夕陽彩の刻
――――何者にも惑わされることなく、正しき道を歩む者よ。汝に正しき祝福を
そんな声が聞こえたような気がした。
「カナン……カナン……」
誰かが呼んでいる。
けれど、温かく光が溢れて心地良くて目を醒ます気にはなれなかった。
呼んでいるのは誰だろう?
お兄ちゃん?
お母さん? ……お父さん? ―――そんな筈ないか……
だってそんなハズない、知りもしない幸せな記憶。
「カナン?」
相変わらず呼ぶ声は続いている。
でも、もう少しだけこの光の中にいたい。
(う、う~ん……)
なに、なに、何かが頬を濡らす。
「もうちょっと寝かせて~」
もう少し。もう少しだけこの中にいたい。
「カナン! 起きなさい!!」
(ぎゃ、ひょっとして居眠りしてた?)
「ごめんなさいっっっ! 先生~~」
「げっ! グレイ!!」
声に(馴染み深い叱責の声に)飛び起きると其処にはグレイのなんだか不機嫌そうな表情があった。
「何が、『ごめんなさい、先生』だか。貴女の学生時代の様子が手にとるように分りますよ」
うっ。
「しかも、心配して貴女の目覚めを待っていたというのに……『もうちょっと寝かせて』ですか」
ううっ~いきなり容赦ないなぁ~
「ごめ……」
けど。
私がごめんなさい――と謝ろうとした時
「良くやりましたね……、カナン」
グレイの表情がふっと優しくなった。それはいつもの如何にも『作られた』って感じの笑顔じゃなくって、多分初めて見るグレイの『本当に』笑った表情だった。
ぽかん……というのが正にその時の私の心情。
見惚れていたというのかもしれないけれど、それよりは呆気に取られてたって感じ。グレイは最初っから愛想が良くって笑顔が絶えなかったけれど、何処か自分の感情を素直に出すようなことはなかったから、酷く新鮮に見えたんだよね。
「カナン?」
ぼーっとグレイを見続け、何の反応もしない私にグレイは訝しげな表情を作った。
「へ? ……へっ」
上半身を起こして結果的には見詰め合って固まっていた私が変な声を上げたのは私とグレイの他に何かがこの場に居ることに気がついたから。
その何かを見下ろすと、其処には尻尾を千切れんばかりに振り可愛らしく擦り寄ってくる子犬。
「お前も無事だったんだね」
手を差し出すと子犬はぺろぺろと私の手を舐め始めた。そっか、さっき頬っぺたに濡れた感覚があったのはこのコかぁ~。嬉しさに抱き上げると今度は顔中を舐めてきた、大歓迎されたみたい。
そっか。
助かったんだ。
上手くいったんだ……
ようやくその実感が湧いてきた。辺りを見廻すと、結界に引き込まれる前にいた森の中。
そうか戻ってこられたんだ……
「グレイ……ありがとう」
私は子犬を抱き上げながらまだ知り合って間もないのに何度か言った感謝の言葉を口にする。
何回も助けられちゃってるんだなぁ~って改めて思う。
「助かったのって、このコも一緒に助かったのってグレイのお蔭だよ」
私の感謝の言葉にグレイの表情が曇った。
「別に感謝などする必要はありません。それが私の務めですから」
グレイ?
彼の顔からさっきの笑みが退いた。
「その犬のことも……」
グレイが顔を背ける。
「感謝することなどありません。許せなかっただけですから」
グレイの口の端にどこか自嘲気味な笑みが張り付く。
「弱いモノが許せなかっただけなのです。力の強いモノに好きなように扱われ、このように尻尾を振って生きることしかできない弱いモノが……」
グレイが振り向き、改めて私を見詰めた。その瞳には真剣な光があった。さっきまでの穏やかな笑みはもう何処にもない。
「カナン」
呼びかける声にももう何処にもさっきの柔らかさはない。
「強くおなりなさい」
「グレイ?」
私はグレイの急変についていけなかった。
「どんな高邁な理想を持っていても、それが叶えられなければ嘲りにあうだけです。力が……力がなければ弱者は所詮虐げられるのです」
何故だかそれは私に向けて発せられた言葉だというのにグレイが自分に言い聞かせているように思えた。
「強くなりなさい、カナン。誰よりも」
グレイ?
