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悼む人

作者: 安藤エヌ

幼い頃、夏の盛り、盆の日に連れて行かれた霊園のことを、おれは未だによく覚えている。


そこは死後の安らかな魂を尊んでか、日夜中、虫の鳴く声しか聞こえないような田舎にあった。車掌が切符を切る電車に乗り、目の前に続くは野草がぼうぼうに生えた畦道。老婆が腰を折りながら季節折の野菜を収穫していて、母が挨拶をすると、あんらまあ、と嗄れた声をあげておれを見たから、おれは恐る恐る会釈をした。

混じり気ひとつない空気をめいっぱい吸いこみ、道のわきの用水路になっていた小川を覗き込んではザリガニがいないか目を凝らした。

日がな公園を駆け回る遊び盛りの子供であったから、まだ人の死というものがどういうものかを、薄ぼんやりにしか分かっていなかった。

そんな子供であったから、母もおれに何も言わず、ただお墓の前で手を合わせて、おじいちゃんのことを考えればいいのよ、とだけ言った。

最後に見た祖父の、眠っているような顔、肌の白さや冷たさを、おれはただ、棺が焼かれるまで、じいっと見つめていた。


用水路が無くなっても、水の流れる音が微かにするから、きっとこの近くの森には川が通っているのだろう。

今度は学校の友達を連れてこよう。そして、探検しよう。川のふもとを探すんだ。高い木にのぼるんだ。

夕暮れになったら、おじいちゃんが迎えに来てくれる。ぼろぼろの自転車の後ろのかごに、ラムネの瓶を乗せて。おらガキども、飲みなさい、と。


そこで初めておれは、祖父が死んでしまったことを理解した。

もうあの銀歯だらけの歯を見せて、斑点だらけの皺くちゃに笑う顔を、見れないのだということに。


「暑う中たいへんお疲れ様で御座いました。以上で盂蘭盆会の参りは終わりでございます」


袈裟を着た、まだ寺に入って間もないのだろう若い坊主が深く礼をするのを見て、おれも真似して頭を下げた。


「ねえ、いい匂いがする」

「なあに宗平」

「おじいちゃん家の匂いだ」


くんくんと、匂いのする先に鼻を動かす。

それは今さっき線香をあげたばかりの墓から漂っていた。


「線香の匂いかな、坊」


坊、と慣れない呼び名で呼ばれるむずがゆさにもじもじしながらも、おれは頷いた。


「これは木蓮という花の匂い。

母者を浄土に導かれた尊者と同じ名前です。

ところで煙の先はどこに通じているか、坊は分かるかな」


謎解きのような、しかしいくつもの答えがありそうでないような抽象的なその質問に、おれは頭を抱えた。

しだいに考えすぎて、頭のてっぺんがしゅんしゅんとのぼせてくる。


「難しかったかもしれないね。

紫煙これ即ち、川なのです。お釈迦様の御許へのびている、川の流れこそが煙なのです。

今きみがあげた木蓮の香煙が立ったことによって、きみのおじいさまは喜んでいらっしゃる」

「ほんと?」

「もちろん」


安らかな場所へ、そのものが導いてくれるのだから。


「おれ、おじいちゃんが大好きだったから、おじいちゃんがきれいなところで、ビールを飲んだり、巨人が勝つ野球を見たり、万博の思い出話したりしてるといいなあ」

「はは、ずいぶん快活なお爺様だったようで」

「こら、宗平」

「良いのです」


愛すべき孫、そして大事な娘がこのように育って、さぞかし幸せだったでしょうに。


その坊主の言葉に、母は顔を背けて涙を拭った。

その光景を、今でも鮮やかに思い出すことが出来る。



「そうかあ、あれから七年経ったんだもんなあ、でっかくなるわけだ」

「今は一人暮らし?」

「ええ、世田谷でアパートを借りて。大学で考古学を学んでいます」

「立派になったこった。あの人も喜ぶだろうよ」


祖父の弟が持つグラスにエビスを注いでいると、後ろから破裂するような泣き声が聞こえてくる。


「あらあら、人がいっぱいでびっくりしちゃったのね。エレン、あやしてあげなさい」

「いいのよ姉さん、この子すぐこうなるんだから」


茶色い前髪をピンで留めた女性から、赤ん坊を取り上げると、トントンと床を足で叩きながら揺さぶってあやす。


「ほんと宗平くん、かっこよくなったよねえ。姉さんの子供にしては惜しいくらい」

「一言余計よ」


がやがやと茶卓の上の食べ物をつっつきながら男連中はヤクルト対巨人の野球戦に夢中になり、女性達はひとところに集まって世話話をしている。


あぶ、あぶ、と、赤ん坊が唇を尖らせて泣きやんだ。その不細工さに、ふっと笑みがこぼれる。今夜は親戚中が集まっているから、祖父がいなくなって広くなったと言っていた祖母もそうは思わないで済みそうだ。

