第3話「ギターが高すぎて泣いた」
俺がギターを初めて手にしたのは十四歳のときだった。
親の部屋に転がっていた安いアコギを勝手に弾いて、Eのコードが鳴った瞬間に何かが弾けた。世界が変わった、とまでは言わない。でも確かに、俺の中に何かが生まれた。
それからは音楽漬けだった。ビジュアル系のバンドにどっぷりはまって、ギターを抱えて寝て、ライブハウスに通い詰めた。専門学校に行ったのも、バイトしたのも、工場に就職したのも、全部ギターのためだった。
ただ、時代が悪かった。
俺が本気でバンドをやろうとした頃には、ビジュアル系はもうオワコン扱いされていた。全盛期は遠い昔の話で、シーンは縮小して、ライブハウスのフロアはガラガラで、「今さらビジュアル系?」という空気が漂っていた。好きなものを好きと言うだけで笑われる時代だった。
それでも諦めきれなかった。諦めきれないまま工場に就職して、諦めきれないまま死んだ。
だから山田蓮として目覚めた今も、頭の中にはギターのことしかなかった。
学校から帰る道に、楽器屋があった。
気づいたのは偶然だった。商店街の外れ、レコード屋の二軒隣。ショーウィンドウに何本かのギターが飾ってある。俺は吸い込まれるように中に入った。
店内はこじんまりしていた。ギター、ベース、アンプ、エフェクター。壁にずらりと楽器が掛けられている。匂いまで現代の楽器屋と同じだった。木と金属と、少しだけ埃の混じった匂い。
(やっぱりギターはいいな。)
一本一本眺めながら歩いた。フェンダー、ギブソン、フェルナンデス。形は同じでも、なんとなく質感が違う気がした。
値札に目をやった瞬間、俺の足が止まった。
『ストラトキャスター 198,000円』
(…は?)
二度見した。三度見した。変わらなかった。
(198,000円。十九万八千円。)
現代でも高い。1982年の高校生の小遣いで出せる金額じゃない。というか大人でもきつい。
隣のレスポールを見た。『220,000円』。その隣の国産ギターを見た。『89,000円』。
(安い方でも八万九千円。)
俺はそっとショーウィンドウから離れた。
その夜、夕食の席で思い切って切り出してみた。
「なあ、ギター買いたいんやけど」
箸が止まった。父親が新聞から顔を上げた。母親が味噌汁をよそう手を止めた。
沈黙が三秒続いた。
「ギター?」
父親の声のトーンが、一段下がった。
「うん。バンドやりたくて」
「バンド」
また繰り返した。父親は新聞をゆっくり折り畳んだ。嫌な予感がした。
「そんなもんで飯が食えるか」
「食えるようになりたい」
「なれるわけがない」
断言だった。可能性を検討する気すらない口調だった。
(カチン。)
来た。俺の中で何かに火がついた。
「なんでそう言い切れるんですか」
「言い切れる。そんな夢みたいな話、」
「夢みたいな話でも本気でやろうとしてる人間がいる。
やってみる前から無理って言うのはおかしい」
父親が眉をひそめた。母親が「蓮」と小声で言った。
でも止まらなかった。
「俺はギターが好きで、音楽が好きで、それで生きていきたい。それの何がいけないんですか。やってみて失敗するのと、やらずに後悔するのと、どっちがマシか、俺はやってみた方がマシだと思ってる」
沈黙が落ちた。
父親は俺をじっと見た。何も言わなかった。また新聞を開いた。会話終了の合図だった。
俺は飯を食い終えて、自分の部屋に戻った。
布団に倒れ込んで、天井を見上げた。
心臓がまだどきどきしていた。手が少し震えていた。
(俺、あんな熱くなれたんか。)
自分でも驚いていた。現代にいた頃の霧島蓮は、親とあんな風に言い合ったことがあっただろうか。夢を語るときに、あんなに真剣な声が出ただろうか。
(だから昭和の人たちは暑苦しかったんかな。)
ふとそう思った。夢とか、根性とか、熱さとか。現代じゃ少し恥ずかしいとされるようなことを、この時代の人間は真顔で言う。真顔でぶつかってくる。
でも今夜、俺もそれをやった。
(悪くないな。)
胸の奥がじんわりと温かかった。
翌日の昼休み、佐々木に相談してみた。
「バイトって何があるかな」
「バイト?お前バイトすんの?何に使うん」
「ギター買いたくて」
佐々木は少し考えてから言った。
「新聞配達とか、工場の単純作業とか?あとは飲食やな。でも高校生雇ってくれるとこ少ないで」
(少ない。)
現代なら求人アプリを開けば一瞬だ。でもここは1982年。求人情報は新聞の折り込みチラシか、店頭の貼り紙か、口コミか。それだけだ。
「あと時給も安いで。俺の兄ちゃん工場で働いてるけど、時給五百円くらいやって」
俺は頭の中で計算した。89,000円のギターを買うのに、時給500円で働いたとして、178時間。
(しんどい。)
でも、やるしかない。昨夜あれだけ啖呵を切ったんだ。諦めたら終わりだ。
放課後、俺はもう一度楽器屋に寄った。今度は中古コーナーを眺めた。傷だらけのストラトが49,000円。ネックが少し反ったレスポールが35,000円。
(まだ高い。)
でも、これが現実だった。
店主のおじさんが声をかけてきた。
「高校生か?何か探してるか?」
「ギター、買いたくて。でも高くて」
おじさんはしばらく俺を見てから、奥から一本引っ張り出してきた。ボロボロのフェルナンデスだった。
「これ、28,000円。音は悪くないで」
俺はそれを手に取った。ネックを握った瞬間、指が思い出した。霧島蓮として弾いていた、あの感覚。
(やっぱりギターはいいな。)
目の奥が少し熱くなった。
「…考えます」
俺はギターを丁寧に戻して、店を出た。
外はもう夕暮れだった。商店街に夕飯の匂いが漂っている。
28,000円。時給500円で56時間。
昨夜の父親の顔が浮かんだ。
(やったるか。)
俺は家に向かって歩き始めた。歩幅が、少しだけ大きくなっていた。




