら、打ち合わせぐらいしておいたほうがよろしいのではないでしょうか」
にこやかに提案する《ク・ルグル》。先ほどまでアシュレたちを殺そうとしていたものどもの操り手。
血塗られた気配など微塵もまとわず、素敵なことを語るように手を合わせた。ほころんだ笑顔は薄桃色に色づき、瞳はきらきらと輝く。
気が遠くなるほどの数多の願いと積まれた年月、生まれたばかりの真新しく弾傷のない感情。対極にある性質は、彼女にとって堺のないものであるらしい。
それゆえの発言だった。素晴らしいものを作りたいから。いたってまじめ。企画会議をしておこうという気合を示す提案。
ブリーフィング。要点説明や事前説明、作戦説明。
同好会で文化祭発表のリハーサルを行うため、何度もやったことがある。
いつもはアルが提案していた一言が、それの口から吐かれるのをきくのは、なんともいえない。アシュレの腹から喉にかけて、すっぱいものがこみあげてきた。
「君は《ク・ルグル》なのか?」
「私に固有の名をつけるのもおかしな話ですが……私という一種の幻想に名をつけたいのなら、それでいいのではないかしら?」
戸惑って眉を下げて頷く。そして一度鼻から息を吸う。
錫杖をそっと頬によせ、可愛らしく小首をかしげて一同を見つめる。アシュレ、シオン、イズマ、アルマ。最後に見たアルマには天使の微笑みを向け、最後にアシュレに視線を戻した。
「だいぶお手数をおかけしてしまったけれど、ようやくお会いできて嬉しいです。一度は《わたし》としてご挨拶したかった」
「僕たちに?」
「ええ。だって、私を形にしてくれたあの子の大切な方々ですもの」
皮肉だろうか。いや、本音だ。そもそも《ク・ルグル》には嘘と真実の境界がない。幻は現実をおかし、現実は幻を介してあらわれる。
今はまだ人々の意識に根差して存在する境界を、融解させるもの。
アシュレたちはこれを倒さねばならない。
人々に願いを託され、望まれたそれ。人から変異させられたそれ。世界をではなく、世界のことわりそのものを操らんとするそれ。神たらんとするそれを。
既に自分たちは迎えるべき結末を決めている。
一方で《ク・ルグル》は会話を広げない四人に疑問を覚えたのか、しきりに首をひねった。てっきり自分の話が詰まらないと思ったらしい。いたく不甲斐なさそうにしている。ふと動作だけで「そう読み取らされている」のに気が付いた。
再び背筋に冷たい汗を流したアシュレに気づいているのかいないのか。しゃん、と振られた鈴の錫杖が『目の前の現実』に意識を引き戻す。
「この鈴、元は二十四個ついていたのですが、今は二十一個なんです」
いきなり何の話を。そう思いつつもそれぞれ異なる音を奏でる杖を見やった。数まではわからないが、ブドウのように連なった鈴は、各々顔の形をしている。
「なくなったのは、鳥と猫の鈴。また同じものを造りなおしてもいいのですが、一度死んだものが蘇るなんて興ざめですよね、いえ、あの子にとっては思い入れがあるみたいなので大切にしたいのですけれど」
臆病者の英雄:《イル・カタピーノ》。騙される道化:《プルチネッラ》。騙す道化:《アルレッキーノ》。
「特にプルチネッラとアルレッキーノは兼任させていたので。ああ、というか、お恥ずかしいのですが《わたしたち》はまだまだ掘り込みが浅いのです」
だから、と。舞台にのりこんだ観客に、恋する乙女のような期待を込めた上目づかいを向けて。
「わたしのものになってくださいませんか?」
己の憑代となった少女より、よほど無垢で純粋な愛。柔らかな唇から放たれた提案は一世一代の告白にそっくりだ。
「それはキミの《ストックキャラクター》の一体になれ、ということかな?」
意図を最も把握したのはイズマだった。口調は茶化した調子であるものの、瞳には鋭い殺意が覗いている。《ク・ルグル》はその殺意すらも素晴らしい要素と受け止め、スカウトを続ける。
「はい。先程から拝見していましたが、みなさんはとても魅力的です。試練を乗り越え、痛みを抱え、なお立つ。時に汚れさえ呑み込んで、愚かささえきらめきに変えて。人をひきつけて変えてしまうような心――夢中になってしまうキャラクターはそれだけで宝です」
「見ている限り、キミになるってことは個を失うことでもあるね? それが意志といえるかい?」
「失われるのではありません。みなに分け与えられるのです」
芸術という形で膨らんで、受け継がれていくのです。
「あなたはとても賢明でいらっしゃいますね、イズマ先生。そして同じくらい愚か。人を動かすのがお得意でしょう? 極悪非道ではありますが小悪党でもございませんね。《アルレッキーノ》など如何です? それとも《メッテェッティーノ》がよろしいかしら」
「道化に利口なトリックスターか」
「お詳しいのね! シオンさんは、どうしようかしら。とても魅力的な女性でもあり戦士でもあり。勇敢で高潔だから《イル・カタピーノ》でもないし。