何故急に彼がそんなことを言い出したのか。この時の私に分る筈はなかった。
ただグレイには私が分ってあげられない心の痛みがあるのだ―――と感じずにはいられなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道は酷く気まずかった。
グレイは押し黙ったままだったし、子犬は疲れたのか腕の中で眠ってしまった。途中子犬が重いなぁって思っているとグレイが子犬を抱き上げてくれたけど、その時も無言のままだった。
そして、今も何か考え込んでいるのか口を真一文字に結んで取り付く島もないって感じで。
とぼとぼ……って感じでついつい足元を見ながら歩いてしまう。
何だか急にグレイが遠くに行ってしまったような気がした。すぐ傍にいてくれるのに。
少しづつ少しづつ、空からオレンジ色の光がやって来る。
もう夕方なんだ~
木々の切れ間から西の空に沈もうとする太陽が見える。足元には闇が、空にはオレンジの色が交差して夕暮れの色を作り出す。その一瞬の不可思議な色は毎日見ても見飽きることなく変化があって、見惚れるには充分だった。歩きまわって疲れた足が自然に止まって、山の端が染まるのを見ていた。
「カナン?」
グレイが立ち止まった私に声をかけた。
「どうかしたのですか?」
「すごっ……綺麗な夕焼け……」
私はただ見惚れた、今日一日であったいろいろな出来事を忘れるぐらいに。
「そうなのですか?」
グレイは訝しげに私を見た。
「そうだよ~。グレイは綺麗だって思わないの?」
私の言葉にグレイが少しだけ困った表情をした。
「すみません。私には見えないのです」
「え?」
グレイの言葉の意味が一瞬分らなかった。
「この瞳は光を映さないのです」
「ご、ごめん。そんな風には全然見えなかったから……。」
私は酷いことを言ってしまったのだと思った。慌てて口を押さえたがもう言葉は戻らない。
「いえ、そう見ていただけたなら何の問題もないということですから。実際何も不自由はないのですよ。全てのものの形、有形のものも無形のものもイメージとして分りますし。色は流石に感じ取れませんが、嘗ては見えていたので想像はつきますから」
余程私の口振りは落ち込んでいたのかグレイが慌ててフォローを入れてくれた。
「前は見えていたの?」
「ええ、この眼はある願いと引き換えに光を失ったのです。」
精霊魔術には秘術として伝わる特殊な魔法が幾つかある。私には詳しくは分らないけれど、その中でも特殊な触媒を使う魔法があるらしい。触媒と言うよりはどちらかというと贄という方が相応しいかもしれない。つまり己の力の一部を触媒として捧げ願いを叶えるという魔法だ。
私はそのグレイの言葉の意味に息を呑んだ。
グレイには
グレイにはそんなにも希うことがあったんだ。光を失っても叶えたいほどの。
「……そのお願いは叶ったの?」
暫らく言葉が出てこなかった。でも、どうしても聞きたかったから搾り出すように声にしてみた。
「……さあどうでしょうか。まだ分らないのです」
グレイはまた困った表情をした。ひどく、ひどく……。そして、なんだか哀しそうに見えた。
「どうして?」
「探さなくてはいけないから。叶ったかどうかは私自身が探し当てなければ分らないのです」
「そっか、見つかると……叶うといいね」
私は笑った。そうしなくてはいけないような気がしたから。
「そうだ! 手伝ってあげるよ。ね、それって何を探せばいいの?」
グレイが何だか目を瞠った。
「ありがとうございます。けれど、それは私自身で探さなければ意味がないのです。ですから、内緒です」
そして、なんとなく悪戯っぽく笑った。
「何それ~、グレイのケチ!」
変なの。何だか「内緒」だって言われたことが悲しかった。
「……ケチ? ですか?」
グレイが吹きだすように笑った。可笑しくって堪らないって感じで。
ムカッ!コイツってば実は笑い上戸だったの~~~
一頻り笑った後、グレイが私を見た。
「ああ、そうだ。カナン、一つだけ目が見えなくて不自由なことがあるのですが、教えてくださいますか?」
やっぱりとても綺麗な瞳だった。何も映ってはいないというのに。
「何? 私で教えてあげられることならいいんだけど?」
その瞳に吸い込まれそうになりながら私は訊ねた。
「貴女の瞳や髪の色、知りたくても私には分りません、教えていただけますか?」
なんだか……なんだか急に頬が熱くなった。
なんでだろう?
「…………聞いてがっかりしない?」
「何故ですか?」
「だって、私、綺麗じゃないもん。髪だって赤っぽい茶色のクセ毛だし、瞳は大きいだけでこの国じゃありふれた緑色だし……そばかすだってあるし、スタイルだってそんなに良くないし……」
……って、あれ?聞かれてないことまで言った?
グレイがくすくす笑っている。
「がっかりなどしませんよ」
「てきと~なこと言ってない?」
「いいえ」
(いいえ……きっと……)
グレイは彼女の分らないところで言葉を呑みこんだ。何かを思い出して。そして、何かを想って。
目が見えなくても不自由しないなんて…蝙蝠?とか思ってしまいました。格好よく書いてあげられなくてごめんなさい。そして、こんな話におつきあいいただき本当にありがとうございます。感謝を込めて。