赤ん坊をそっと母親の元に返し、なんとなしにガラス戸の向こうを見ると、黒い影がそこを横切った。男とも女ともつかない背格好のそれが無性に気になって、失礼、便所行ってきますと席を立つ。


ガラス戸一枚隔てた向こうの台所はしんとしていた。古いながらに磨かれきったステンレスの水場を、蛇口から垂れる水が濡らしている。煮物の入った牡丹柄の鍋が、コンロに置かれたままだった。

台所と寝室を繋ぐ、板作りの廊下をなるたけ音を立てないように歩く。静かだから余計に、床のぎしぎしとなる音が目立った。


くん、と、懐かしい匂いが鼻を掠めた。

途端に、あの夏の日が脳裏に蘇る。

入道雲、ザリガニのいなかった畦道、そして。


すらっ、と滑らかな音を立てながら、俺は障子を開けた。

敷き布団の折り畳まれた壁の反対にある祖父の仏壇に、喪服姿の男が手を合わせていた。

その手には濃紫の数珠が添えられていて、手は骨張っていた。

とても寡黙で、ひっそりとした焼香だった。


その人はどんなに時間が経っても、それこそ永遠にだって目を瞑っていそうに思えたから、俺はそれが無神経なことだと考えながらも声を出した。


「あっちで皆が夕飯食べてますから、貴方も良かったら」

「いい」


その声は、拒絶よりかは柔らかく、受け容れるには堅かった。

故人に出来る限り悔やむ気持ちを寄せたいのは分かるから、それ以上何も言わないでいると、彼は正座を解き、仏壇に会釈をして、その場を去ろうとした。


「あの、だったら、少し庭先で話しませんか」


そんな言葉がついてでたのは何故だろうと、口に出してしまってでは遅かった。

けれど、それよりきっと、俺はこの人と祖父について話したいのだと思った。



「月が少し翳っているな」


祖父が亡くなってからも、こまめに手入れのされている庭には、コロコロと虫の鳴く声と、奥からの賑やかな声が聴こえた。


「不躾な物言いかもしれませんが、貴方は祖父とどういった関係で」

「……血は繋がっていない。それしか言えない」


その言葉の持つ意味の深さに、俺はまたも口を噤んだが、今度は彼から口を開いた。


「ただ、悔やむことだけを生業にしている。

その人がどんなに自分とは関係がなかったとしても、人の人生なんてもんは分からない、いつぞやどこかで会っているやも知れない」

「悔やむ、こと」

「それだけが、俺に出来る唯一のことだ」


そんなことはない筈だろう。

でも何故かは分からない、彼の身体から漂っているものが、確かにそのように思わせる何かを含んでいた。

彼が纏う、煙なのかもしれない。

そう思った。


「煙は、川なんです」

「?」

「紫煙が立つところから川は生まれ、そこから亡者は救いを導かれる。そう、昔お坊さんに言われました」


その人は、哀ともなんとも形容しがたいような表情を浮かべ、苦し紛れに声を出した。


「…………

もしそうなら、彼女はもう、救われただろうか」

「え?」

「……なんでもない」


か細い、消え入るような声だった。

彼は徐にポケットから煙草を取り出し、火をつけた。

吐き出す煙が、夏の短夜に筋を描いては消えていく。


「煙、か」


彼は、その消え入る先までも、

いつまでもその両瞳で見つめていた。



「お世話になりました」

「こちらこそ、酔っ払い共の相手してくれてありがとうねえ。またいつでも来てな」

「はい。必ず」


畦道を振り返ると、祖母は俺達が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。


「ねえ、母さん」

「なんだい」

「人って、いつか救われるものだろうか」

「……難しい問いだねえ。

でも母さんは、そう思っているよ」

「あの人も、……救われるといい」

「ん?」

「いや、なんでもない」


どこからともなく、夕暮れ空を別つような紫煙が、彼の陽炎に沈む姿を慈しむかのように匂い立っていた。

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