《インナモラーティ》はあの子かアルマ先輩――ああでも、最近のはやりではハーレムもありかしら? ちょっと嫉妬しちゃうけれど、アシュレさんならうまくやってくれると思うの。その時は私も愛でてくださいますかしら」
最後は冗談めかしてウィンクまでしてみせた。しかし、アシュレの番になると悩みだす。
「アシュレさんも難しいですね。魅力的なキャラクターはよいところも悪いところも兼ね備えていますけれど、あの子、恋は盲目というか、いやだと思うところまで素敵に見えちゃってるみたい」
魅力的過ぎるのも困りものね。すっかり骨抜きにされちゃうわ。
そう慈しむように語られてはどうするか一瞬迷ってしまう。
友にかけ、槍に誓った想いが揺れたのはほんのわずかだ。だが器に満たされた水が経った一滴零れるような逡巡だけでも、《オーバーロード》の前では重大な隙になる。
「ね、アシュレさん。ずっと一緒にいませんか、わたしのために、あの子のために」
返事ができなかった。あの時、走り去ったソシエの後姿を幻視する。シナリオによる演出された回想。隙に流し込まれた思い出はありありと若い心をえぐる。
「美しいもの、素晴らしいもの、心を育む優しい物語、勇気を支える英雄譚。活気を与える面白おかしいコメディ。もっともっと世を面白く。人の知の髄、想像を究めましょう」
愛と使命。大義名分にも聞こえた。されど本気で自らに課した運命を成し遂げようとする姿は恐ろしく魅力的で――つまりは魅力を利用した蠱惑だった。
「誰かに与えられた意志など、意志ではない」
甘い毒を断ち切ったのは、清涼なるひとことであった。まさに鶴の一声。気高き夜薔薇シオンの歌うような台詞。
むやみやたら語ることはない、ただ一言でさえ十分と、揺るぎない意志をコンサートマスターに提示する。
「自ら選び取るから尊いのだ。極めてやるから従えなど、お節介でしかない」
「人間では限界がありますよ。彼らは世界にくみするもの。形なき意志、形ある現実にたやすく翻弄され、向こう側へ行くためのくびきを越えられない」
「だからといって世界に支配されているか? いや。選択の自由を、我々は鋼鉄の意志をもって勝ち取ることができる。ヒトにはその《ちから》があるのだ」
高潔なる《意志》が崇高なる《意志》を打ち払う。
同時にアシュレの眼前を覆いかけた夢霧が晴れていく。世界を更新し人類を高次元の存在へ――それは進化を続けてきた人類としては素晴らしい目的であるように聞こえる。
だがそれは高みから一方的に書き換え、与えるものではない。劇的な進化を、あるいは停滞した平和を望んだ人々。全く異なる思いを自ら選び取り、いばらの道を突き進んだ先駆者。彼ら自身によって道は拓かれてきた。
意志を研ぎ澄まし、狙いを澄まして。時として正しさに矛盾を突かれ、ぶつかり、妨げられ。達成すべきもの以外の多くを削り落としながら。
ゆえに、《ク・ルグル》のスカウトに返す返事は、こうだ。
「僕は僕だ」
誰かに用意されたレールは歩まない。偽りの仮面を本性としてかぶるなんてできない。むき出しの我を抱えて生きていく。たとえより高尚な何かがあっても、信じる意志には誰も踏み入らせなどしないのだ。
「アルマ先輩は?」
「私は……私は、あなたを助けたい、ソシエ。それは私の意志。だからあなたの願いは聞き入れられないわ、《ク・ルグル》」
届くかもわからない後輩へ向けてメッセージを送る。ルッフィアーナと違って反応はあらわれなかった。
代わりに《ク・ルグル》は底の知れない瞳を三日月形に細める。
強いちからのこもった言葉の裏に、『大切な誰かを救うためなら、意志を差し出すこともあるかもしれない』という迷いを《ク・ルグル》は確かに見透かした。
それでも今はそこに付け入ることはないと思ったのだろう。やれやれと首を振ってうつむく。
「残念です。ええ、本当に」
胸に手をあて、ゆっくりと肺にたまった空気をひとつ残らず吐き出すように話す。命を込めた台詞を丹念に述べていく。
「ですが、同じくらいとても嬉しい。わたし、とっても興奮しています」
あげられた顔は、なんとも形容しがたい表情を浮かべていた。
ふられてしまった悲嘆。素晴らしい役者に恵まれた歓喜。簡単に惑わされては面白くないと。
「これでわたしにもあなたたちと戦う理由ができました。あなたはわたしという集合からソルシエールという固を取り戻したい。そしてわたしはあなたたちを劇団に迎えたい。いいシナリオができそうだわ。
ふふ、まるでわたしがおとぎ話の魔王みたいね」
剣と魔法が飛び交うクライマックス。騎士の誓いに麗しい姫、頼もしい相棒。旧世界の守護者。立ちふさがるのは人ならざる新世界への招待者。
「意思確認はもういらないかしら。でしたら、改めて始めましょう。わたしたちの仮初の魂をかけた終幕を」
《ク・ルグル》は胸元に手を入れ、どうやっていれていたのか仮面を取り出す。すべての顔を備えた仮面に取り込まれた人々は、新世界の到来に向けて無言の喝采を叫ぶ。
願いを一身に受け、主人公は異様な気迫を放つ本体を王冠を賜るように恭しく被った。




