第七夜 木蓮寵恩
泥に沈むような倦怠と、鍋の底で炙られるような焦燥。
二つの意識が争うなか、鍋ではもっと微細な感情の具材が煮込まれている。
――私はいま、どこにいるんだろう。
自分はどうやら、アシュレとアルマの前にいるようだった。鍋の淵で、周囲に渦巻く怨念が彼らをも取り込もうとしているのがわかる。
『意識』だけが暴れまわって、ソシエの『心』は閉じ込められてしまった。
だが、出よう、という気にもならない。
誰の声も届かないここは、心地がいい。
周りでは、それこそ過去、ソシエ同じく、鍋に放り込まれた人々の切望と狂喜が満ちている。けれど、それはソシエをとらえてはいなかった。
言葉がない。動きがない。ただ、あらゆる感情の渦だけがある。すべてが実直に伝わってくる。内側と外側を隔てる肉体の壁はすでに失われていた。
まるでソシエ自身の心であるかのように、よく馴染む。ここでは個がなくなり、すべての境が溶けていく。
他者の言葉を疎む痛みも、輝きを妬む鬱陶しさも、ひとりでたつ寂しさも恐ろしさも、感じずに済む。平穏無事でいられる。
このまま、心やすらかに休みたい。
なのに、心地よい微睡みに溺れようとすると、不快さに気づかされる。
休むということだけは、周囲と違っていたからだ。ソシエだけが望んでいた。異物になった途端、『ただ好きに演じていたい』という気持ちの渦から、弾かれそうになってしまう。
彼らは先達。移ろい、あまりにも不確かな若い情念とは年季が違う。
そして、人の命を捨ててまで現世と幽世にしがみつく亡霊でもあった。
体を持たぬ彼らは、ソシエに願う。悲願の成就を。
その悲願は、『役者』であるソシエとしては、十分に理解し、痛いほど共感できるものであった。
『少女ソシエ』としてならばともかく。
『役者』ソシエは、彼女の心を叩き起こす彼らにコクリとうなづく。
望みと情熱を鍋にくべ、肉体に詰めるべき技術を選別する。
脳裏のほんの片隅、かすかに惜別を抱えながら。
それは無意識のうちに、鍋――骨の舞台を演出した。
○
「羨ましい。何故そのように玉瑕のない心身をもてるのか」
シオンとイズマが最初に目撃したのは、アルマを憎々しげに指す怪物であった。
あれは、ソシエなのか。
白い着物をまとう女の声音は、少女のものであって、成熟した女のようにも聴こえる。仮面に手を当て、指を獲物を求める鉤づめのごとく折り曲げて、苦しそうに背を曲げていた。
反して、声音はひどく落ち着いている。凛として、音にゆがみがない。至って落ち着いているのである。
矛盾していた。矛盾を当たり前のように一体にして体現する姿に、改めて確信する。
ソルシエール・デラルテは、向こう側にいってしまったのだ、と。
そして、今いるここもまた、向こう側。
乱立する骨のように生白い柱。不気味にほほ笑む月光。大地を覆う白い花弁。
幻想じみた光景のなかで、二人――アシュレとアルマだけが異彩を放っている。現代ではそれが当たり前、普通だというのに。
ここは、常識の世界ではない。異常な世界だということを、シオンとイズマはとっくの昔に知っていた。
世界最先端の科学も、滝の水が昇り、天の雲は風に吹かれて悲鳴を上げる。人知がたやすく揺らぐ異界では、兵器も人海戦術も役に立たない。
フォーカス《ク・ルグル》が完全に覚醒したことにより、イズマによって探知が可能になった。問題は、どうやって土蜘蛛の男シャハトヘイヴの妨害を退け、ソシエによる《閉鎖回廊》に侵入するかであった。だが、どうやらあちらから招いてくれたらしい。
出発しようとしたところで襲われた急な浮遊感。次に視界が明るくなった際の激変に多少驚いたものの、すぐに気を取り直す。
シオンはただの小娘ではない。こういった非日常は、幾度か経験がある。飛び級による進学後、あちこちの遺跡を探索しているのは半分嘘。その目的は、遺跡や古代文明に隠された《フォーカス》の回収。
こうした非日常に対抗するための組織、「カウンター・フォース」としての仕事の一環だ。
イズマも、得体のしれない点も多々あるものの歴戦のつわものである。
お互いすでに戦装束に身を包み、しっかりと獲物を揃えている。
片手に、美剣を握り、シオンは舞台めがけて疾走した。
後ろで一瞬の剣戟が耳に届く。どうやらシャハトヘイヴも、二人に続いて役者に交じりにきたらしい。
「先にゆくぞ!」
一言だけ呼びかけ、瞬く間に骨舞台の足元に躍り出る。
俊足の小鹿のように突如として現れたシオンに、二人の一般人は目を丸くした。
だが、尋ねるよりも先に唇を引き締めてソシエに向き直る。
――なるほど。さすがバラージェ家の子息といったところか。
ことを正確に把握するより、事態に対応することが先決だと理解している。ここは既に常識の通じない世界だと。
そして、新参二人が自らの『味方』であり、ソシエが『敵』であるということも。
平和な現代で、そのような感性と知性を得ることは並ではなかろうに。
自らが、いつのまにかバラージェ家が管理するフォーカス:竜槍と聖盾を手に持っているのも、自然に受け入れていた。
これには、さすがのシオンも「ほう」と感嘆の息をつく。
《閉鎖回廊》の主は彼に懸想していたようだし、その手助けもあったのかもしれない。かといって、その武器をたぐりよせたのは、紛れもなく類まれな《意志》のチカラのよるものだ。
――これは、一般人だからといって……
思わぬ頼れる助っ人に喜びの念を抱いたところで、《閉鎖回廊》が揺らぐ。
不気味に凪いでいた夜空は泣き叫び、いかずちは怒り狂う。
黒と白の光に染まる舞台の主。半ば反射的に、激しい演出を浴びる主役を凝視する。
彼女は、戴冠の儀を思わせる荘厳さで、自らの顔に手をかけていた。瑕一つつけてはならぬ宝物を、ひどくゆったりと皮膚からはがしていく。
隠れていた相貌が露わになる。
そこにいたのは、ソシエであって、ソシエでない。
外界にさらされた顔面には、『貌』がなかった。
奥底まで澄みきり、深い色をした黒い目はある。薄紅が塗られた花びらのような口はある。千差万別に存在する感情を微細に表す、豊かに変化する表情さえある。
薄く開かれた唇は、しゅると息を吸う。己の命を確かめるように。わずかに見張った目に光が映り込む。世界が生きていることを、肌で、呼吸で、視線で味わうように。
だが、そこには貌がない。
ただ、感情だけがある。
生きた役だけがある。
表すべき心を託された役。その性質のみを純粋に体現し、完璧に表す貌。
いっそ虚無といえるほど広がった、無限の顔。
それはあまりに万能すぎて、人にはとてもとらえきれない。
途端、《閉鎖回廊》は完全に彼女の支配する舞台となった。




