第十夜 従賊順番
人は、死ぬと体重が二十一グラム軽くなる。
魂の重さ。意識を作る質量。
この激情は――劇場は、仮面に取り込まれてもかろうじて残された意識。与えられた役割に支配されていても。元来の意志は、役を飾るための小道具としてあるだけだとしても。
ここは、最後の檻。鳥が自由に舞うことを許された唯一の砦。
「《プロセニアムアーチ》。客席と舞台で、完全に区切る異能。これが僕に与えられた権限だ。まあこれ、俺以外の《キャラクター》たちも全員持っているのだけれど」
他が自由に相手を選択し、自らの舞台に招くことができるのに対し、アルは他者の舞台に割り込む以外に異能を使うすべがない。
今は、ソシエの心が強く反映されたルッフィアーナが権利を譲ったから対面できているのだ。
「アルの果たすべき役目は、文字通りの火付け役:シャハトの憑代を生んだ時点で終わっている。シナリオで幽霊はでても、死者が蘇るのは神話の英雄でもない限り愚策。許されない」
「どうしてそこまで演劇にこだわるの。《ク・ルグル》って何?」
それほどの力をもつのなら、こんな権利をそもそも与えなければいい。《ク・ルグル》にとって都合がいいというのなら、そちらの方が合理的だ。
黒い仮面がゆっくり左右に振られる。続きを話そうとして、彼はアルマの緊迫に握られた拳を見咎めた。
苦笑してそっとテーブルの上を指さす。その先を追うと、いつのまにか湯気をたてた紅茶が注がれていた。演出の小道具といったところか。
急に喉が乾く。アルマは促されるまま、紅茶をのみくだす。暖かく芳しい香り。適温の液体は喉を通じ、胸部を通って全身を温めていく。
かたくなっていた肩がおちると、アルが微笑んだ気がした。
「合理も大切だけれど、それが全てじゃあないんだよ。芸術っていうのは」
「芸術――まさか、それが目的だというの? そのために、人を殺し、運命を狂わせたと?」
「ああ、そうだ。歴史が重なるにつれ、多くの神秘は死に至った。科学的に、物理的に、法則に証明されたものだけが真実になっていく。そのなかで、変わらず人類の中で築き上げられた幻想がある。芸を成す術。幻想をこの世に現実として産み落とすもの」
審神者から演劇者に仮面は受け継がれ、変異した。
それはくしくも、彼らの望んだ神を編み出したのだ。何代もの演じ手が求めた至高の役者を求める心。あらゆる役柄を、その心を、完璧に演じる無貌の者。
存在がないゆえに、個の我に囚われず限界を持たない。人では成せない美の体現者。
それはいわば神のような存在。
「デラルテ家は、神を演じることを目指した。人は人。近づくことはできても、人外そのものにはなれない。その限界を突破したがった。更なる高みを欲し続けた」
最初はただの虚無であった《ク・ルグル》。人々の《意思》を吸い上げ、正しい意味とは違えど集合的無意識が、仮初の自我として目覚めた。
一人であって一人でない。個のない意識。
それ――《ク・ルグル》は己の目的を、神を降ろすことだと承知している。すなわち、神を演じること。
だが、ただ演じるだけではない。
神を演じることで、芸術の限界を突破する。
そして、その異能を用い、世界そのものを己の舞台とする。
《ク・ルグル》を主とした極大の《プロセニアムアーチ》。劇場内の人間を全て役者とし、自らが指揮を執る。
そうすることで、人類そのものの限界を取り払い、芸術を高め続けていく。
芸術とは、人間の創造性の極致であるのだから。
新世界の訪れ。停滞した世界の更新。
「まだソシエのなかに《ク・ルグル》全てが収まったわけじゃない。けれど、完全に一体となって《オーバーロード》となってしまえば……すぐにとはいかずとも、街一つ、いや国一つは舞台にされる。そこからゆっくりと舞台を広げていくつもりだ」
さながら、物語のように。英雄が小さな一歩から、世界を変えていくように。
アルがごほごほと咳き込む。テーブルクロスに赤い斑点が舞う。やがて乾いた大地に染み込んだ雨のように色を失っていく。
彼は一連の光景を当たり前に受け取り、茶を喉に流し込む。
「芸術を高める心の表れである《ク・ルグル》は、ただ身勝手に奔放にふるまうことを優秀な物語とは認めない。
だから、それが不都合であっても芸術性に適うのならば認める。
今行われているのはコンメディア・デッラルテ。あるいは沙庭の能。即興劇。役者の創造性=自発性を尊重された」
中断させられていないが、今も《ク・ルグル》はこの小舞台を見ている。
見られていると告げられ、思わずアルマは天井を見上げた。何故上だと思ったのだろう。壁に耳があるのかもしれないし、扉に目があるのかもしれないのに。
