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プロローグ

 青白い月がにんまりと笑う夜だった。

 鞄を抱えた腕が震える。遥か頭上から見下ろす衛星はあまりに整った美しさ。その無慈悲なまでの光明が、己を照らしだし『何者か』に存在を告げるサーチライトのように思えた。


 ここに罪人がいるぞ。

 静寂が支配する黒い帳を燃やそうとする不届きものが。


 そんな妄想を振り払おうと女はふるふると首を横に振る。自らを鼓舞し、周囲に目を走らせる。深夜も深夜。人通りも少ない町はずれの住宅街。

 人目がないことを確認し、バッグに手を入れる。比較的荷物の中で大きいそれはすぐに見つかった。

 何度か手を滑らせながらも蓋を取ると異臭が鼻の奥をツンとつく。癖になりそうだ、いや実際に既に病みつきだった。ただし、脳刺激ではなく行動の。


 見た目はただの水。だがこれが実によく燃える。もしかしたら隣家も巻き込んで大火事になってくれるかもしれない。

 ほの暗い期待に胸が躍る。

 新聞紙とライターの存在も確認して、着火に手頃な場所を探そうと一件の家の裏に回り込む。ゴミも少なく清掃されたアスファルトの道路。月明かりと電灯でうっすら輝いて見える一本道に倒れ掛かるような家々の影。

 その中心、まっすぐな光の筋を遮るように立つ少女がいた。


――見られた!


 舌打ちをして何気ない様子を装って移動しようとして、足が動かないのに気が付いた。拘束されてはいない。

 何かが頭にひっかかる。自分はあれを知っているのではないか。そんな気がしてならない。奇妙で些細、いつもなら無視する違和感が地面に足を縫いつけていた。


「……あんた、何?」

「貴方こそこんな夜更けにどうしましたか」


 涼やかな少女の声だ。思ったより平坦で普通な声色に少しだけ胸をなで下ろす。少女はいきなりの不躾な質問を訝しみもせず、案ずるように一歩女に近づく。


「随分と落ち着きがないご様子。これから放火をしようという人が……情けない、いえ、くだらない」

「なッ」

――何故それを知っている!?


 この距離からでは灯油の臭いもわかるまい。いやそもそもこんな時間に、よりによってこの場所で出会うものだろうか。

 興奮に鈍っていた頭が急速に冷却されていく。一歩一歩近づくほど、少女の姿が月光の元に晒されていく。


 通報されたらことだ。冷静に考えれば多少怪しまれても走って逃げるべきだろう。まだ何もしていないのだから罪にも問えない。

 なのにじっと棒立ちにたってしまったのはガラになく疼いた好奇心。幻想的な光景の行く末を見たいと望む心。


 数十秒ほど待ってようやくその全貌が明らかになった。露わになった姿に思わず息をのむ。

 女は怪奇というものを信じない。しかし、眼前の存在は容貌に置いても存在に置いても奇怪であった。


 場違いにもきっちりときつく帯を結んだ和装に身を包み、音もなく歩む少女。髪が風を受けてぶわりと広がる。

 己を戒めるような姿、と思ったのは死に装束にも見える白い生地ゆえだろうか。怪物が触手をうねらせて迫ってくるような影絵も悍ましく蠢きを絶やさない。


 何より異様であったのはその顔。のっぺりとパン生地を伸ばしたような見た目をしているのに、不思議とそれが『顔』であるとわかってしまう。


――仮面?


 当然そんな顔をした人間は存在しない。それは面であった。この世のありとあらゆる顔、そのどのような表情にも見える仮面。

 明らかに常軌を逸した姿もさることながら、ある事実が女の神経を逆撫でる。

 もし『そう』だったなら、つまり、もしかして、信じがたいことだが――


「お前だろう」


 いつのまにかすぐ目の前に《仮面》がいた。息が触れそうな距離まで近づいても仮面に阻まれて吐息は伝わってこない。

 細く切られた隙間、三日月形の穴は目? 唯一相手の正体が見える場所である暗闇を覗き込む。


「お前だろう」

「……え」

「お前だな。お前だ、お前だよ。しかしお前は違う」

 

 最初の落ち着いた響きが消え、切羽詰まったような切り込んでくるような、今にも胸倉に掴みかからん勢いで《仮面》は問う。

 物言わずして放たれる気迫に飲まれていた女はここで一歩下がった。


――何でさっさと逃げ出さなかったんだ! やっぱり外になんか出るもんじゃない!


 空虚な闇を見つめた穴の先、あったのは確かに人間の瞳。生気ゆえにぬらぬらと光沢を放つ眼球が、生々しい憎悪の熱を放っていた。


「これからまたどこかに火を放つのね、知っているのよ。それともまた私を焼く? 女の化け物は火刑がお約束だもの」

「ひっ」

「でもご存じ? しがない一般市民と小悪党は大抵、成すすべなく圧殺されるのがお決まりなの。嗚呼お前が、お前がお前がお前が!」


 《仮面》の手が伸びる。

 振り払おうとした腕は凄まじい力に押し切られ、顔面を掌で握られた。


――こんなも「いぎぃいいいッ!?」


 途端、目玉がひっくり返ったかと錯覚した。もしかすると本当にひっくり返っていたのかもしれない。

 だが頭だか身体だか内臓だかどこがどうなのかもわからない、とにかく


――熱い熱い「あああつああ痛つい熱い熱」熱い暑いあついあああつ熱熱厚暑アツあつ痛いぃ「あああ」痛傷い痛いいたたあつい痛「いイタ」イ熱イ傷痛い――


 細胞が縮小し破壊される苦悶が、激痛が、拷問が襲ってくる。

 意味もなく手足を動かすがその感覚すらはっきりしなかった。

 感情が脳味噌を埋め尽くす。必死に今にも燃え上がって灰になってしまいそうな知性で絶叫する。助けて、助けて。


「ならば言え。懺悔などいらない。お前はアルレッキーノ、あるいはプルチネッラ。そして私はラ・ルッフィアーナ。さあ早く、でないとあの人が来てしまう」


 頭蓋の裏を槍でかき回される。神経をぐねぐねこねあわせてぐるぐる回る、回っていく。ぐるぐるぐるぐる。


「あ、ああ、あ」


 身体が回る。意識が回る。世界が回る。何もかもが混ざり合ってとりとめのない無形となって。

 唇の端を涎が滴り落ちる。粘着質な液体が地面に叩きつけられたと同時に、女は焼死した(・・・・)


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