ただ、上には何もなかった。
玉虫色の輝きを放ち、脈動する宙が床を照らしている。
「観客は、舞台の天井を知らない。それを知っているのは、舞台にあがった演者だけ」
ぽつりと落ちたアルの言葉を合図に、壁が崩れ出す。渇いた泥のように勢いよく落ちていく壁の向こうで、玉虫色がのたうつ。
二人から最も遠い部屋の端から、床が朽ち、燭台は灰となり、歪なバイオリンに似た悲鳴が『空間』の向こうから響く。
「舞台――劇場が悲鳴をあげている。やがてここも無に還る」
「《ク・ルグル》? いいえ、違うわね」
先程聞いた話と矛盾してしまう。
これは、ソシエ。彼女の悲鳴なのだ。彼女の崩壊なのだ。
「巻き込んでごめん。半ば騙したような形になってしまった。でも、俺は、うそつきで臆病者であっても、《カタピーノ》でもある。あの子に尊敬されていた兄貴なんだ」
そういう兄貴は、妹を助けるものだろう。泣いている妹に手を差し伸べるものだろう。
「君とアシュレが、本来のアルという人間の形を訴えてくれた。だから、俺はここにいられる。アシュレはシャハトを、俺という友人のために許さない。そういってくれたんだ」
今ここにいないアシュレの行動に、アルマの心に灯がともる。
やはりアシュレはそういう人だ。だから、アルマは彼を……
じんと胸が痛む。まなじりが熱くなって、まなこがうるんでいく。
頬を赤らめ、まなじりをあげながらも、唇を結ぶアルマにアルは困ったように頬をかく。コン、と木を叩く音がした。
「演劇には、色んなシナリオがある。恋愛劇、喜劇、悲劇、英雄劇……そして復讐劇。これは最初から復讐劇だった。復讐は復讐を生む、ってオーソドックスな台詞だよな。即興劇はテンプレートを、個性を活かしてアレンジしていくことが多いんだ」
己と誰かに言い聞かせるように呟く。大きく息を吸い、血のにじむ身体に力をこめてしっかりと背筋を伸ばす。勢いのまま、高らかに宣言する。
「これなるは、復讐劇。愛しき家族を奪われ、魔女と化した乙女に始まる物語。そして友のため、同胞のため、槍を掲げる英雄の物語」
槍持つ騎士の名は、アシュレダウ・バラージェ。かたわらに立つ同胞は、気高き夜薔薇シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ・カイゼルロン。痴愚の王イズマガルム・ヒドゥンヒ。麗しき憂いの百合アルマステラ・ヴァントラー。
一歩、アルは進む。意志あるものを呑み込む、玉虫色の虚無へと。
「失った友の遺志のため。己の担う役目のため……愛する者のため。しかし、魂を食らう仮面により、散らされてしまう。そこに現れたのは、かつての友の亡霊。仮面の奴隷となった男は悪意を語り、傀儡となった男は過去を想う」
孤独になった友のため、男に何ができるだろう。
涙する女のために、男のすべきことは何だろう。
「どんな素晴らしい芸術も、魅惑された信奉者なくして成り立たない。残らない。残すために必要な、心震わせる誇り高きなにか。偉大なるものを我らが神は否定しない」
一言重ねるごとに、舞台が変化していく。
アルの進む床はどんどんと剥がれ、浮かび、天にのまれていく。なのに、アルマの背後には、細くもしっかりとした『道』ができ始めていた。
紡がれるは、言葉。物語。彼は彼の創造性を持って、新たな展開をシナリオに加えようとしている。
「なにか。俺は、それを、するべきだ」
最後だけは、自身に向けて。
あと一歩進めば落ちる。そこまで進んだところで、アルは振り向く。
「ねえ、アルマ。これは戯言だと思ってくれていいのだけれど、あとひとつだけ、いいかな?」
「何をしようとしてるの! 落ちてしまうわ!」
「まるで蛇足な、ライターの自己満足。それだけで幸福になれるはずだから」
「こたえて! 戻ってきて!」
「――アルマステラ。俺は、君が好きだ。君がそういう人だから、好きになってしまったんだ」
のばそうとした手を、アルマは止める。
目の前の男が望むことは、あまりにもつらい。アルマはアルマとして手を伸ばさずにはいられない。いられないが、それは残酷だ。
手のひらを胸元に寄せる。細い指をにぎりしめ、仮面の内にあるだろう瞳をみやる。
「ごめんなさい」
私はアシュレが好きだから。
アシュレは、遠い。名家の生まれで、その心も誇り高い。対してアルマは、かつては令嬢であったものの今は没落してしまっている。その勤勉さと知性で奨学金により《アカデミー》にいるが、それだけで認められるだろうか?
叶わない恋。だとしても、好きなのだ。
アルは笑い声をあげる。泣き笑い。くぐもって、けれどとても爽快な声。
「そうだと思った。俺は諦めたけれど、でも。アシュレならきっとなんとかしてくれるって、信じているよ。君の幸せを、友だちの息災を、家族の平和を――今の俺は、何よりも願っている」
それだけはよかったと思う。
アルマの側をむいたまま、一歩下がる。
彼は、落ちていった。今度こそ這い上がれない虚無へ。
自死したものは亡霊にすらならない。完全な死。
追おうとした足を、リボンのようにのびた『道』が縫う。
舞台がぐにゃりと歪んでいく。新しい物語に沿って、変異する。
自己犠牲によって紡がれた『道』は、アルマが変異に取り込まれぬようしっかりと守る。アルマ自身の意志すら無視して、紡ぎ手の願いを守ろうとする。
やがて、ノイズの空白が全てを覆った。
○
シナリオが更新されました。
・すべての原因である愚か者が自刃。
・亡霊に導かれ、英雄たちは最後の舞台へ集められる。
「少々無理はありますが……面白い。続行を許可します。クライマックスへ移行」
○
視界が晴れる。閃光に包まれた舞台が再構築され、わかれていた小舞台はひとつに纏められた。
先程まで各々に配された敵と戦っていたアルマ以外の三人は、急すぎる変化に目を瞬かせている。
しかし、シオンとイズマはさすが歴戦の戦士。油断せず武器を構えていた。
アルマは数秒間だけ肩を振るわせ、目の下をぬぐう。そして、最も衝撃を受けた様子であるアシュレに寄りそう。
アシュレは、目の前の光景にくぎ付けになっていた。
先程まで刃を交えていたシャハトが、倒れ伏している。
まるで高所から叩き落された遺体だ。腕があらぬ方向に曲がり、頭は割れて赤い花が咲く。
「片割れが自刃しましたので、必然的にそれも死んだのです」
身体を残したのは演出。そちらの方が見栄えもよい。
天気の話をするように、ソシエの声が響く。
舞台は当初の骨舞台によく似ていた。
だが、天には七色の輪をまとって流転する太陽が浮かんでいる。だが光が燦然と降り注ぐことはなく、真珠光沢にそっくりな白が人々を祝福していた。
一帯には、豊かな葉を茂らせた骨色の木々がそびえたつ。木と木の間を、枝にかけられた赤い布が十重二十重になって壁を作っていた。
中心の丸い舞台に、陽炎のように一人の女が現れる。
美しい金糸の刺繍が施された十二単を纏う。煌びやかな花飾りを頭上で揺らし、手には鈴がぶら下がった錫杖を携えて。
背後には後光が差し込んでいる。あたかも女神の降臨。
「亡霊が生者を導くというのは、珍しい話ではありません。そこに仁義が絡むとなれば、そう悪いシナリオではないでしょう。たいていみんな好きですものね。あとは役者次第ですが、はて」
舞台から女がおりる。邪魔な小物は撤退だと丸い舞台は消えた。
同じ大地に立ち、互いに見つめあう。
そこにかつての熱い視線はない。
「これは即興劇です。自由にやってくれて構いません。何か良いものを見せてくれると、期待しています」
《ク・ルグル》。ただひたすら芸術の邁進を望む偽りの神が、新人役者たちに微笑みかけていた。




